第99話 大事なものを
月は笠きる、八幡種まく、いさ我らは荒田ひらかむ
したら打てと神は宣まう、打つ我らがいのち千歳したらめ
念いりに掃き清められた広大な庭園。ひと気のなく。陽のもとに、まばゆくかがようものに彩られて。そは黄金いろの水のながれ。中空からあふれ出し、流れくだり。ときに地にふれ、したたり落ちているものもありながら、その生気みなぎる連なりはあらかた宙に留まっていて。そは水にあらず、豊穣なる養分をもつ水を存分に吸いあげてすみずみまでゆきわたらせ黄金いろに咲きほこる、ケナリの花々。楽の音にかそけく揺れて空気を花の色にそめて。さえずるホトトギス。
鳴きつるかたを眺むれば松のたち、そのもとには朱塗りの橋のかけられた小川も通っていて、陽のいろやうつした蒼穹を揺らし移りゆき。笙、篳篥、龍笛、神楽笛、琵琶、箏、鞨鼓、鉦鼓らの奏でる音いろものせて。平らかな石の点々と配置されているなか、清らな苔むしたものもあり。アオキの葉を繁らせ。アヤメやカキツバタの群の沿い。つらなり立つ緑の上に紫紺や白の花房もゆらめきうつし。色とりどりのみなもにはカモの往き来しくちばしをさし込む下を、コイのすべりゆき、細かな生きものをついばみ呑みこみ。花々に寄り、蜜や花粉をあつめゆくハチたち。舞いゆき交う黒アゲハ、黄アゲハ。しろがねに光る蜘蛛の巣に捕らえられしモンシロチョウ。柚葉いろのカマキリに挟みつかまれしウスバカゲロウ。
早河は酒盛は、その酒富るはじめぞ
したら打は、牛はわききぬ、鞍打敷け佐米負せむ
一見穏やかで和やかで、さらに典雅である風物のなかで繰り返される生のいとなみ。捕食し、捕食されるということ。さすがにこの整えられた敷地内では鮮血の散るようなそれはまずなくて、たいていの人らの耳目を集めるもののない自然のことわり。そのたいていの人らはゆめさら関心をむけずなきものとして目をとめすらしないものの、眼界に入れたとて明澄透徹してとらえ得て受けとれたとするならば、気は凪いでいられることだろう。仔細に眺めてゆくことのかなうのであれば、狩りとられたものらもまた命あるものを取りこみおのが命をつなぎ、それはうごくもののみならず静物もであって、巡りめぐるもののうちの一端にしかすぎず。その一端にしかすぎないもののさらに欠片でしかない目に立つ箇所であるだけであったが、それを摂理とすらとらえずに平気で閑却してしまうことは、はたして人としては当たり前の自然なことであるのか、あらまほしことであるのかどうか。存在からして天然の循環からしきりに外れたがる人というもの内面性として。
朝より蔭は蔭れど雨やわ降る、佐米こそ降れ
富はゆすみきぬ、富は鏁懸けゆすみきぬ、宅儲けよ煙儲けよ、さて我らは千年栄てむ・・・・
この地に在する高貴とされ雅やかである方々にとっては、音曲を愉しみ蹴マリをし、風物は風韻を愛でるためのみにしかなく。屏風だとかキモノだとか器だとかに描きだされる線と異ならず、ことによるとそれ以下であるかもしれず、掘りかえしたり切りおとしたり埋めつくりしたりを意のままに、気のままに。そのような人の手のはいった麗しき敷地内の松の樹の根方に、どうしたことか不釣りあいな汚物の一塊。薄汚れたサルが二疋。塀高く、門戸もかたく閉じ外部のものの容易に出入りできぬはずのところであるはずであったが、身軽に跳びこえ侵入してきたものであるのか。親子、いや、兄弟であろうか、ちいさい方は相手の胸におもてをあてしがみついていて。遊び疲れ、睡っているのやもしれぬ。しがみつかれている方は幹に背をつけしゃがみ込み、蜘蛛の巣とカマキリのほうを眺めていて。その双眸は濡れゆらめき、逡巡が掠めるも抑えつけている気色。獲物とされたものを助けてやりたい衝動にかられながらも、捕らえた方は捕らえた方で生きながらえるためにしているだけのことであり、それらもまた捕らえられる立場であって。ワシに摑まれたセキレイを石つぶてでもって救おうとしたことのあり、その際したたかに諭されたことを肝に銘じていて。そうするならそうするでかまわないとして、お前が魚をつかまえたとき、ケモノに手をかけたとき、木の実や草もおなじだ、他の生を奪うからと打たれたり痛めつけられたらどうなのか、と。身をもって知らしめるためか、蹴りとばされ、足に綱をまかれ一晩樹に吊されたりしたもので。然り、ちいさい方は確かにサルではあったが、大きい方は髪の伸びほうだいで土とアカで肌のいろの覆われ、腕と足のむき出しになった単衣もまた煮しめたように黒ずんでいてどう見ても一風かわったサルかなにかそういったケモノにしか見えないありさまではあったが、よくよく見れば人の子であり。そのようななりではあるものの、青く澄んだ白と漆黒な瞳の目、引きむすんだ唇から、見る人が見ればつよい意思と聡明さを見いだすことのかなうことだろう。
サルだとすれば成獣なみの大きさではあったが、体毛のすくなさをおくとしてもシシオキの薄く、見慣れればやはりいとけない人の子でしかなく。胸もとにしがみついた仔ザルの背をめ手で撫でつつ、起こさないようにだろう己のふところにゆん手をいれそっと取りいだしたるもの。それは細長い布ではたせるかな黒ずんではいたものの、さりとて表層にとらわれず注意をむけたのであれば、金糸で紋様の縫い綾なされた瀟洒なものであることが見てとれよう。生地も確かなもので、汚れながらも擦りきれ薄くなっている箇所のひとつもない袋を成していて、そこから丁寧な手つきで抜き出して。スス竹に櫻樺をあわせた龍笛。両手を添えて静かに口づけ、流れきたる楽の音にあわせ奏で。あわせ、同じ音階に確かにしているはずであるのに、和してゆかないことを当人は聴きとり感じとっていて、じれったくもあり途惑いもしていて。いや、当然だろうかと、冷静に判断できてもいて。忸怩たるものやら悔しさやらうっすらまとわりつき、漂いながらのものではあったが。かく感じ想うのは、現今屋内にて奏でている楽箏のなかに、本来であれば自身が坐していて、少なくとも末座にはいられていたはず、という自負があったからであり。が、すぐその恨みがましさすら覚え睨みすえていた自身に気のつくと羞じらい、罪悪感も覚え。なにを考えているのだ、人でなしか。吾は吾のなすべきことをし、役立てるようにすればよいのだ。余計なことは頭から締めだせ。
山ザルとおぼしきありさまをした男わらべは、気をとり直し笛に口をつけ。楽箏とは別のしらべをおこし。繊細なひと筋ひと筋の織りなし表れてくるものは、春の小雨、夏の驟雨、秋のこぬか雨、冬の雪。四季を彩る降りそそぐもの。それによってつつまれ育まれ伸びゆくいのちたち。その巣立ちだとか別れのあり、そして病むことのありして老いゆき、ときに老いさらばえてのものでなしに不意にきえゆくこともあり。さりながら形として消滅しただけで、とこしえに在りつづけるのだと言う。そは真であるか。いずこかに。那辺に。那辺にありや。・・・・龍笛をおろし、眼前にあるアオキの葉を睨みつけ。吹くを止めしは感情の乱れによるものもあったが、人の気配がしたからでもあって。
「なんやろォ、どこからか笛の音してたなァ」
「そやなァ、もうしてへんけどォ。一箇でなァ」
「採桑老みたいやけったけどォ」
「それともまたちゃうような気するけどなァ」
「そやなァ。それよりィ、この吹きぶりは、あん人の思わせるなァ」
「あん人の、て。・・・・たしかに、そんなふうもしたけどなァ」
「化けてでたんやろかァ。その辺はしっかりやらはってる思うけどォ、こころ残りはしゅじゅあるやろしなァ」
「ほんま、えらい縁起でもないこと言わはるお人やァ。クワバラ、クワバラ」
「堪忍え。ツルカメ、ツルカメ」
近づいてきた人声の遠のき。『採桑老』に近い内容ではあったが、さらに哀しく、それでいて明るくもあり、生病老死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦ーー苦ばかり過剰反応されているものの苦とは一面であり、よろこびや幸ともなり。黒闇天と吉祥天が双生児であるのはその消息をあらわしーー、喜怒哀楽から万象をおしなべて内包した一曲であり。母の好みよく吹いていたもので、母の故郷につたわる曲で、都の(正規と言ってよいか)楽箏では扱われぬもので、教えられたわけでもなく、見よう見まねでやっていたもので。伝えることを拒まれたわけでなく、強いて伝えようとされず、こちらも積極的に教えを請おうともせずにきたばかりのことであって。あまりにも身近にあって当たり前になり、その価値を計れなかった、という月並みな思いこみのため。関心がなくはなかったが、いとけない身ながらも楽箏にまじりいて、正規のものを憶え修練するのに必死であったこともあり、何時でも教わる機会はあるという思いこみ、思いちがいもあって。息はとまるもの、と頭では知りながら、それを具体的に、母親にあてはめて思ったことのひとたびもなくいたこともあって、機会はいつでもあるのだと疑いすらせずにいた愚かさよ。実際に目の当たりにして身に染みて理解させられた、その意味。理解は、心身に焼きつけられ、凍えさせられるような衝撃をとおして。前日の夕刻までつねと変わらず朗らかに立ちはたらいていて、朝方息をひきとった母の静かな寝顔。一等好んだムグンファ(ムクゲ)の花。一輪のその紫いろの花に頬をあてて。吾は、大切なものを殺める定めにあるのだろうか。
モズのするどい鳴き声がし、わらべは慌てて龍笛を袋にしまい、ふところに収め。仔ザルを抱え、辺りに人がいないことを確認して塀の上へと飛びのり、飛びおり、山林へと駆けてゆく。磐の如く頑強な体躯の壮年の前に立つ。これだけの丈の高さのみならず、ししづきの硬く張った者にお目にかかったことのなく。初対面では驚かされ震え上がったのはシシムラよりも、そこに刻みつけられた異様なもので。顔面の右側の目にあたる部分から耳にあたる部分まで肉がごっそり欠け落ち、そちら側の眼は完全に失っていて。腕にはえぐれた疵痕がいくつも認められ。モズの鳴き声は彼の発した口笛で、よぶ合図で。常の如く野山を駆けまわされ、放たれる石つぶてをかわし、木刀での打ち合い(ほぼほぼ打たれっぱなしではあったが)を日の暮れるまでし、火ともし頃に男と小屋にはいり。仔ザルと、初老の女の待つ粗末な小屋に。女はコウナギであり、二人が帰るとまず祓いをし、囲炉裏端で巡った諸国のはなしを聞かせたり神やホトケや呪術のことを語り。ときに簡単な祝詞を教えたりもしたが、ことさら熱心でもなく、炊事をしたり傷の手当てしたりが主として。外では手荒く厳しい男も、内では小言ひとつ言うわけでなく、代わりに優しい言行ひとつするわけではないものの、その残った独眼の眸子には、労るようなやわらかい光が宿っていることもあり。それに気のつくまでには、一年ほどかかったものだが。
一年前の初秋の透明な陽の射す明け方に母の亡くなり、その日のうまの刻(正午あたり)には屋敷を追いたてられ、いまの二人に引きわたされれることとなり。持ちものといえば、母からもらい愛用していた龍笛ひとつで。ねんごろに弔い、葬ってもらえたものだろうか。悲しんだり歎いたりする暇もなく慌ただしい変化のなか、気がかりでもあったが、すんなり受けいれられてもいて。出しぬけに胸をごっそり剔りぬかれていったような衝撃に朦朧としていたことは事実であり、もとよりここまで早く母が亡くなるとは思ってもみないことではあったが、母の身になにかあり母が立ち退かなければならぬときは当然自分もまたそうしなければならぬ事情は、がんぜないため詳らか知ることのないなかでも理解し覚悟はできていて。母はその才を認められ鳥もかよわぬと言いなされた草深い山里より引き立てられ、主管を任されるまでになり、のみならず主の手のついて屋敷の一棟をあたえられ懐妊し、産みなしたのが吾。さりとて身分が違いすぎ。正妻があり、嫡男もあればなお、はかなき立場でしかないことは、それなりに分かっていたものだったから。かつ出るときに、従者からであり直にではなかったものの主から賜った文句により気もちを固めさせられていて。格好としては追いだす形になってしまったが余儀ない仕儀であること、余儀ない仕儀となるが、これから余のため家のために支えとなって働いてもらいたい、ということ。そして、働きによってはゆくゆく呼びもどしそれなりの地位に据えることのかなうかもしれぬ。なによりの供養になるのではないか、と。
「・・・・とてつもなく、強く明るいミタマじゃの」
囲炉裏端にいる女の声。男わらべは室の隅で、仔ザルとともに寝床にはいっていて。もう睡っていると思われているらしい。それ自体聞かれたとしてなんの支障もない話であり、事実、初対面で目を見開き言われたことであるし、その後も面とむかってもなくてもよく口にしていたものではあって。すでに枕詞に近いものに、言われている当人も感じるようになり。いまも微睡みながら、自分の話がなされているのをそぞろに聞きながら。
「並外れたものを持ったものが、はたして幸いなものかどうかのう。てまえさんも、並外れた腕前もったばかりに・・・・」
囲炉裏の火に木片をくべる音、はぜる音。
「なんの。わしは災いと思ったことなどない。それをいえば、おめはんも知る人ぞ知るコウナギ、カンナギで、なんもこんなとこで飯炊きだのやらんで済んだろうに」
男の低く抑えた声。
「それこそ、なんのなんのじゃ。祭り上げられたこともあるけどな、窮屈なだけでな。祭り上げてる方が楽でいい。それだけの値うちもある、だろうしな」
男は肯いてみせてはいるのか、なにも応えず女はひとり続け、
「わしらはいいとしてだ。気の毒なのは・・・・。これだけの器はまずないだろうに。恐れ多いことじゃが、どこに目をつけているのだか。女親の氏素性だけで。いやまぁ、あの奥方の進言がありそうじゃが。そうはいっても、受け継ぐにはあまりに強すぎるともいえなくもないし。はからいであるかもな」
「はからいだろう」
ようよう男が、一言ではあったがこと葉を発し。
「じゃろうな。祭を司るあたりのえらい方々が、恐れ騒いでいる子はすでに生を成し、あやつらが何をしようと成長を妨げることのかなわぬであろうし、そう言う御代であればここまでのミタマの持ち主があらわれてもおかしくない、おかしくないどころじゃなく、合わせて、じゃろうからなァ。かといって、ここまで無惨なものを背負わせていいものじゃろうか。はたしてそれが御心にかなうものなのか。そう、疑問をもったからといってわしら風情があらがうことなどかなわぬことじゃが。それにしても、あまりにも・・・・」
男わらべは睡りの底へと潜り込んでゆく。その水面すれすれで耳にする。
「おのが大事なものを、おのがためになくする定め、とは・・・・」
おのが大事なものを、おのがためになくす。それが耳にのこり、心身の底にのこり。仔ザルのぬくもりを抱きながら、うつつから揺蕩いゆく。仔ザルとの出会いは数週間前。乳をすうことから離れたかどうかくらいの時期の、綱で縛られたものを、男が軽々と片手でもって来て。どうする、と生き死にの選択権を託されて。どうするもこうするも一択しかなく選択肢などあり得るわけがなかろうに。そこには、生かすのであれば面倒をみるしかないという条件が自動的に付いてもいて。当然の返辞をすると、そうかとだけ言って渡してきた男。その独眼の面には、うっすり憐れむような色があって、そのときはさまで気にとめなかったそのわけを、後に知ることになる。そのときは、世話が大変であるだろうにお前にできるのかと危ぶまれているのだろうぐらいにしかとらなかったものだったが。実際、ときに引っかかれたり咬まれたり尿をかけられたりし、行く方知れずになり捜して歩いたりもしたものだったが、それでも会って三日としないうちに懐いてきて、修練のときはべつとして、寝食をともにするようなっていて。それまでは時おり男の目をぬすみ塀の内側にはいったり龍笛をならすことくらいしか愉しみと言えるものはなかったのだが、仔ザルの出現により笑うことも思いだしてゆけた。
仔ザルから仔がとれ、男わらべも石つぶてや木刀を自在にかわせるようになり、ときに鋭い返しができるようになっていたが、かわらず一人と一疋は中睦まじく。いや、かわらずではなく深まっていったというのが正確なところで。種は異なるものの、親友、というより兄弟のように結びつくようになっていて。男わらべはサルのこと葉を話せなかったし、サルは人のこと葉を発せなかったが、それでも相手がなにを言っているのか理解がゆくまでになり。そんな日々のなか、サルの帰ってこない日のあって案じ探しまわろうとするも、男に止められて。世話の焼ける時期を経て成獣ともなれば、一日二日いなくなるのは自然なことで、そのうち山中に入りびたることになる。そもそちらが本来住する場所であり、もどるだけのことだと諭され。寂しく割り切れなかったが、そんなものかもしれないと男わらべは不承不承納得し。中年女から労られ、心配かけまいと笑顔を見せ。そんななか、狩りを任されることとなり。男の突然の決定に驚きながらも、初めてのことであり、うれしく胸高鳴り。殺める行為を許可され喜んだわけではなく、ようやっと幾らか認められた、一段階上にのぼれる試みととっただけのことで。まだまだがんぜない砌であり、そのおりの男の感情を圧したかわいた表情にも、女の忍ばせた苦しげなようすにも気づかずに。目にはいっていながらも、見ることのかなわず。対象物は、アヤカシだと話される。悪さをして歩くもので、ようよう居場所を見つけたから退治しろ、とのこと。アヤカシにだけ有効な毒煙を焚きこめて弱らせ、逃げられないようにしてあるからと。初めてカネの刃のついた小刀をわたされ、その足で男に連れられてゆく。もう日も暮れかけていたなかを。山の端の、初めて踏みいれた場所。赤茶けた風景。晩陽のいろ、ではない。その辺り一面草木が枯れはて、土がむき出しになっていて。そのむき出しになった土は土で、自然ではないこの世ならざるものに侵されているかのように見え、震えがおき。震えは小刀をわたされたときからおきているもので。悪さをする、しかもアヤカシであれば、そうためらいは持たなずに済んだものの、多分それなりの大きさのものであろから、そういうものの息の根をとめにゆくということには抵抗がなくはなく。また、もちろん怯えもあり。そこには、洞穴があり。この中にいる、ということだろう。何処にまでつづくのか黒洞々たる闇を湛え。穴の闇は、単なる濃い影ではなく。粘度のある集積であり、なんの物音もしなかったが、蠢き瘴気を放ちしているようで。これがアヤカシにだけ有効な毒煙ということか。
「さぁ、行きなされ」
男が言い。片端が引きつれているためか、唇はわずかにしかうごかない。腕組みをしたまま、男わらべを見るでもなく、穴のほうに顔を向けたまま。男わらべもただ穴のほうを向き、こくと肯き、下唇を噛む。小刀をつかむ手に力がはいって。ちいさいながら力強さはかんじられ、必死に抑えつけようと試みてはいるようだったが、脚に震えがおきていて。
ーーおおもとのめおふたはしらのかみ、ほのけ、みずのけ・・・・・のかくりよ・・・・・・のかくりよ・・・・・のかくりよ・・・・・のかくりよに行きかう、三つの魂大き小さきうぶたまのかみのおきてを・・・・・・まもりさたし、うぐもりはなれ・・・・・・
気のせいだろうか、なにか誦する声が耳を掠めたようで。男わらべはとらわれることのなく、抑えきれぬ震えのなかでも、決然と闇へと足を踏みいれてゆき。完全にのみ込まれたとき、ふっと外に引きつけられて足をとめ。呼ばれている、行ってはゆけないと訴えられているような気のされてならず。逃げ出したい恐怖心の作り上げた幻聴だろうと片づけ、振りはらって歩を進め。と、飛びかかってきたものがあり、咄嗟にかわすも左腕をざっくりと切られ。大きさはさほどではないらしいが身軽に俊敏に襲いかかってくる。男わらべは相手となるものが全く見えず、気配を察してゆく他なかったが、さすがにアヤカシのほうは視界が晴れているものらしく、急所を的確に狙ってこられて。切り刺ししてくるものを死にものぐるいで受けながしながら、このままではやられるだけだと判断し、肩を切られながらも掴みかかり、相手の頭があるだろうところを予測し頭突きを繰り返し、力の緩んだところへめたらやったらと刃を突き立ててゆく。ごわごわした毛皮が裂け、噴きだしてきた血液をうけ。生ぬるい。はじめてそのアヤカシが雄叫びをあげ。断末魔、ということか。男わらべは硬直し。凄絶な雄叫びにおののいた、わけでなく。聞きおぼえのある声であったから。そして、なにを言っているのか分かったため。なんで、こんなことをするの、との訴え。声だけではなく、毛むくじゃらの身体の感触は、馴染みのあるもので。仔ザルのときからともに過ごしていたサルに間違いない。噴きだす血を抑えるように抱きしめ、冷えたムクロになってゆくのを感じていて。冷えたムクロになっていったのは、男わらべの胸の一部でもあって。なんで、なんで。混乱し叫ぼうと口を開いたとき、洞穴に充ち満ちていた暗黒が、声を蹴散らし喉の奥になだれ込んでゆき。強烈な吐き気と激烈な痛みが体中駆けめぐってゆくも為す術もなく。サルの遺骸を抱いた姿勢のままで、全て身内に納まるまで身動きできず、ようやく動けるようになるも、さりとて立ちあがる力もなくて倒れこみ。おのが大事なものを、おのがためになくする定め。いつぞや、コウナギの女の言った文句だけが、ただただ繰り返し思われて。
おのが大事なものを、おのがためになくする定め。母が亡くなったのも、吾のせいなのだろうか。秋晴れの透明な陽の射す朝方、寝床から出られなくなった母の頼みをうけ、母の愛したムグンファの花を一輪つんで渡して。母は目を細め、その紫いろの花を頬にあて、
「そんなに泣かないで。わたしはもういなくなるけれど、いつの日かきっと、あなたを受けいれ、あなたが受けいれできる人と、かならず会えるのだから。あなたのしらべに、和することのできる、たったひとりの人にね」
紫いろの花びらの、床に流れおち。遺された子への手向けのこと葉。単なる慰めであったのだろうか。会えるのだろうか、会えたとしても、あのサルにしたようにおのが手にかけてしまうのではないだろうか。ないだろうか、と仮定ですむのだろうか。すませられるのだろうか。・・・・
シュガは闇のなか目を開く。永い永い夢を見ていたような、疲労をおぼえながらも、今までになく心身に軽みを感じていて。巻きつけられていた荷を取りのぞかれたような。はっと目を瞠り、内観し、外に意を巡らせる。いずれも濃霧が霽れたように澄みわたり。一体、なにが起こったというのだろうか。幾千、幾万の凝り固まったどす黒い念を消滅させることなど、吾の玉の緒を絶っても不可能であるはずの技なはずであるのだが。祭司長らであっても、天礼らであっても。下におろした手に、なにかが触れて。あのサル、と閃きびくっと震えるも、幾とせも前のことであると思いだし。どうやら人が倒れているらしい。誰も来ないよう言いわたしてあるし、入ろうにも入れなかったはずだが。呪術が解けてから入ってきたものだろうか。手探りで相手を確認してゆく。ぴくりとも動かないその人に、当たりがついてゆき、動悸が烈しくなってゆく。震える両手で痩身を抱きおこす。力なく持たれかかってきて。この肉体の感触、匂いには覚えのあり。かすかに花の香のし。指さきの紫に染まりし人。おのがゆん手の記憶が閃き蘇り。喉をつかみ持ち上げ絞りあげていたのか。ひんやりと冷え、抱きおこした格好のまま、身じろぎひとつしない。おのが大事なものを、おのがためになくする定め。シュガは覚えず、声を限りに叫んでいて。馴染みのあるサルを殺めたときには出せなかった叫びを、あげつづけ。
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