第111話 古木のあった場所

 うたかた、だろうか。むらさきに光る花びらの山に、深々と埋もれて。それは動かざるものでなく渦をまき攪拌しうつりゆき、さりながら閑かに凪いでいて。そのかがよう海のなかにいて、ゆるやかにたゆたう。うたかた、だろうか。円やかに生じたものの、すぐにみなもにゆき弾けるでなく内部にとどまりつづけていて。自ら留まっているのか、留められているのか、本来の位置であるのか、いずれともつかぬわけがあるものか、判然とはせぬものの、少なくとも苦しさだとか辛さ、窮屈さのなく、むしろ快く。ということは、意識の表層に表れていないだけで、吾が望んでのことだろうか。・・・・そんなことが。いや、そうかもしれない。水のおもに、しずく花の色さやかにも、君がみかげの思おゆるかな。

 幾重にも積みかさなり、折りかさなりして濃やかになめらかに流るるむらさきの光のたなごころのなかに抱かれていて。それが開かれたのだろうか、そして持ちあげられ、浮かみ上がらされてゆくのだろうか。包みこまれていた被いが次第にはがれ落ちてゆくように、個という自己が露わになりーー形成されーーはじめ、それは別の観点からすれば濁りであり騒がしさであり。純一なものから切りはなされ、雑駁なところへとほうり出され、雑駁な存在のひとつとなりはててゆく。ほうり出された、とか、雑駁というのは、それだけ元あるところに馴染み安らかでいられたからであって。白い地平を、切り裂く黒い傷痕。ところどころに点々とついたシミ。ミンミンゼミの音の耳について。

「気ィとりもどしはったんかなぁ」

 ゆったりとしたもの言いの翁の声。そよ風にゆれる白いものは卓上に置かれた紙で、そこに線で描かれたものと、そのまわりに記されてある文字と数字。それは川の図、であろうか。リウの方にむかい、四方に枝わかれしていて。そのまわりにある波線は波及するさまを表現しているのだろうか。そして、数字や文字はなにを。記されたものはともかくも、平面的な引かれた線が、閃くように立体的に色をのせて浮き立ちあがり。それは水の流れではなく、いや、水の流れであることは間違いではなかったものの、地を這いしみゆきつつ進むそれでなく、自らうちに引きこみ隅々まで行きわたらせ立つ樹、であって。葉を繁らせ、むらさきの花房の爛漫と咲き誇りて。圧倒するような巨きな古木であり、彩る数多の花々は、見たこともないほど大ぶりで、しなやかな手のようで。天人、天女がいたらその手はかくや、と思わせられるような華奢で優美な花弁。合掌している姿から、開き、差しのべるようすとなり、救わんと身をささげるように散華する。羽衣の舞いおちるようにひらひらと降りかかり、それらはこうべを、肩を、ひそやかに撫でさすりすべりゆき。慈悲深い母性の存在の胸に抱かれ、背を撫でさすられするように。首を肩にあずけて。痛む箇所にふれ、手あてされてゆくが如く。幾度も幾度も、慈しみながら。そして表れるのは、はたして叡智や覚りなのであろうか。どうしてもそうとは、リウには感ぜられずにいて。おのおのに知らず識らずのうちにつもり積もった曇り、芥をはらりはらりと払いのけてくれていて、それにより曇りを拭われ芥のとり除かれ、澄んだ状態で直くものを見、ものを考えられるようになる、というのが本当のところのようで。曇りや芥、濁りというものが人を個という繋がりの切れたものと認識させているわけだったが、その状態こそが実は痛みであり、膿んだ傷を抱えこんでいることであるゆえに。痛み苦しんでいることを常態としている吾ら。それに気づかされた瞬間に見える光景。垣間見えたものをあたかも自ら考えだしたかのようにとり違えて誇り、生活の足しとしたりそれを持てるものは同じ人やケモノを下にあつかうものとしてゆき、感謝したり恩を感じることのゆめさらなく。思い到れるだけの時をもてぬ(保てぬ)、ということもあろうけれども、それとて己がせいでしかなく、それに気づき得ぬとしても、森羅万象存ずるもので己が作り成したものなどひとつとしてなくーーその己が身も心とてーー、あたえられしもの、授けられしものでしかないことは、誰に教わらずともおのずから理解できるはずのことであったのだが。さりながら分からぬものばかりで、もしかするとそのように仕組まれて生みだされた存在であるのやもしれぬ。人、というものは。そして閃光の如くたまゆらの間に見え、聞こえ、感じられるものをとらえ受けとりするものがツチの声を聞くもの。天授と呼ばれるようになったものたちで、見聞したものをつたえる役割を担っていたもの。かつては。ツチに目を向けさせようとしている運動とも言えたが、それは次第に潰えてゆき。表層として見れば、権力を掌握したい、言い方をかえれば得られる分け前の取り分を増やしたいがためにジュデにされた(追いだされた)わけであったが、それは何も当時天長や天礼の座にいたもの、周りのものらの私利私欲からのこと、ばかりではなかろう。人民の心のありようが、そういう決定を欲したといえそうであって。総意がかたちを成しただけのこと。人が頂点にあり、他は人のためにあるとするのが都合がよく、都合がよいとも考えもせず当たり前となり、アメばかり仰ぎ見、ツチはただ踏みにじり蹴るだけのものとして。それすら厭い、ツチから離れよう離れようとしているのではないか。はたして離れられるものなのだろうか、ツチなくして立ち得るものなのか、一切考えおよぶことすらなく。

「・・・・カミユイの木」

 リウの口からこぼれ落つるつぶやき。椀にぎりぎりまで湛えられた水にひとしずく落ち、表面張力の崩れ、あふれ出たかのように自分がでに思いもかけぬ間に。あっと驚く間とてなく、ようよう反応しようとしたとき、

「そやねぇ」

 コヅキの鷹揚に笑いをふくむ声。その前におかれた紙に引かれた線と文字と数字とが、リウにはそう起ち上がるように捉えられたから口にしたまでであったが、その目のむかう先からのものであることをコヅキから察せられたものだろう、苦笑というのか嘲りというのか、そういう類の笑いなのだろうか、とリウはおそるおそる面をあげて。つるりと滑らかなヒョウタンのようなかしらの翁は、表情は読みにくいものの皮肉にくちびるを歪めるでなく、どこか満足そうであり、肯いてみせる。それはリウに対して、ではなくリウの後ろに控えていたキライにむけたものらしかったが。

「天授というものが、まつりごとに携わっていた時代に、宮中の庭にはそれはそれは大きなカミユイの樹があったそうでなぁ。ああ、それはあべこべかしらん。大きなカミユイの樹があったからこそ、そこがまつりごとをつかさどるもんが棲まうにええ、としたんかもしれんねぇ」

 細められ、皺で埋もれそうな眼眸には、あたかもその巨大な幹が、青々と照る葉が、そして燦然と笑み、舞いおりする花々が映っているかように我を忘れたかのように陶然とした面つきをし。そこには薄水いろの空もあるようで、鴨の羽いろから深藍いろまでとりどりに彩られ深々と裾をひろげる緑の山があらわれ。・・・・にわかに幕を下ろしたかのように暗くおおわれる風景。はッとして翁の焦点が目のまえにいる者をとらえ、余裕を見せ笑んでいた顔つきに緊張がはしり、そのまなこに恐れと思しき影が過り。が、コヅキはすぐに立てなおし、ちいさく咳払いをすると、

「しかし、そら怖ろしくなるほどの力もったはるなぁ」

 心もち青ざめた面つきをゆるませようとしている様子に、何を言っているのか分からずリウは戸惑い。もしかすると今見えたものは相手が思い描いていたものであったのだろうか。仮にそうだとして、それを覚ることができることもまた尋常なことではなさそうだったが、何となくそのことは問うことのあたわず。キライはともかくとして、セヒョとリョウヤの目が気になりもして。セヒョは幾らか脚をくずし、リョウヤは姿勢を正したままであったが見うけを認められたためか、肩がおりていて。二人とも好奇の眼をむけてくるでもなかったが。

「あの絵は」

 そうはいっても、自分をなにか特別ででもあるかのように言われるのは居心地がよろしくなく、話題をかえようと切りだす。

「あの絵とは」

 羽ばたく鳥の見えたものをとり出したような景色。水縹、というより、より近いものでいえば後に薄水いろとよばれるようになった色の空を背景に、鴨の羽いろから深藍いろまでとりどりに彩られた深々とした緑の山。訊きかえされ、その絵の説明をしながら、その相手の細められた双眸のうちから、先ほど見えた光景とおなじではないかと心づき。相槌を打つようにゆっくりと首をゆらしながら、さり気なく観察するような鋭い眼をむけてくる翁。

「・・・・それがあなたの手によるものだと聞いたもので」

 なんの魂胆があって、と探られているようでリウはたじろぎ、こと葉に詰まる。そうは見せないようにされながらも、ものものしい気色であることと、言うまでもなく単なる思いつきで、思い出したことを苦しまぎれに出しただけのことであったから。もとより関心を惹かれたからこそまがりなりにも記憶に残っていたわけであり、

「きれいな風景で、いってみたいな、とか、なんだか懐かしいような気もされたので」

 と弁解がましく言い添えて。無意味どころか蛇足であったのやもしれぬが。

「ああ、あれなぁ。いまはたしか居間にかけられてあるんやったか。あの掛け軸のをいうてるんやろぉ」

 そうか、掛け軸の山の絵と言えばよかったのだ、と今さら気がつくも後の祭。迂遠な言いまわしとなってしまい、それは狙ってではなくあくまでもおのが粗忽さゆえにであり、赤面しそうになりながら肯くと、

「えらいおじょうず言わはるなぁ」

 コヅキがうすい笑い声をあげ、いや、おべっかだったりではなくとリウが慌てて訂正しようとしたとき、

「そういうてもらうとお世辞でもうれしいもんやわぁ。つれづれの筆さすみやけどなぁ。しろひとの」

 後からキライから聞かされたことによると、コヅキの名(雅号)は好事家らの間で鳴り響き、商人から皇族まで所望するものは引きもきらず、その世界では彼の絵をもつことがひとつの権威、というのか格をつけることになってあるのだとか。その心理だとか絵のよしあしは分からぬものの、その場にふく風だとかそよぎ、虫や鳥の奏でる音、草や花やケモノや、それらの変化してゆき濾過され土となり水となりしてゆく匂い、ゆらぎさざめきまでとらえられ描かれているように感ぜられ、リウの気をとらえたもので。みなもを掠める鳥影。ひっそりとした可憐なワレモコウ。

「わかってて言うたわけやないみたいやけどぉ、どっかでわかったはるんやろなぁ。この下絵は、いま話したかつてあったカミユイの大木やし、本宅のほうにあるあの屏風のんは、カミユイの大木がたっていたあたりをかいたものやさかいなぁ」

 先ほどの話では、巨きな古木を包みこむようにして御所が建てられたと言っていて、あの絵にはそれらしいものは見えなかったはずだが。遷都してよほど昔となり、跡形もなくなったところを描いたものであったものか。疑問を読みとられたのか、

「まぁそのものやないけどなぁ。ヘイ、いうんかなぁ」

 ヘイ。ヘイとは一体なんのことだろうか。目を落とし、紙を見つめて。そこに答えがあるわけでもなく。そよ風でかすかに揺れ。ニイニイゼミの声が耳につき。ああ、屋敷を囲う、塀のことかと気がついたときにはコヅキの話のつづきがはじまっていて。

「かつてお宮は、山ん中にあってな。と、いうんは、言うたとおり、カミユイの大木がそこにあったからやねんけど。ようさん人が住まうにはてきとうやないとこで、ようさん人が住まうとことの往き来が難儀や、ということもあって、お宮をいまの位置にうつすことになって。わてらのオヤ(先祖)さんは反対したけど、ほかの二天がそう決めて、民草もそれを歓迎したらしくてそうなったらしいわ」

「そうなると、(天授が)出た、とか追いだされたというわけでなく・・・・」

 顎をあげたリウは、コヅキの肯定する目に会い、

「住むところでいえば、置きざりにされた、いえるなぁ。焼き討ちされるでなく、そうする脅威ももたれんかったんやろし。オヤさんらは、おだやか、いうんか、平らかなこというて煙たがられて、そんなにここがええなら、ここにいとき、てほかされたわけやからなぁ」

 それで何ゆえに末裔はそこから離れ、反物屋をする仕儀となったのものだろうか。

「住みにくいいうたかて、住めないわけやない。どぎつい人らが好きなようなどぎついもんを楽しむのに不自由するいうだけのことでなぁ。民草ひとくちに言うても、いろいろいてなぁ。オヤさんを慕ってまわりに住むもんもいてた。流れもんや、人としてあつかわれんもんもおって、今もおるわけやけど、オヤさんは別することなくつきおうてはったから。・・・・あたりまえのことやねんけどなぁ。身分だのカタガキだの、そんなん人がつくったものやねんから」

 そして、生きとし生けるもののなかで、人が一等偉く、尊く、他のものはなべて人の生存のため、利便性のための道具でしかないことも、また勘違いでしかなく。コヅキの語ることを受けてそう思いながら、躰のうちから沸々と熱く湧いてくるものをリウは感じていて。怒りだとか感情が激してきているものか。それもあるのかもしれなかったが、感激に近いようでもあり。見えぬ(知らぬ)でいたものの、何となくおぼろに見えていたものが、ようよう輪郭があらわれ、かたちが見えはじめた、というような具合で。翁はそんな大姪の息子をあからさまにではなくではあったが、満足げに眺め、

「そのままゆけば、今もわてらもそこにおったんやろけど、そやないやんなぁ。なんでや、おもう?」

 問われ、リウは答えられずにいると、はじめから期待されていなかったもようで、さまで間をおかず、

「ゆくたてはわからへんのやども、快適なとこに移り住んだ天長さんと天礼さんで、はじめは仲良うしてはったらしいけどなぁ、なんやらケンカ別れしはって、天礼さんは追いだされたんか飛びだしたんか、まぁいずれにせよ出てゆくことなったやんなぁ。それはそれで、お好きにやったらええことや、知ったこっちゃないがなぁ。そやし、出るにしても住まうとこが必要なるやん、あたりまえになぁ。で、すぐすぐああいう、偉い尊いとじぶんを思ったはる方々にみあうとこなんて見つけられへんし、つくることできひんやんなぁ。それでぇ」

 含むように濁らせ、分かるやろと言うふうに目のいろで語るコヅキの言を継ぎ、

「・・・・そこにいた人を追いやって、住みこむことにしたわけですね」

「そやろねぇ。みずから譲りわたし出てゆくなんてありえへんやろおもうわ。代々オヤさんらが護ってきた、いんや、護られてきたいうたほうが正しいんかなぁ、つかえる対象であるカミユイの大木があったから、二天がうつるというんに従わなかったわけやし」

「・・・・そして、ふたたび戻ってきたというのか、追いだし住みこみ、わがものとした者らが、カミユイの樹を」

 切りたおし、大いなる生命を断った、とまでリウには言いきることのかなわず絶句し。話のながれからすんなり予測のつくことではあったが、息をのみ。息のとまり。それはなにも驚きや悲憤等内面的な反応にとどまらず、肉体的に痛みをともなって。梢に、幹に、根に打ちおろされる刃。木っ端の散り、花びらの踏みしだかれ、喰いいり切り裂かれ。どうしてこの耳を聾せんばかりの慟哭、断末魔が聞こえないのだろうか。その響きが。虫もケモノも草も木も感じて震え、ツチもアメにも反響しているというのに。地割れ、天落つる。なにをやっているのか、分かっているのか。それは神のふとい気であり、生きとし生けるもののタマの緒のみなもとなるもの。自然、吾ら人のタマの緒の、ものでもあるのに。

「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

 いずこかたよりか翁の声をとらえ、それに縋り、引き上げられるように意識をとりもどす。同時に龍笛の音を聞いたようにも思い、シュガが閃くも、いるわけなどなく、うつつに笛の音などなくて。ただ、緊張のほの見えながらも彫りもののように表情をくずさないコヅキが目の前にいて、

「力がありすぎるのも難儀なもんやわ。とりあつかうすべ、覚えなあかんでぇ。じぶんだけやない、大事なもんにまで害およぼしてまうことになりかねんのやからなぁ」

 はたしてそれが具体的になにを指しているものなのか、自分に当てはまるものであるのかリウには判断がつかなかったものの、息切れしそうなほどの疲労感と痛みの余韻に、そうであるのかもしれぬと理屈ぬきに得心のゆき。観察するような眼をむけているセヒョ。怪訝な顔で見ているリョウヤ。コヅキからも、後ろにいるらしいキライからも、吾はどのように映っているのか、とふと気にかかる。大したことのないものであろうに、と平生どおり思いかけ、いや、と立ちどまり。大したことがあるかどうかは別として、どれだけ自分のことを分かっているのだろうか、と思いあたり。とにもかくにも、みずからを抑制し制御する術を会得しなければ他のものを傷つける可能性があるのであれば習わねばならぬし、セヒョはここがなくとも平気だとして、リョウヤを受けいれてもらえたわけで(吾がここから去るとしたところで、リョウヤを追いだすことはよもやあるまいとは思われるが)、しばらく居を据えさせてもらわねばならぬことは理解のおよび、お願いしますと低頭し。

「もう、ほんまそんなんせんでもええんやからなぁ。あんさんの母親をあないな目にあわせたんのはあてらに非があるわけや。そのちょっとの罪ほろぼしだけでも、なんでもあらへんことやしなぁ」

 翁の面つきにさしてさざ波の立たなかったものの、こと葉のうちに、心なしかしめり気がおびているように感ぜられ。なにもそれは責任だとか血統を重んじての発言ではない、ということがすずろに伝わりきて。大姪である母を可愛がっていたこと、いまも愛おしんでいるだろうことがうち寄せてくるように胸に響いてきて。それは吾にもむけられているものなのだろうと感ぜられて、同調したのか胸がつまり、目頭の熱くなり。初対面の印象もあって、ひねた冷えた心根のものと思っていたが、どうやらそうではないらしいと分かりかけてきて、気がつくと、すいませんと謝っていて、

「どないしてん」

 問われるも正直に言えることでもなくて、焦り必死に思案をめぐらし、

「・・・・あの、いろいろと厄介かけたり、頼みごとを受けいれてもらって」

 と絞りだすように口にしながら、はっと思い出し、

「ニジもはいってきたみたいなので・・・・」

 ニジの分の水や食べるものをお願いしたいと言い終えるまえに、こと葉を失う。相手の露わに見せた反応に気圧されて。ひと度も大きなうごきを見せなかったコヅキが目を見ひらき、凝視してきて。へぇッと、背後からキライの間の抜けたかすかな声のあがり。何かおかしなことでも言っただろうか、とリウはたじろいでいると、

「ニジいうたら」

 キライが怯えてでもいるかのような震えた声で言うと、コヅキがあさく肯き、

「そやなぁ。なんも気づかへんかったけど、ニジやったらあり得るかもしれへんわぁ。わての張る結界なんぞものの数やないやろから」

 困惑していたリウであったが、ニジとは神獣の名であることに思いあたり、しいて笑いを作り、自分では状態めかしながらーー吾ながらうまくなく、わざとらしく見えているだろうとは思いながらーー、両班の屋敷で出会い、懐いてくれている黒猫だということを話し。出会ったとき、まだ小さくか弱く見えたため、強く生きて欲しいと名づけたのだ、とも。

「ふんふん、そうなんやなぁ」

 と翁は表情をおさめながらも、目のいろは明らかに変わっていて。間違いない、という確信をもてたというように。

「なんぼか元気にならはったみたいですけど、病みあがりでつい先まで杖つかな歩かれへんかったお人で、外歩かはってきてお疲れやとおもいますさかい、そろそろ休んでもろたほえがええんちゃいますやろか」

「ほやなぁ。気づかんと、えらい長くはなししてもうて。えらい堪忍え。こちらの二人(セヒョとリョウヤ)とはもすこしはなしさせてもらうとして」

 いえ、そんなにくたびれても、と応えようと首を左右にふろうとしてめまいを覚え、確かにそうかもしれないと素直に従うことにする。キライに助けられ起ちあがりながら、やはりよろめきそうになりながら室を辞そうとしたとき、あの掛け軸に描かれたところ、かつてカミユイの大樹があったところとはいずこであるのか、ふっと気になりふり返って聞き、

「ああ、・・・・山なぁ。都とは逆側の山間。そこのふもとに、あるわ。いまは天礼さんらがおる」

 何となしに聞いたことではあったが、打たれたように硬直し、足がかたまる。麓に、シラギ山の。

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