第103話 掛け軸のなかの絵

 いず方よりか聞こえくる、泣きじゃくる声。声を立てぬようにはしているらしく、抑えようとはしつつもこらえきれずに漏れ出でている気色。リウはふっと目を醒まし、しのび泣く声を聞くも、やることがあるため朝まだきから起きださねばならぬ身であるし、声を立てぬように努め泣いているということは知られたくないからであろうからそっとしてやるのが優しさだろうと、寝返りをうち。さりとていったん目が醒めてすぐに寝つけるものでもなく、低いものの途切れることなくつづく流涕音が耳をついてならず。深更のこととて、聞こえるものは松籟と、響きくるイヌの遠ぼえくらい。そんななかのものであるから余計耳につくのであろう。人の情が昂じてのものであり、そのありようを思わされもして、こういったときの蚊よりも気にかかり、払えるものでもなくて。起きあがり。ようすだけでも見にゆこうかと。何時からであるのか判らぬものの、ずいぶん長くつづいているように感ぜられるし、比較的近いところに潜んでいるらしくもあり。どうやらわらべのものであるらしく聞きなせてきて。このような夜更けにひとりで、かつここは他の人家よりだいぶん離れた場所にあり。そうであってみれば、泣いているところを見られたくないだろうという遠慮(配慮)は間違いでしかなかろうと、寝床をたってゆき、戸外へと出て。

 影と化し林立する松、松、松。あたかも巨大な牢の格子であるかのようにそびえ立つ。灯りをもってこなかったことに心づくも、月あかりのない樹間ではあっても夜目がきかぬでなし、慣れた場所であり蹴躓いたりはしなさそうであり、仮にしたところで大したことでもなく、取りにもどろうとはせずに。声のする方へとすり足で、幹に手をあてながらおずおずと進んでゆく。なかなか見つけ出せずにいて。ひとつ処にじっとうずくまりでもしているはずであったが。もしかするとふらふらとさまよいつつであろうか、もしくはこちらに気がつき逃げているのだろうかとも思いはしたものの、そのような気配も物音もせず。よほど住みなれているか大胆でなければ自由に歩きまわれる場所ではないし、いとけない声のようす、状況から彷徨いこんできてしまったとものと捉えるのが妥当でもあろうし。それにしてもいとけない身で、どうしてこんなところに。

 どッと松葉がなびき、目や耳や鼻や口をふさがれ。反射的に両腕をあげ、顔を手で覆って立ちどまり。ごうごうと吹き、馳せ去ってゆく。手をおろし、口のなかに土や木っ葉でも入ってしまったらしくじゃりじゃりするので、ぺっぺっとツバとともに吐きだし。このような穏やかな夜陰に突風が吹くとは珍しい、と意外に思え。珍しいというか、初めてのような気のされ。もっとも、日がな一日外にいるわけではないし、ましてやこの刻限には出ることなどなく。もしやテングのしわざ。ふとそう思い、かすかに寒気がしながら天を仰ぐ。鼻の長いモノノケはいなさそうで、枝や葉のすき間からのぞく星空。またたく砂子がけぶるように燦めく。天の川の一部だろうか。天でも洗濯をしたり、泳いだり、魚釣りをしたりするものだろうか。橋があるのだろうか。カササギがわたせる橋になるというけれど、常にわたれる橋は作れないものなのだろうか。とりとめもなくあどけないことを思いながら歩いていて、はっと目を落とす。その刹那にここにこうしている理由を思い出し、それは、目的らしきもの気配を認められたからであり。つい目の前の根方に、ちいさい人影に思しきものが。先ほどの突風で、そこにいる者も驚いたのか声をとめたようだったが、またぞろすすり泣きはじめていたもので、それで気がついたもので。どうやら、女わらべらしい。そっと近寄り、どうしたのとささやくように声をかけると、人影がびくりと大きく震え。しゃがみ込んでいたらしいが怯えてか、躰をおこし、逃げようとでもするような素振りで。

ーー大丈夫だよ、この近くに住む者で、こんな刻限に・・・・声が聞こえたものだから。どうしたの、こんなところにひとりで

 その者がこちらを向く。瞬間、キンと頭だとか胸のあたりに痛みが走り。すぐに止んだが、こめかみと胸の中央に指をあてて歩みよってゆき。何かしら事情があることは間違いなく、こんな中、やみくもに帰らせるのは好ましくないだろう。無論のこと、帰らせるにしろここから抜け出すのは容易なことではないはずで、闇夜でわらべであればなおのこと。まず自室に連れてゆき、水でもあたえて落ちつかせ、話を聞くことがよいのではなかろうか。無理に今夜中に帰らせずとも、泊めさせて明るくなってからでもかまわないわけで、むしろそうすべきかもしれぬし。差しだした手を不意につかまれ、ぎょっとして思わず引きぬこうとしてしまい。つかまれた手に当たったのは、猛禽類の巨大なかぎ爪。金属の冷たさで。枷をはめられたものか。陋屋へと曳かれてゆき閉じこめられるのであろうか。

 離せ、と口にして振りはなそう、引きぬこう。反射的にそうしようとしながら、からくも抑え。目睫の間で見れば、やはりそこにいた者はわらべであって、痩せ細って手が骨ばり、爪も伸びているようで、ために異様な感触であるらしく、そうであってみれば必要なことは振りはなそうとしたり引きぬこうとしたり怯えることではなく、いたわってやることだろう。自らのとろうとした言行を羞じらいながら、つかんでいる相手の手に指をあて、

ーーここにこうしていても、なんだから。とりあえず中にはいろうか

 と誘うと素直に肯き、起ちあがり。手を引かれて歩きだし。すでに泣きやんではいて。女わらべの足どりが覚束なく。どうやら視力がきかないらしい。暗夜だから、ではなさそうで、よくよく見ると、目隠しをしていて、それは晴眼者が何かしらの理由のためにというのでもないらしく。目立つ傷があったりして人目に晒したくないと、隠すもしくは隠させられることは珍しくなく。それにしても、こんな幼い、やつれた、かつ不自由をかかえたわらべがなぜ、こんな刻限に、こんな場所に。もしかすると、いや、もしかするとではなく、自分の意思ではなく、ここに。よりいっそう不憫になり。この辺りにクマだとかトラだとかオオカミだとかヤマイヌなどが出るとは聞いたことも目撃したこともないものの、深更にはどうか判らないし、毒蛇に咬まれるかもしれぬ。ケモノにかかわらず済んだとて、ほおっておかれていたら、衰弱し。・・・・だれがこんな真似を、と怒りが湧き。そういえば、こういったことをよくしていたものがいたと思うが、何ものであったか。身分の高い、最高峰にちかい、それこそ雲上人の。もしや、またぞろ、使いものにならぬと弾かれて捨てられたものなのだろうか。あたかも書き損じた上等で高価な紙を迷うことなく気楽に破り、まるめ、捨ててなんの痛痒も感じぬように。業師が材料から吟味し、日夜研究、研鑽を重ね作り成す紙は献上される側からすれば、単なる薄っぺらな白色の紙にすぎず、民草のいのちもまた、いくらでも代えのきき、いくらでも生えてくる雑草でしかないのだろう。虫けらくらいにしか感じていないだろう、と言っていた者がいて、その者自身がそうされたものであったが。


 ・・・・、ひろお、豆ひろお


 鬼のこぬ間に豆ひろお


 やしき田んぼに光るもの


 なんじゃなんじゃろ


 虫か、ホタルか、ホタルの虫か


 ・・・・・・


 いくらか安心したものか、腹をくくり気を紛らわすためか、女わらべが小声で唄いはじめ。何時か、いずこかで聞いたことのあるような唄。また、その声の質や、しるくは見えぬものの姿かたちに、なにか覚えのあるような気のされもして。どこかで会ったことのあるものなのか、だれかに似ているものなのか。そぞろに思い巡らしながら、女わらべと手をつなぎ歩んでいると、いつの間にか十字路に出ていて。松の樹間にいたはずであったが、知らず識らず人里まで降りてきてしまったものか。 注意散漫でいたため、全く別の方向へきてしまったものだろうか。無意識にでも帰りつけそうなものだけれども。


 やしき田んぼに光るもの


 なんじゃなんじゃろ


 虫か、ホタルか、ホタルの虫か


 虫でないのじゃ、目のたまじゃ


 女わらべの唄う声。が、それは間近から聞こえてくるものにあらず。手をつないでいたはずが、煙ででもあったものか姿がかき消えていて。声だけがかすかに漂い。人家はあるものの燈のついているところは一軒とてなく。月もなく星もない暗夜の往来。訪れたことのある場所ではあるようだったが、そうおぼろげに記憶があるばかりで、つまり確としたことではなく、だとしても来なれないところから文目もわかぬなか、はたして帰りつけるものだろうかと不安にかられ。女わらべも案じられるし。まずはわらべを探すことが先決だろうと判じ、声や気配のある方をつかもうと試み。さりながら、はたりと唄声の止み、気配も感ぜられぬようになり。どうしたものか、と思う。呼びかけてみようと口を開こうとしたとき、生ぬるい風が吹きつけてきて。古びた紗の如き質感のある大気の流れが、なぶるように躰を撫でさすってゆく。ケモノの死骸を思わせるような生臭さ。はっと打たれたように意識を集めてゆき、自然待ちかまえる格好になっていて。何かがじりじり近づいて来る気配を感じとり。なにものであろうか、との疑問はなくて。これは出会ったことのあるもの。だからこそ生ぬるい風の吹き、どろどろと黒雲が出ていて月も星も見えなくなっていたわけだと今さらながら得心し。だとすると女わらべは、その爪牙にかかってしまったものだろうか。それにしては叫び声ひとつなかったが、叫び声を立てる余裕すらなくてか。あまりに恐ろしいと声の出ぬものではあるし。そうではなく、どこかに身を潜めているのかもしれず。まっ先に察してのことであったのかもしれぬ。声をかけたりして知らせてくれたのかもしれないが、吾がぼんやりしていてそれに気づかなかった、ということであるのかもしれない。そう思いたく、ふり仰ぐ。それは、上空を駆けてくるものと分かっていたからで。そうは言っても、どう対処したらよいものか、はたして対処でき得るものなのか見当もつかず、自信もなく。遁れようにも逃げこむ場所がどこにあるのだろうか。人家はあるものの、寝しずまったなかのことであり、さらに物騒な昨今でもあり、容易に戸を開けてはもらえまいし、仮に開けてもらえたとしてそれまでに追いつかれずにいられるものであろうか。それ以前に、戸まで無事に行きつけるものであろうか。天に現れたケモノの影。背をむけても無駄だ、とだけは理解し、向き合い。ひょう、ひょうと威嚇するような声をあげ、後ろ足に力を込め、飛びかからんとする姿勢をとったヌエ。まだ、こんなところで斃れるわけにはゆかぬ、と奮いたつ。がくがく震えの止まらぬ脚を踏んばり、両腕をあげて。

 だッと風圧とともにヌエが襲い来たる。仰向けに地面に押し倒されて。かろうじて後頭部を打たずにすみ。腕を咬まれた、と思うもトラの前脚でもって抑えつけられているだけで、上半身から下半身にかけては後ろ脚に踏みしめられて抑えつけられていて。しゅうしゅうと毒蛇が牙をむきうごめく気配。間近に迫りくるサルの頭。粘りのある唾液をしたたらせて剥く、牙。噛みつき、喰い裂かれる。・・・・

 抑えつけられていた腕をあげよう、声をあげようして、思うように腕のあがらず、声の出ず。仰向けになり耳を聾せんとするばかりの動悸と混乱のなかでも、冷静に違和感を覚えはじめていて。相変わらず視界はきかぬものの眼前からは異形のものが消えていて、のし掛かってくる重しがはずれていて、異様な濁りが雲散していて。生臭さも霧消し、ほのかに白檀や沈香やらの入り混じったものが薫り高くたゆたい。桐の葉がおちたように、意識の霽れて。その瞬間、閃くように往来で打つかってきた女わらべがあらわれ、夢だろうか今さっきまで共にいた女わらべと同一人物であったように思われ。気にかかっていて、あらわれたものだろうか。それにしても、あのわらべ唄は、どこかで。あの女わらべが、どうしてこう気にかかってくるものなのか。黄いろの花びらの群れのかすめ、流れ。


 息吹きはなちて、もちさすらいて・・・・


 そう声がし、それがあたかも号令であったかのように呼び醒まされてまぶたの開き。まず目にはいってきたものは、磨きこまれ、黒曜石のように照る梁で。ひたいに冷んやり湿ったものがあてられていて、手をあげて触れてみて、濡らした手ぬぐいだと知り。薫りよく澄んで明るい一室。頭部を触れるためにあげていた手を捕らえられ。無機質な手械、ではなく、乾いて厚いたなごころと指で。

「気がついたようやな」

 ほっとした声がし、それは男声で。手を握っていたのはセヒョであることを見てとったとき、同時に他にも人がいること、見知らぬ室内にいて蒲団に横たえられていたことにも心づき。板のわたされた一角にキキョウが活けられていて、その背景に掛け軸のあり。その軸の狭いところには、いずこであるのか深山の見える上空からの空間を切り出したような景色。水縹、というより、より近いものでいえば後に薄水いろとよばれるようになった色の空を背景に、鴨の羽いろから深藍いろまでとりどりに彩られた深々とした緑の山が裾をひろげ。すずろに懐かしいような思いのわき。さりとてゆっくり思いにふけってもいられず。開け放たれた窓や戸には青々としたスダレのかかり。見も知らぬ場所にいて、上等な布と仕立ての蒲団に横たわっていて、介抱されていたのだろう、セヒョの他、スケとカク、面識のない媼に囲まれていて。慌てて起き直り、寝具から出ようとするもめまいに襲われ、セヒョの手にすがり背を支えられ。ここは一体。何があったのか。揺れの収まらず話すだけの余裕もなくて、セヒョの双眸に視線をあわせ、目で問いかけると、

「ええて、ええて。無理に起きようとせんでも」

 張りのある女声。くだけたもの言いだが、品のあり。自力で身を起こしておこうとするも力がはいらず、やむなくセヒョにもたれ掛かったまま媼の方へ目をむけて、何とかお辞儀をしようとしたのを読みとられたのか、

「ええて、ええて。かしこまらんで。本来ここにいて、大きい顔してられる立場なんやさかいな」

 楊梅いろのうすものに利休いろの帯をあわせ。たっぷりある白髪を簡素にまとめ。七十、ことによると八十までいっているのか、それでありながら肌に艶があり、目に力のあり。目の勢いだけ見れば、三十、四十くらいととれなくもなく。勝ち気そうではあったが、諧謔も持ちあわせているらしく磊落に笑い。なにか懐かしいような、親しいものをリウは感じ。意地悪そうであったり陰険そうであったり酷薄そうであったりはせず、居丈高ではないものの、明らかに身分の高さを思わせる話ぶり身のこなしで親しみをとても持てそうもない類の人ではあったが。その活気に溢れる表情だとか声の具合から、全面的に迎えいれてくる色を感じとれていたからであり、それに加えて、母のまなざしを思わせもしたからでもあり。リウは怯むことなく面をあげていられて。もう大丈夫と、セヒョに離れてもらい。それなりに居ずまいを正し、受け入れてもらえているという印象はあくまでも自分のもつものであり、全くの思いちがいかもしれず、おそるおそる切り出し、

「すみません。暑気あたりか、ご迷惑をおかけしてしまい。今日こちらへうかがったのは、お返辞をするためで」

「ああ、で、どないするん」

 直截に問われ、戸惑う。多分ミズクミの母親にあたる人であろうから構わないのかもしれぬ。なにに対する返辞であるかは問わなかったことからも、察せられ。さりながらためらいもあって。ミズクミに答える心づもりでいて、その気負いもあったためもあるし、はたして一枚岩であろうかという危惧もなくはなく。後々なにか厄介なことになるかもしれぬし、と。スケとカクの畏まり控える姿勢から、相手に対する見立ては間違いなさそうではあり、スケはことさら顔色をかえることはなかったが、カクの何ごとか言いたげな面つきが目にはいりもして。いずれにしてもこの人の耳にはいり意見が尊重される立場であろうし、スケとカクが正確なところを伝えもするだろうと推しはかり、

「断ろうと思っています。ひとりの人としてありたいので」

「他のもんなどどうでもええか。自分さえ、よければ」

 語気を荒げるでなく、血相をかえるでなく、瞳の奥をのぞき込むようにされて質され。つゆさら威すような気配はないものの固くなってしまう。さりながら、自分なりに本心を言おうと心を決めて、

「仮に吾がここの家の、そして・・・・を継ぐ者だとして、それをまっとうできるだけのことができるものか分かりませし。できたとして、結局、おなじことをしているだけとしか思えなくて。積年の恨みとか悲願とか。本来ある地位をとりかえすとか。意味(意義)のあることとは思えなくて。・・・・いいえ、まずはそういうことではなく、吾がそういうことを負いたくないではなく、他にいたい場所があって」

 相変わらず喉が本調子でない上、見据えられていて動揺もあり掠れ、たどたどしく途切れ途切れで拙いながらも、懸命に言い。他にいたい場所とは、他に一緒にいたい者と言いたかったことでもあり。伝わったろうか。スダレ越しにそよ風。

「わかったよ。マリヤの子にしてはずいぶん弱々しく頼りなげやないか、おもったけど」

 媼は機嫌を損ねるでなく満足げに笑いつつ、後ろにいるカクとスケにこうべを向け、

「自分をしっかり持ってるし、似たところがあるやんな。おもざしにも。なぁ、スケや」

 へぇ、とスケが短く返し。こちらに目をむけるわけでも何かしら表情を見せるわけでもなかったものの、ふっとリウは思う。ミズクミでなくこの人を居合わせ話すようにさせたのは、スケの采配ではないか、と。そのスケが頭を低げ、リウに媼の紹介をさせてくれと頼み。

「そやそや、名乗りあげてへんかったな。こっちばっかり知っとってな」

 スケがリウにむかいこうべを垂れながら、

「この方は総領であられるおトモさまです」

「ミズクミの姉じゃ。マリヤの、あんたさんの母親はわての姪やな」

 リウは恐縮して手をつき低頭し。身分柄から礼儀として、もなくはなかったが、曾祖母かと思っていたため、申しわけなさが強く。もとより口にしたわけでなく、そんなことは相手に分からないことではあったのだが、失礼であるし、見誤ったことが恥ずかしくもあって。

「ああ、そういうのいらんからな。孫みたいなもんなんやし。わかったよ、わては反対やないし、そうさせてやろ思う。ミズクミも、マリヤで懲りてる思うしな。懲りてないようなら、話つけたるし、よくよくな」

 おトモがあっさりと請けあってくれ、リウは拍子ぬけし、いささか訝りつつもほっと胸をなでおろし顔をあげると、

「そやけど、いまの状態でわけわからんとこに出すわけにはいかへんわ。またそこらでこけてひっくり返ってドタマかち割ったりしたらあかんしな。まずからだ休めることが肝心やな」

 居つくつもりもなく、断りにきた身で世話になるのは気がひけたが、確かにそういうおそれはあるし、店にいったところで満足に動けるかどうか心もとなく、何よりも、おトモに逆らうこと、厚意を無碍にすることのできかねて、ご厄介になりますと肯い。おトモはセヒョにも、おったらええわと言い。セヒョはこだわりなく、そうさせてもらいますわと受けとり。

「ああ、そやそや。カンジョン(もち米で作った菓子)欲しいわ。来るって分かっとったら用意させておいたんやけどな。カク、頼まれてんか。すこし遠いけど、いつものとこで(購入してくるように)な」

 言いつけられ、カクは刹那、角ばった顔面に不満そうな色を見せつつも、ふたつ返辞で出てゆき。もっとも、その不満は、お使いに往かされることではなく、リウの選択やそれをおトモが賛成したからであったようだったが。

「このあたりやと、あそこのが一等ましやからな」

 だれに言うともなしにおどけた気色で口にしていたおトモが、カクの足音が消えた途端表情を引き締め、リウと向き合い、

「・・・・今までのこと、憶えているかぎりはなしてんか」

 リウは、都に来ることになったことから語りおこし、両班の屋敷で奉公していたこと、そこにカミユイの木があり染め糸をしていたこと、出ることになりシュガとともにいたこと、祭司長の手によるものらしいから砦を襲われそこを出ることになったこと、そこからシュガに会いにいってきたことまで話してゆき。おトモに問いかけられつつ。おトモはシュガの出自を聞き、目を見開いたものの特にそこに拘泥して留めることなく、リウに語らせて。

 静寂のなか、香炉からうっすり立ちのぼる煙。青いスダレのかすかなゆれ。セヒョは聞いていたことでもあり、内心はともかく冷静で。カクはうつむき。膝をつかみ、感情の起伏を抑えている気色。リウは吐きだすように話し終えるのに必死でまわりの反応に気をとめている余裕もなくて、ようよう済んでぼんやりとしていて。セキレイだろうか、ちちちッとさえずる声の庭からして。暫時目をつむっていたおトモが、

「・・・・ほうか、ほうか。なるほどな。クダラ山の鬼いわれた、シュガというもんは、天礼の血ひくもんなんやな」

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