第108話 雨のなか
紅白いり混じったもの。黄。ふかきすおう。黄と紅のいり混じったもの。オシロイバナ特有のくっきりした色彩の花々が、ほころびはじめるやいなや濡らされてゆき。しぼみ、代わってシノノメ草の花々が笑みはじめてもなお、濡らしつづけるこぬか雨。日の落ち、また登り、曇天のためつねよりうす暗く紗のかかったように明るみあらわれてくる庭の情景を、リウは座敷の寝床に横たわりながら眺めていて。ひと眠りもせず一心に、というわけでもなく、睡りのあさく度々目が醒めるなか、眺めるとするでなくぼんやり目をむけていたものではあったけれども。さりながら無聊のつれづれというほど気のなく、でもなく。さめざめと濡れ移りゆく情景は、すずろに吾がうちに起こりしことを観じているようにも思われて。立ちこめる闇を裂き、瞬間的にあたりを浮かび上がらせるむらさきの光線。間をおいてうすく轟く音。昨夜見た稲光がよぎり。カワズの輪唱が、遠くから、近くから、共鳴するようにおきていて。不可思議に感じ、聞こうと思いながら忘れている、つまりそう気にかかることでもない、ささいであろうことのひとつあり。心にうつりゆくよしなしことをそこはかとなく思い浮かべたもののひとつ、というのか。強い日が射し込む間のほかは、あげられているスダレ。下ろしてほしければそうしてくれるだろうし、リウ自身じかに外を見たいため上げていてもらっていることに不快は何もなかったのだが、あわく不思議に思うのは、蚊帳を吊さず蚊やりらしいものもなく、蚊どころか羽虫も蛾も室内にはいってこないところで。屋敷まわりに網がかけかれている、というわけもなく(それだけの巨大な網で繭のように被うというのは現実的ではまずなかろうし)、庭に虫がいないわけでなく。トンボ、ハチ、チョウ、セミ等が飛んでいるさまを実際目にしていたわけであって。蚊やりらしい蚊やりがないだけで、なにか特殊な、臭くもないものが仕掛けられてあるのかもしれない。室内と外の境には何もないように見えるものの、見えないだけで繋がりを断つ大きな違いがあるのだろうかと思ったりもする。別空間というのか。それでいて、草花の香、水気をふくんだ風などが流れきたるわけではあって、その見立てもふさわしくないのかと思ったりするわけだったが。
これくらい床についているのは、初めてではないだろうか。水戸やからであるから、朝昼晩の五つがすぎて。暑気あたりではなさそうであるし、さりとてどこか痛かったり苦しかったりもなく。ただ怠く、力のはいるべきところに、力のはいり留まらない感覚で、上半身をおこしているだけでも気を張ってでないとあたわず。歩けないこともなかったが、よたよたと覚束ず、壁など手をかけてゆかないと進むことのかなわず。シラギ山から降り、都のうちに来たころまでは異常はなく、いま少しで水戸やが見えてくるという地点で意識が遠くなったのだったが、その辺りで何かあったろうか。いや、知らず識らず不調が積もり積もっていて、町中の暑さや人いきれにあてられて一気に噴出してしまったものか。そう脆弱だとは思わないものの、さりとて頑健だといいきれる自信もなく、そういうことはあり得ないとはいえないだろう。関係のあるのかないのか、多分ないだろうと思われるが、倒れるすこし前にあった人だかりが思いおこされ。何とはなしに足を止め見物するに、熱弁をふるう者のいて、為政者には非難を浴びせ、天礼を称賛し、天礼こそ上にいただく価値があると説きつづけ。セヒョだとかキライによると、最近弁じる者が辻に立つようになったのだとか。もともと天長と祭司長のやり方(まつりごと)に疑問や不満は民草のなかで言いかわされていたものだったが、表立って口にする者のなく、というのもその手のものに知れたらただでは済まなかったからで、ために北の辺土の田舎育ちのリウが未だに慣れぬ、そして苦手な婉曲なもの言いが発達し、しっぽを掴まれぬ程度に揶揄した歌もつくられ流行ったりするわけで。それが両班の屋敷内に者らが惨殺された上焼き討ちされたことだとか、祭司長の指図で牛車に乗せられた良家の子女らが皆殺しにされたことがあり、その子女らとおなじい年の子らが十数年前に大量にカミ隠しにあったことまで人の口の端にのぼるようになり、そのカミとはあの方々であろうと推察され、どうやらあの両班もあの方々の逆鱗に触れるようなことをしていたかららしい、というようなことがまことしやかに語られるようになっていたのだそうな。そして、今まで見たこともないヌエというモノノケが出没するようになり、宮中にいるものはなす術もなく悩まされているばかり。少数派ではあったが、ヌエとは天の神の使いであり、非を鳴らすためにつかわされたのではないか、という者もいるそうで。つまりあの方々は倫を外れているから、だと。そういう忿懣だとか恐れ、得体の知れない数々のことに対する回答として、堂々と弁ずる者があらわれるようになり、現れるやいなや喝采されて受けいれられていった模様。さりながらおひざ元ではあり、検非違使の目が光っているはずだったが、見張りでも立てて来そうとなればうまくとんずらをかましているのか何なのか、引っ立てられることのなく上手くやっているものらしい。さりとて引っ立てたり処分しようものなら、余計おカミに対する反発はつよまるばかりであろうから、もしかすると今のところはさまで害がないと判断し見逃しているだけなのかもしれぬ。そうはいっても、天長、祭司長はよくない、天礼がよいと不敬この上ないことを、直截に主張しているわけであり、見逃しておける範疇の内容ではなさそうではあったのだが。そして、ここ数日間でリウは知ったことにより、それでは天礼が代わってまつりごとを司るにふさわしいかどうか疑わしくもなってきていて。それを知らなければ、天礼のほうがいいと、あらまほしと素直に肯け、同調できていたかもしれぬのだけれども。天長、祭司長よりはたして天礼の方がよいものか、もしかするとそうではないのかもしれないと思えてきて。そうはいっても判定できるだけの材料がなく、それだけの能力を吾が持ちあわせているものかどうか不明でもあり。いずれにせよ吾がどう思おうが考えようが、それでなにかが変わるわけでもなく、変えたいと願うわけでもなく。ただし、吾よりも材料がすくないらしい数多のものらが、辻に立つ者の煽動にのろうとする気色が、言い方をかえれば口車に乗せられ、乗ってゆくさまが訝しくもそら恐ろしくも感ぜられてならず。人は、自分の聞きたいことしか聞かず、聞きたいようにしか聞かないということなのだろうが、はたしてそれでよいものなのだろうか。自分らにとって好ましいものになることを望み、そうなると願っての選択のはずなのだが、他人の意見を鵜呑みにし乗ることが、真実自分に好ましいものになると無条件に信じられのはなにゆえであろうか。言いように扱われるかもしれないとは案じないのだろうか。その心理が不可解でならず、さりながら解を導き出すことをリウにはできず、考えつづける気力もなくて、漠然たる不安を、黒雲がひろがるように胸中に抱えこんでいるばかり。もどかしくも。そのためもあって、というわけでもなさそうではあったが、リウはすこし戸外を歩いてみたい気持の湧いてきて。まだまだふらつかずに歩けそうもなかったが、ゆっくり散策ならできそうかと思い。断念するよう止められるかと思いつつも、キライを通しコヅキにお伺いを立てると、
「ええんちゃう、ということです。そやけど・・・・」
ただし、小雨とはいえ濡れるのはことにいまの状態では躰に毒になるため笠と蓑を身につけ、手ぬぐいでほっかむりをすること。セヒョに付いてゆかせるが、転んだりしないよう杖をつくように、とコヅキからの指示もしくは条件を伝えられて。ずいぶん過保護というか、大げさに身づくろいさせられることよと多少違和感や呆れる心もちのなくはなかったものの、具合が芳しくない状態であることはたしかであり、支えるものがないと倒れてしまう恐れがあり、いちいちセヒョを煩わせることは避けたいし、不調の原因がいまひとつ掴めない今、なにが元に悪化するとも知れないわけで、ともかくも拒まれなかったことがうれしく、抗わずに従うこととして。用意されたものは、かやいろ、はりずりという煮つめたような、着古したような色あいのウスモノと下ばきと帯と手ぬぐいで、手にとった質感で間近でよくよく見れば上等な染めと布とつくりであることは素人であるリウにも判るものではあるものの、年ふりた人にはしっくりくるであろう色調で、かつ老年な上、裕福そうには見えないだろうことを彷彿させられるもので。このような色のものがよい、という望みはことになく、不満はなかったものの、どうしてわざわざこのようないでたちをさせるのだろうか、と微かに小首を傾げはしたもので。もっともことさら意図などないのかもしれず、こだわりもなく、いただいたものなので抵抗なく着がえ。杖はブナらしく、かるく手によく馴染む。すべて身につけ、そろりそろりと三和土のところまでゆくと、すでに菅笠をかぶり托鉢僧の姿で立って待っていたセヒョに認められるやいなや呵々大笑され、
「なんや、どこぞのご隠居さんや。間違ってはいりこんでしまったんかいな。じいさん、あちこち徘徊しとったらあかんで。ましてやよそさまの家にあがりこんで。帰ろうな、送っていってやるさかいに」
格好についてはつゆさら構わず気にならなかったが、頭にモヤがかかったようにすっきりせず軽いめまいがするなかで、杖にすがりながら懸命にむかっているなかであったため、ちょっといらッと来たものの、たしかにしぐさも老人の如く見えるだろうと客観視でき、声をだすまでもゆかぬ笑いのこぼれ落ち。意想外に、キライをはじめ誰も見送りにあらわれず、ほら、じいさん足もと気いつけてなとセヒョに付きそわれて門戸から出。
シノノメ草の花が閉じ、草むらにヒルガオの花の咲き。はっと弾かれたように、リウは足をとどめ。傍目には、緩慢にとまったようにしか見えず、老人が疲れてうなだれ、ひと休みしているくらいにしか思われないだろう姿ではあったが。ツユクサの群青に目をうたれたもので。ひっそり控えめな小さな花ではあるけれど、そのけざやかな色が、雲の裂け目からのぞきはじめた蒼穹であるかのように、ぼんやりと曇った頭のうちにも澄んだ明るさが射しこみ。それがきっかけとなったものか、払われてゆくように徐々に意識が霽れてゆき。イタドリだとかシロザの大きくのびたものの繁る、町はずれにコヅキの屋敷はあって。水戸やとちがい堂々としたかまえの門があるわけでなし、敷地や建物も比べれば狭くちいさくはあったが、店舗とそれに携わる部分のちがいのようで、そこを外してみればもしかするとこちらの方が宏壮であるかもしれぬ。さまざま着こんではいたけれど、通気性のよいものばかりであり、霧状の雨のそぼ降るなか、かそけき風に涼やかさのあって。竹林や藪で隠されるようにあり、地味で目立たぬ造りではあったが。隣接する人家もなく、人通りもなく、人目を気にする人にとっては逍遙するにちょうど良い環境ではあるようで。万が一人がいたとしても、いまのリウの格好からリウだと認識できる者はまずなさそうで、遠くまでゆけまいと踏まれもしたことでだろう、ゆえに外出をすんなり許可されたものだろうが、リウはそこまでコヅキらを推察してゆくことなく、晴れ晴れとした気持になり杖を突きながら歩をすすめていて。次第に杖をもつ位置が高くなってゆき、歩みも早くなってゆき。
「どないしたん。じいさん、若がえってきたみたいやん。トキジクのカグのコのミでも食べたんかいな」
そうセヒョからからかわれ、背を叩かれて、トキジクのカグのコのミとは何のことか分からぬながらも、いつかどこかで聞いたことのある、実際にあるものかどうか若返りの水のようなものだろうとは判断がつき、笑い声を立てて。さまで大きな声ではなかったが。月夜見の持てるおち水い取り来て。戯れ言ではあり、若返るのともまたちがうものの、よみがえる、恢復するという謂では、あながち間違いともいえなさそうであり、どころか的確といえなくもなさそうと心づき、そうだねと肯いてみせ。若返ったせいか、すこしでも町中にいってみたくなり、危ぶまれるかとためらいつつそう言うと、
「かまへんとちゃうか。どこ行ったらあかんとも言われてへんし。なんやらけったいな、知られたらあかんようなやつがおったとしても、まず誰かわからへんやろしな」
拍子抜けするほどあっさりと肯首すると、セヒョは屋敷に断りに走るでなく、そのまま賑やかなほうへ足をむけて。いずれにしろ即決即断されることはなかろうと思っていたこともあってまごつき、少しよろめいて杖に縋りながら足を出し、ふと上をむいて、目を疑う。ニレの樹の梢のあたりの空間に、黒々と開く亀裂を認め。亀裂、もしくは穴。楕円というには寸詰まりな、動きのある、鋭利な棘のようなもののある・・・・一羽のカラスがとまっているのだとようよう気のつき、自身に微苦笑していると、セヒョからもの問いたげな気色で、
「どないしたん。あるくのしんどいんか」
「・・・・なんだか、あそこにいるカラスが気になったもんで」
自分ですらなぜ引っかかったのか分からぬ。大方単なる見間違いにしかすぎぬことであり、特段意味のなさそうなことであったから、他人からしたら余計とるにたらぬことであろうし、呆れられるだろうと思い恥ずかしくもあったが、うまくはぐらかすこともかなわずに答えると、
「カラス、なぁ。近くのどっかにおるん?」
セヒョが左見右見し。隠れているわけでもないしすぐ見つけられるだろうに、ふざけてわざと見落としているふりをしているのだろうかと思うも、どうもそうではないらしい様子で。さもない、どうでも良いことだろうと思いつつも、ふり返り手をむけつつニレの樹の方をむいたリウも、セヒョのしぐさが感染したように首をまわすこととなり。青、紫、緑の光沢をおびた濡羽いろの鳥の姿が、洞穴に潜りんだかのようにかき消えていて。話している間に、どこかへ飛び去ったことに、気づかなかっただけのことかもしれない。それにしても羽音の立つだろうに、聞き落とすものだろうか。セヒョはそのニレの樹とむき合う格好でいたわけだから、飛び去ったとしても目と耳で認められていたはずであったが。いや、視界にありながら飛びたち去ることに気のつけないという可能性が皆無、ということもなかろうし。リウは暫時考えこみ、背筋にうっすり寒気が走り。はたして本当になにかがいたものだろうか。いたとして、カラスであったのだろうか。霞の如く湧くうすい怯えは、まっ昼間にこの世ならざるものを見てしまったのか、ということよりも、在りもしないものを在るように錯覚してしまったものだろうか、という疑いの強く。認知にまで異常が出てきたのだろうか、と。
案じられるのは恥ずかしく、煩わしくもあり、見間違いであったらしいと言おうとしたとき、ニレの根方から黒き四つ足が飛び出してきて。うわッとのけ反りそうになりながら、杖にすがって堪え。咬みついてきたりするものであれば逃げるにしかずだが、そうでなくとも普段から機敏ではないのにましてや今の状態では。大蛇が獲物をしとめにぬめり滑りきたるように、黒きケモノが迫り来る。無駄とは知りつつ杖さきで払おうとしながらも、どこかから、待てよと止めるもののあって。あ、と思ったときには、脛のあたりに触れていて。ふわりと柔らかな毛なみの感触。萌黄いろのつぶらな眸子を見上げてくるその黒猫を、ニジと見わけ。シュガに会いにシラギ山へゆくときに付いてきて、シュガの籠もる洞穴のまえまで導いてくれた後、往く方知れずになっていて気にかかっていたものだったが。そうはいっても、気にかかりながらも次々とおこり積み重なり、変転がありして、大分下の層になっていて見えづらくなっていたことは事実ではあったが、夜道にほの明るいともしびを見つけたに近いよろこびの湧き。両脛の附近にツムリや胴をこすりつけてくるニジに、よたよたと膝をおり、手をのばして撫でる、までゆけぬもののともかく指でふれられて。どこに行っていたのか問い、答えなどあろうはずもなく、実際のところ反応などどうでもよいことでもあり、そばに来てくれて、いや、まず生きていてくれてありがとうと伝えると、伝わったものかどうか身を離し、馳せゆきてコヅキの屋敷にむかってゆく。はたして門内にはいったものかどうか不分明ではあったが、大丈夫だろうと見送りながら思う。
腰をあげセヒョと向きあい、菅笠のなかのいぶかる色のある双眸と出会い、戸惑う。ネコと親しむことに違和感をもつような人であるのだろうか。ちょっと考えて、そういえば彼はニジを知らなかったことに思いいたり。ならんで歩いてゆくなかで、都に連れてこられて下働きにはいったところで出会い、つねに一緒に暮らしているわけではなく、所在の分からないときが多かったが、吾が住む場所場所に現れてくれること。つい先ではシラギ山で別れたこと。ときに尾いて歩いてくれたこと、等々ぽつりぽつりと思いうかぶままに話してゆき。得心がいったものかどうか、セヒョは黙然と聞いていて。そんなに考えこむことだろうか、とちらりと見やり、さりとて顔色が見えるわけでなく、考えこんでいるわけでなく関心がなくて、べつのことを思案したりしているのかもしれないと思う。その方が自然であるように感ぜられ。
・・・も昔は凡夫なり われらも終には・・・
いづれも・・・具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
雨のした、雨具をつけるでなく、しなしなシナをつくり、野太いだみ声で歌い踊る四人のおのこ。ぶ厚く白粉を塗りたくり、炎天下というのに厚手の羽織りもの。かつその衣や帯のいろたるや、海棠いろ、おもいろ、から紅、ひとえ梅。それらがまだらに濡れているのは雨によるものであるのか、体液なのか。なよやかにしようと努めているようではあったが、地均しでもしているのかとおもうほど大地に足裏をうちつけうちつけし。汗の散り、白粉のくずれ流れ。売り子がおのこのみの、色街で名のとおったカジュという店にいる者たちで、客引きや周知のための恒例の催しだそうで、かつ度胸をつけるという意味あいもあってか新入りのなすことなのだそうな。町中にはいるやいなや出くわしたのがこの四人と見物人で、これらのありさまや喧噪だけで体感温度が上昇してしまうようで、げんなりさせられなくもなかったが、しごきというものでもあろうか気の毒といえばあまりに気の毒で、
「たいへんだね」
「ほんまほんま、たいへんなやつらやな」
セヒョとの会話が、どうも噛みあってないような気のされたものの、こぬか雨でいささか涼やかとはいえ町中はまた違い(気温のみならず景物、音も)、歩いてきたこともあって暑くなってきて、またくたびれてきたこともあって、聞きかえしもせずに流して。持ち上がってきていた背がまたぞろ下りてきた、ということはないものの杖にしがみつきよろよろと進むさまは、どう見てもあか抜けない翁にしか見えず。ましてや隣に頑健そうな巨体の僧形がいたものだから対比でなおさら。
「それにしても、ずいぶん人が多いような気がするけれど、こんなものだったっけ。出あるくことはほとんどなかったし、数日ぶりにきたからそうかんじるのか」
「もうすこしで、アラタマ祭があるやんか。そういうんもあるらしいで」
「アラタマ?」
アラタマ祭とは宮中で催される最重要なものらしく、天祖に対し、天長みずからその年にとれた稲穂を供え感謝申し上げ、民草のさらなら五穀豊穣を祈る儀式なのだとか。分からないため思わず聞きかえしたものの、さまで興味があったわけでもなく、聞いても変わらず。逆に疑問をおぼえ。どうして天なる神にだけ感謝するのだろうか、と。そういえば、母は、天と地にむけて額づいていたこと、言っていたことを思い出しもして。
「恵みというもの、幸というものは、天からもたらされるものだという。それは誤りでないけれど、それだけしかいわない、祝わないのは、はたしてどうなのか」
さりながらゆっくり疑問だとか不満を噛みしめている余裕もない状態であり。老齢のものと思われてだろう、避けてはくれるしセヒョが手をそえたりしてくれはするが、人通りが繁く、人ごみを分け入ることに気をつかわされ、削られてゆき。セヒョの袖をつかみ、戻りたいとつたえ。息があがり、青ざめていることをも察せられたらしく、
「そやな、そうしよか。あるけるんか。あるけないんやったら・・・・」
背負ってくれるなり、何かしら乗り物を調達しようというのだろうか。そこまでしてもらわなくても、多分平気だとは思い、首をかるく左右にふってみせ。きびすを返し、杖と足を踏みだしたとき、視界を風車がよぎり、ふっと気になってわらべの手にした紅白にまわる玩具に見入ってしまい。
「どないしたん。あるかれへんようなったんか」
と心配されて、そういうのではないから平気だと応えながら、なにゆえ惹かれるのか吾ながら不思議で眺めていると、風車をもってゆき過ぎたわらべのいた位置から少し離れたところに、見覚えのある姿をとらえ。慌ててセヒョの袖をひき、それとなく指をさして連れてきてくれるよう頼む。リョウヤと見てとったからで、セヒョに伴われきたのは、はたせるかなそうで。
「ごめんね、おどろかせて。なにか用事の途中であったかもしれないし」
髪も単衣もしっとり水気を吸い、しおれた容子からあてどなく歩いていたろうことの推しはかれはしていたものの。セヒョのいまの成りは以前見たことがあるからまだしも、リウが何者であるかすぐには分からなかったらしく初め警戒しハナを啜っていたが、目を見、声を聞き表情がやわらぐ。
「具合がよくなくていま、あるところにお世話になってるんだけど、もしよかったら来てくれないかな。人手があって困らないだろうところだし、はなし相手になってもらえると助かるし」
人手が不足しているかどうか、話し相手にいれてもらえるかどうかリウには分かりようもないことではあったが、もう見捨てておくことなどできようか。あの灰汁のつよい母親がからんできて厄介なことになりそうではあったが。コヅキ、おトモ、ミズクミに手をつき頭を下げ、這いつくばっても、と。ただし、それもリョウヤの気持次第ではあるわけで。リョウヤはひらめくような明るい顔を見せたかと思うと、すぐに沈んだ面つきとなり。そうそう上手い話などない、期待するだけ損だ、という諦め、ふて腐れがあるのか。そうなるにはそうなるだけの過程があったことであろうし。
「前、いうたな。まだ小僧っこやから道は狭い、ひとつしかないて思ってまうやろけど、そやないて。どんなイヤなとこでも馴れてまえば快適、にはならんでも、なんやらそれが当たり前になってもうて、そこから飛びだすんが怖くなってまうのもわかるわ。でもな、このままでええんやろか。自分はこのままでええとして、そろそろ追いだされるころやろし。なんもないとこに。それはそれで酷やけど、なんかあるとこにやられたら(売られたら)よけい難儀なことなるやろしな。つきとばされるか、自分が出るか、てときが間近かもなぁ。そういうとき、わるい話やないおもう。オレはともかくも、こん人(リウ)は信頼できひんのかなぁ」
リウは思いきって、リョウヤの両の手をにぎりしめ。振りはなされるかもしれないと思ったが、びくっとしながらもされるがままになっていて。リョウヤの濡れた手は冷えていて、染みとおるような淋しさ、心細さに震えていて。よく分かる気のされて、もろ手をかさねさせ、あたためるように両手で包みこむ。卵をあたため、孵るまで守ろうとするかの如く。
「だからといって、恩を感じて返さなければならないと重荷におもうこともないし。落ちついたとき、ほかに行きたいとこができたらそこに行くのも、いいだろうし」
話してゆきながら、なにもそういう先のことを案じたりして逡巡しているのではないとはっと思いあたり、
「大丈夫。心配しなくていいから」
と、心から断言してみせ、たなごころに思いを込めて。一瞬沈黙の間がうまれ、そして殻にヒビの入り、こくりとリョウヤのこうべが上下し。冷えた手に徐々にぬくもりが通い、脈うちはじめていて。そのリョウヤの清純なぬくもりによって、傷み縮んでいた部分が手あてされ、ゆるやかにほぐれ癒えてゆくような感覚をおぼえる。うつむくリョウヤの、小刻みにふるえる肩にふれて。抑えきれぬ感情の脈動し。細かな雨粒のなか、大粒のしずくのいくつも落ちて。
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