第100話 巡りあいて

 ごっちゃなわらす、玉もてではる


 ひんのわらすはくれえ玉


 すいのわらすはしれえ玉


 玉こばはこぶはおっがねぇ


 おっがねぇかみくだきもするニジの神


 ・・・・・・


 天より降りいずる水のながれ。いずかたよりか、唄う声のして。何時かいずこかで聞きおぼえのある気のされる、文句と、懐かしくやさしいささめく声。雨垂れがぽつりぽつりと樋をうつように、胸のあたりにやわらかくあたる律動。どうやら横たわり、微睡みのまにまに揺蕩っているものらしく。たまゆら、自己という形態の意識が浮かび上がるが如く、そのような思いが閃くも、凝固して形づくられたそれは直にほどけてひろがり檳榔子黒に同化して。世のなかは夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ。なにも見えず聞こえず嗅げず触れず。それはあらゆるものが欠けている、ということでなしに、逆にあらゆるものが充ち満ちて欠けたるものの微塵もなくて、ために万象同士に間隙などなく自他一如であるために。縁起をほどいた空の状態、ともいえようか。森羅万象の源である豊穣な泥の闇。静穏、といえばこれ以上の静穏な状態はなく他に求めるものなどあり得るべくものではないはずであったが、そも求めようとする自我自体がないわけであるわけで。さりながらも、ちくりちくりと突いてくるもののあり、おぼろに形成されてゆく己という意識。煩わしくて振りはらってしまい、もとのひとつに戻りたく(同化したい)はあるものの、突いてくるものは外部からではなく、ぽつりぽつりと内側からおこるものであり、それは個であったときに馴染み一体となった追憶であるらしく、しきりに揺さぶってもきて、それのひとつが唄をともなっていて。睡りのうちに送りだすためにある子守唄によって、全き状態からゆるやかに呼び起こされてゆくというわけか。降りそそぐ雨に洗いながされ、形があらわれてゆくように。せせらぎに磨かれ、角ばった石に、丸みと光沢のおびてゆくように。ながれ、染みいり、それはおのが内にも巡りゆききしていることに心づき。

 ふっとかそけく明るみ現れいずる、景色のひとかけら。日とか火、と言えるほどのけざやかなものではなく、根源の闇より薄く、荒くーー相済茶、いや、涅いろに近いかーー、それゆえに外皮にある光を捕らえ得ず、容易に漏らしてしまうからというだけのことらしく。しるく像を結ばず、かつそれは濃度の淡い闇とはいえ闇は闇であるため肉の眼では見定めることは困難を極めることであったが、原液たるものと繋がりの深く濃くあるなかで、というよりまだ一部であったため、手にとるように眺められ鮮明に聞こえ、一帯の気配を感じとることのあたう。六つに角をもたせた空間の内部。柱であろうか、それにしては屋根の梁まで達っすることのなく。中心に据えつけられ立つそれは、静物であることは間違いなさそうではあったが、縛りつけておかねば暴れ出し手のつけられぬ猛獣でもあるかのように幾重にも紐が巻かれ結わえつけられていて、四隅に配置せられた者らがおのおの紐を張らせるように引いてつかみ、おのおの途切れなく誦し。

ーー朱雀、玄武、白虎、匂陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍・・・・・・・

ーー・・・の神、名は阿明、・・・の神、名は祝良。・・・の神、名は巨乗、・・・の神、名は禺強、四かいの大神、・・・を退け・・・・・・

ーーあめのをき、つちのをき、あめのひれ、つちのひれ、あめのおむすび、つちのめむすび、ひのめおのさきみたま、つきの おめ の さきみたま・・・・・・

ーー・・・・・・ほのけ、みずのけ・・・・・・奇しき三津のひかりを・・・・・・しき光、天の火気、地の火気、振るべゆらゆらと、ひとふたみよ・・・・

 中央にあるもの。その傍に結わえつけられた大きな鳥かご。布を頭からすっぽりと被って全身を隠し、肌の一部分さえ見せずに紐の端を握り、誦する四方の者らのいる場景。その形態、外観としては平生と変わらぬようすではあったが、その声や放たれる気には心なしか乱れの感ぜられ。何ごとかあって、動揺しているものらしく、息切れし膝をついている者もいるらしく。かごの中に閉じ込められているものは、大きな動きを見せることなくいたものの、呼応してか、よく見れば力強く息づいているのが分かり。虎視眈々と力を発動させる機を待っているものか、そのために蓄えているらしい気色。解放されたとき、はたして抑えこめておける者がいるものかどうか。

 場面の転じ、日の燦々とはいり照らしだす一室。明るさを増幅させるためにか、壁を白い布で覆い、床にも白い布を敷き、そこに坐した女人がひとり。烏羽色の豊かな髪をうしろにし、ひとつに束ね、上は百合の白、袴はツバキの朱をうら若き身にまとい厳粛な面もちながら、もの馴れ落ちついたようすで目を伏せ、艶のある唇のまえに合わせたしなやかな手と手のあいだに息を吹きこむと柏手をうち、樒の葉に水を手向けて、あづさの弓をはじき鳴らしつつ、

ーー・・・・櫛をことよさしたてまつりて、・・・・櫛をさしたてまつて、夕日より朝日の照るにいたるまで、あまつのりとごとのふとのりとごとをもって・・・・、かくのらば、・・・・・・出でむ、それより下天のやい出でむ、ここを持ちて、天つ水と聞しめせとことよたてまつりき

 と、唱えていた口のとまり、指のとまり、かっと目を見ひらく。楚々としていた面が、忿怒なのか驚愕なのか、鬼気せまる形相に変じ、低く唸るような声を紡ぐ。

ーー・・・・の咒がはずされたは、大きなるまがつカミのツメがのび走りしためぞ。そのツメであり髪であり目であり耳であるものは消えたようでいて消えておらぬ。現れるぞよ。現れるぞよ。間もなくじゃ。すぐそこに、そこに。おお、現れ来るでないか、目が目がッ・・・・

 若き女人は坐したまま前に倒れこみ。片手を前にのばし、痙攣し。室内には他に二人ほど人がいて、見ていたものらしい。ふくみ笑いをする気配と、息をのむ気配。

ーーたしかに、あん人が口寄せしはったことに間違いなさそうですわ。何者かによってきれいさっぱり解かれたらしいですね。四神士らも感じとり恐れているらしいですし。情けない。そんなことができるのは邪なる大神でしかないでしょうが、若さまはお心を煩わされることなどあらしまへん。あれが解かれただけのこと、なんの痛痒もありませんわ。われわれにお任せいただき、ゆったりどっしり構えていてくださればええです

 ふくみ笑いをしたものが、仕えている相手に対してだろう言行としてはへりくだった姿勢をとり。二人の姿は見えず声だけではあったが、話していた方は失神している巫女よりもさらに年若らしく、若いというよりむしろ幼ささえ感じさせる高い声で。さりながらあどけなさの見えず、ものいいに抜け目ない狡猾さのある響きのありて。そして何十にも紗障で覆いつくしたように内面を見せようとはせぬ気色。目を凝らしてゆけばその核やその容姿も見えてきそうではあったが、その必要はないと誰かから告げられたように感じ退く。ただし、邪なる大神と口にした抑揚には、邪なるというわりには憎しみだとか忌む響きのなく、うらはらに待ち望み迎えたがる色が感ぜられてならず。そして焼けつくすような怒り、そこには裏打ちされた深い哀しみのあるらしいことが、突き刺さるように通底していて。必要はないと告げられたのは、見てゆくことによってその痛苦を引き受けるだけの労をとることなど要らぬ、という謂であるようで。


 ・・・・・・ニジの神


 はこぶはアメとツチとのゆうとこさ


 かっちゃのリルのふところさ


 ひとつにすべってツチならす


 サッコラサー


 サッコラサー


 目を離すと、春の雨だろうか、あたたかくやわらかく包みこむようにそぼ降るなかにいて。霧に近いくらいのかるいものであるし、へばりついてくるもののないため不快さのなく、快いくらいであり、あえて快いというまでの感触もなく、さまで気にならぬ程度の降りそそぐもの。どうやら草原のなかにいるらしい。霧が立ちこめていて遠くまでは見通せぬものの、すこし離れたところに立つシラカバの白い幹と枝の見え。いとけない砌に暮らした土地であるらしく。それに合わせてか手足がちいさくなっていて、手足のみならず躰全体逆行し、ぷっくりおさなくなっている模様。しゃがみ込み、地面を眺めながらすずろに思っていて、訝るというよりも違和感のつよく抱かされていて。それは先ほど聞いたものによりきたるもの。まがつカミだとか、邪なる神といわれているものは、複数あるものではなく一つの同じ存在を指しているらしいと感じ、そうはいうても具体的に神名があげられたわけでなくて、仮に発語されていたとしても、その方面の知識のほとんど欠けていたため判らなかったかもしれぬものの、知っている存在(神)であると直感では特定できていて。そしてそれが紛う方なくその存在であるとすれば、まがつとか邪なるという形容がつかわれるのがゆめさら理解がおよばず、訝るというよりも違和感のつよく抱かされていたわけで。はてしなく広く大きく深く有形無形のすべてを受けいれ、諸事万端の生々流転をふくみ、生と死の循環とは表面にあらわれる変化の一片でしかなく。その大いなる働き、母なる神にふさわしくなく、それは冒瀆というよりもとらえ方があまりに偏り卑小すぎるのではないかと思われてならず。山があったとして、そこで育まれた樹により住居を得られ暮らしにつかう道具を得られ、草や花やケモノにより命をたもち、病や怪我をなおしもする。地の震えにより岩が落ちてきて死んだり傷を負ったり、ごく希に噴火して甚大な被害を受けたからといって、山をまがつだとか邪なると貶したりするものだろうか、という簡単なことであり。そして山は母なる神の一部分であるわけで。非常に偏り、狭くちいさい範疇での評価にすぎないのではないか。そこから見えてくるものは、そういう範疇をとる立場にいる輩の有りようというめのであって。おそらく、人の立場としてはかなりの高位であるらしい。天長、祭司長らのところでは、どうやらなさそうで。人の分際としては、ではあるが、あの場所には強大な力を利用し運行せれしてあるらしいことが感ぜられていたもので。人として地位が高いということは、畢竟空間が狭まり、それはとらえ方をかえれば意識が縮まる、ということになるのだろうか。手足をのびのび解放させることのかなわず、縮こまり猫背で屈まり。それは必死でつかみ、死守しようとしている姿であるのかもしれぬ。それほど後生大事にするようなしろものとは、とうてい思えぬしろものではあるのだが。

 姿を見ずにすました含み笑いの女人の声にはどうも聞き覚えがあるような気のされ、だとしたら何時のどこであったか。聞き覚えでもあり、醸しだす気配に面識のある人につうじるものがあるような気のされてならぬのだが、はて、それは一体だれであったか。ぼんやりとりとめもなく思いをめぐらしながら地に目を落としていると、点々と開きゆく花々。野菊が群れ咲いているのが見えてきて。野菊、とひとくちに言っても、黄、うす紫、うす紅、いろもとりどりであれば、かたちとりどりあって。そのうちの、一輪のユウガギクに目を吸いよせられてゆき。それがふっと独りでに浮かび上がり、宙空をすすみはじめて。なにとなく起ちあがり、ついてゆく。花べんを上に、揺らめきもせずにすべるように飛んでゆく白菊にいざなわれるように。可憐な一輪のユウガギクがおのずから浮かび、飛行しているのではないことが段々に見てとれてきて。つまんで歩んでいるものがいて。しなやかな拇指と人さし指とで。華奢な手から流れる健康的でたおやかな肢体の女人。山吹の色の簡素な着物でありながら、ぬめるような艶やかな黒髪をひとつに束ねたその人がちらりと笑顔をむけてきて。険というもののゆめさらない柔和な笑み。なにも口にはしないものの、励まし労ってくれていることが分かり。そこには何ゆえか、敬う色もあって。まわりには、姿は見えぬが大小さまざなケモノの数多いる雰囲気。

 あたりに日が射しはじめ、いつの間にか野菊は消えていて、同時に手にしていた女人の姿も搔き消えていて。さりとて去ったわけではなく、まだ残り香の如く気配は感ぜられてあり。日光といっても早朝の清明なもので、あたりを淡い金色いろに照らしだし。かすかに笛の音。広がり咲きみだれる、野菊よりおおきな花びらのムグンファの花々。ここにはべつの人がいるはずだと、左見右見。淡いとはいえ照る日が、宙に漂い紗をなす水の粒子により乱反射し、より視界がきかなくなっているせいか、待っているはずの人の影をとらえ得ず。赤、白、うす紅等のムグンファのなか、不意に浮揚する紫いろの一輪。笛の音がとまり、花のうごきが止まると、花弁にふれた頬のあらわれ、青白く透きとおるような肌の、幾分厳しい顔つきをしながらも切れ長な目の印象的な秀麗な女人が佇んでいて。厳しい表情に見えたわけは眉間を寄せていたからであったが、なにもこちらを咎めたりしようとしているのではないらしいことはすぐに諒解でき。案じていてのことのようで。秋水の如き澄んだ眸子には見覚えのあり、この眼差しを継いだものを憂虞していることが、水面におきた波紋のようにひろがり伝わりくる。かの人の胸のさざ波は、共感できる、のみならず、わがことでもあり、任せてくださいと肯いてみせ。完全に安心しきった、ということはなさそうではあったが、かの人は幾分愁眉をひらき、頬にあてていた花を差しだしてきて。梢に鳴きかわす鳥の音。その樹はごつごつした渋皮いろしたクヌギであろうし、鳥は見さだめ難いが、おそらく薄あさぎの羽根を微細にふるわせるオナガであろう。差しだされた紫いろの花に手をのばし、触れそうになったとき、あッと声をもらしそうになり。手のとどくまえに離されていて、掴もうとするも硝子のくだけるが如く花びらの空に散りゆき。こまかに砕け、塵と化すも落下するでなく風を彩り、日を返しかがよいながらゆらめき流れ。羽衣のようなそれをおってゆくと、ぱっと火花がひらき消えゆくように辺りにとけゆく。

 天空から、紫いろの花房の鈴なりに爛漫と咲きほこり。空気を花の色にそめ、爽やかな甘い花の香のただよわせ、肉の耳にはとらえ得ぬ精妙な音をかなでるカミユイの巨木。降りかかる雨も染め、いや、降るのみならず地からも細かな水滴が昇っていて。あたり一面水のゆき交いかがよいゆらめくなか、根方に坐するもののあり。その影が視野を掠めるまえに、はっとし、早まる鼓動。ひと目見るなり駆けよりたい衝動のわき、いや、吾知らず駆けだしていたものだろうか、気がつくと自分もまた腰をおろし膝つき合わせいて。文字通り、膝と膝とのつき。かろうじてその豊かな胸に抱きつきたい思いを堪えながら。み空いろの浴衣を身にまとった母。端然と背を正しているさまには、甘えてかかれぬ威儀のあり。さりとて、怒りだとか厳めしいようすはなく、頬をゆるませ笑んではいて。利発な光を宿しながら、勝ち気そうでもある目を輝かせて見つめてきて、手をとられ、

ーーずいぶん、大きく、つよくなって

 そう言われ、握られた自分の手が、わらべのそれでなくなっていることに心づき。それは手ばかりでなくて。目の高さが、いつの間にやら一緒になってあり。

ーーリウ、あなたを遺してゆくことになったことは悔やまれるけれど、他はなにも後悔はない。幸せだったと思う。どこの馬の骨とも知らぬよそもののわたし、しかも身重のわたしを、あのひとは、あたたかく受けいれてくれて、大事にしてくれた。そして、よろこんであなたの父親になってくれた。血はつながってないけれど、紛れもなくあのひとは父親であったし、あなたはあの人のむすこ。最後の最後まで、わたしとあなたの心配をして。後を追うつもりはなかったけれど、おなじ病を得て、あなたを遺すことになってしまって・・・・

 ほっぺたを両手で包みこまれ。

ーー・・・・聞いたとおり、あなたは天授の血を受け継ぐもので、血だけでは如何ともし難い、そのシンとなるものをも色濃く受け継ぐもの。あなたを宿したときに、わかったの。女神リルの申し子だと。だから天授のなかでも忌まれるジュデ(授出)の立場になるのを厭わず、飛びだした。怖いのはなにも消そうとするものたちばかりではないからね。守りたかった。いのち、のみならず、自由に息のできる道を。あなたの、ね。それがはたしてよい選択であったのかどうか、わからないけれど。いろいろな目にあって・・・・

 母の手のこうに手をそえ、首を左右に振ってみせ。目を開いていられず、喉がつまってか声を発することもかなわず。

ーー・・・・そう。守りたいものができたみたいね。それであれば、いきなければね。おきなさい、おゆきなさい、リウ

 うなづいてみせると、花のほころぶように顔から母の手の離れ。絶え間なく降りそそぎ、湧きのぼりしていたやわらかく細やかな雨粒が、大粒にかわり、ひたいに眉間にまぶたにコメカミに頬に口のまわりに、顔中にあたってあたたかく濡らされてゆく。坐して母と樹にむきあっていたはずが、母と樹はすでに消えさっていて、仰向けになり空と対面する格好になっていて。ふっと母のこと葉がひらひらと閃きながれ。

ーー授出や天授といわれるようになった、意味。そこには人為では図れぬものがはたらいていることを。その役割を、考えなさい。その答えを導きだせたとき、おのずと見えてくるものがあるはず。天長、天礼と袂を分かったわけが。あなたのいのちが脅かされるわけが。なにより、それがあなたの行く手をてらす灯りともなるはず・・・・

 ふっと意識が醒め。瞬間、どっと圧する重量感に囚われて。おもりを巻きつけられているのだろうか。いな、おもりのなかに固定されたものらしい。肉体という重たい容れ物を、揺さぶられている。仰向けに寝かされた姿勢で、両肩をつかまれて。さりながらさまで強くなく、御簾をはらうようにそっと静かに。ぽたりぽたりと顔面のいたるところに水滴のあたり濡らされつづけ。間歇的に漏れおちてくるくぐもった音。どうやら、うなり声らしい。ケモノにのし掛かられているのか。捕食しようとしているのか、そのために死んでいるのか生きているのか確認しているのだろうか。死んでいないにしろ、抵抗が弱ければ問題なしであろうし。それにしては、いずれにせよ止めを刺してやろうという気ぶりの感ぜられず、扱いがやわらかく慈しむようすもあり。おそるおそるまぶたを上げたときには、相手が流涕していることに気のつき。文目もわかぬ闇のなかであるためしるく見えはしなかったが、わきにいて、肩に手をあてて間近で見下ろしているのは人であることを、目にし嗅ぎし聞きし感じとれ。その人というのも、自分にとっては唯一無二の、貴い、かけがえのない顕現であることをも。瞬間、堰を切るように記憶が押しよせてきて蘇ってゆきーー肉と心への痛み、それらを含むもろもろの衝撃をもふくめーー、いま置かれた状態が、そこに到るまでのことどもがすっきりと感得されて。どうにかあの黒い大量の影から切り放すことがかなったのだと知り。切り放たれたものどもも、元のかたちに返り、往くべきところへ往ったろうことが、感触的に理会され。そして吾もまた、いま在るべきところに落ちついたのだと。

 重たいおのが右の腕を、そろそろともち上げて。呼びかけようともするも、喉に激痛が走り、咳こんでしまい持ち上げた腕から力の抜けて落ち。が、落ちきることはなく中途でとまり。右の手をつかまれていて。掴んだ者の、息をのむ気色。とっさには状況をのみ込めぬようすで。咳こみながらも、シュガ、となんとか呼びかける。そうでなくともウスバカゲロウの翅の擦れあうような、あるかなきかのかそけきささやき、咳嗽の間でもあり聞きとれないのが自然ではあったが、ああと返辞をされて右手をぎゅっと握られて。話そうとしている意思はうけとれたものらしく、呼吸がなだらかになり口を開ける準備が整うのをじっと待っている。つかまれ覆われた手から、シュガの手の、触れてすぐには冷えていたものが、次第に熱をおびてきていることを感じとり。湯がつたい染みいってゆくように、右手からはじまり、四肢にじんわりぬくもりが広がってゆく。活力を生み、くちびるを開け、

「・・・・ゆるしてあげて」

 絞りだすように、かすれたか細い声で、それだけ言うので、いまは精いっぱいで。開口一番に出た言がなぜそれであるのか、なんのことであるのか、自分がでに掴めない。誰に、なにに対してなのか、はもとより。考えたり思っていたりしてのものではなくて、湧きだしてきたものがはしなくも突いてでたという格好で。相手に対してかけたつもりのこと葉が、自分自身におりてきて。ゆるすべきこと、人があるように思われてきて。怨んだり憎んだり怒ったりがなかった、とは決して言いきれぬことであり、それは吾自身もそういう対象になってきたろうことは疑いを得ず。このシュガに対しても。そのシュガは釈然とするものがあったものか、しきりに首を上下に振っていて。いや、釈然もなにもなく、どんな突飛な発言をしたところで首肯してみせたやもしれぬ。

「そなたには、とうてい赦されぬことをしてしまったが・・・・」

 泪に濡れてよれ、震える声。ああ、このためにだろうか。予知というのだろうか、感じとっての発語であったのではなかろうか。左腕で地面を突き、上半身を起こしてゆく。頚のほかは特に痛みはなく、躰自体の重量感にもだいぶ慣れてきて(もとの感覚をとりもどせてきて)そう苦にもならずに起きあがることのかない。

「・・・・ゆるすもなにも。したいもしたくなくもない、気持もなにもなくそこに来たものがなんであれ、おなじくして。だから一人こもっていたんでしょ。なにも悪いことないから、ゆるしてあげて。自分自身を」

 言い終えるやいなや抱きしめられて。背にまわされた腕。右肩に押しあてられ頭。土や草や風やケモノの匂いのなかにシュガの香もあって。火のついたように号泣する彼の躰が、燃えるように熱い。リウもかいなを上げて、相手の背中におき。なにを思うでなく、肩胛骨のあたりをあやすようにやわらかく律動的にたたき、子守唄を口ずさむ。


 ひんのわらすはくれえ玉


 すいのわらすはしれえ玉


 自分より大きくシシヅキも豊かであったが、わらべであったときのシュガも感じ、赤子であったときのシュガも感じ。愛おしい。いとけないころはもとより、今のさまも。そして、この世に生をうける前の状態のシュガに対しても。受肉する以前の、赫然と燃えたつ玉を抱く。抱いている側の玲瓏たる清澄な玉。ふたつの耀く玉と玉とが、触れあい、玉響にかさなり。

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