第98話 洞穴のなか
厄介なこととは何であろうか。いま感じた剣呑であるものが迫り来るのか、とリウも前方に眼を凝らす。もとより燈をかかえる人家もなく人も通らぬ山道のこととて、星影か草木の輪郭くらいしか目にすることのかなわず、ましてや行く先は杳として見とおすことなどかなわぬ。さりとて、異変は感じとれ。異様に静かで。山のなか、騒がせるものはこの荷馬車だけでありそもそもが森閑としていたものとはいえ、その静けさとも異とし。虫もかわずも鳥もぴたりと口をつぐみ、草と葉さえもそよともいわせず息を潜めているが如き沈黙。ハンの樹があったはずだが、とリウはちらりと日のなかでの葉のそよぎを思いうかべ。セヒョが綱を引いたわけでもなく、地を搔き疾駆していた若駒の脚の速度が徐々に落ちてゆき、ゆるやかに踏みしめるまでに至り。
「おいでなさったな」
対象物を見出せた気色で、前方のひとつ処にセヒョが眼を据えて。馬も何ごとか感知したものだろうか、自らとうとう蹄を土の上ににとめ。セヒョや駒の目線を辿りゆくも、その焦点のあった処にリウは何も見いだせずにいて。さりながらそのひとつ処に視点を留めているとモヤのようなものが見えてきて。土ぼこりにしては動きがすくなく、つむじ風でもなさそうで。蚊柱のようにゆらゆらと、かつ平生見かけるそれよりも密度が濃ゆく。それは大量の羽虫の群ではないことが見分けられてゆく。ひとゆれする笹竹、星と月の光を反ししらがね色に冴える刀身。リウは目をみはり。そこにある物が認められたとき、それらを身につけた存在が霧がはれてゆくように認知できてゆく。まさか、まさか、そんなことが。リウの鼓動が早まりゆく。人のなりをしたもの。一体ではなく、二体らしい。笹竹を手にしたものは白髪をおどろに乱した老婆。刀を手にしたものは、頑丈そうな体躯の老爺。顔面の右側の目にあたる部分から耳にあたる部分まで肉がごっそり欠け落ち、そちら側の眼は完全に失っていて。腕にはえぐれた疵痕がいくつも認められ。誤りようのなく、イチとモリゾウらしい。二人の絶命したことはまず間違いのないことであるはずだが、それが何ゆえに。もっとも、目の前にいるイチとモリゾウの双眼に光のなく、暗黒に虚ろで生気がゆめさら感じとれはしないものの、こちらに刃向かう、まではゆかぬにしろ通すまいと現れたのであろうことは矛先をむけてくる姿勢からも疑い得ず。なぜ行かせまいとするのか。そもこれは、この人らの自発的な行動であるのか。自発できるだけの、自分というものがはたしてあるものか、どうか。
「・・・・もしか、あいつら顔見知りなんか」
対する様子から察せられた模様で問われ、リウは抵抗感をもちながらも肯いてみせて。シュガと共にいる者らのなかにいた二人であり、つい先(モミジらに攫われていたとき)に殺められたと思われるが、遺体がなかった事実を話す。
「そよか。・・・・亡きがらを呪具にしたんやろなァ」
外道がッとセヒョは吐き出すように言うと、素早く懐中に手を挿しいれて抜き出し、
「ナウマク・・・バタターギャティビヤク・サラバボッケイ・・・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・・・・ギャキ・サラバビギ・・・ウン・タラタ・カンマン。ナウマク・サラ・・ターギャティ・・ク・サラバボッ・・ビヤク・サラバタ・タラタ・センダ・・・・シャダ・ケン・ギャキギャキ・・・・ビギナン・ウン・タ・・・カンマン」
印を組み、バジュラ(独鈷)を取りだし真言を誦しはじめるセヒョ。セヒョの躰のまわりを赤や青の焱が取りまきはじめ、その二種の焰はバジュラに集まってゆくと渦を巻きながら伸びてゆき、ツルギの形を成してゆく。ゆらめき光り闇を斬り開きゆく焰の巨大なツルギが現れ出でて。それを片手に地面へ降りたち。リウも慌てて降り、よろめいて下に手を突くもすぐに起きあがると。
「案ずるこたない。たかがふたつ分、楽勝や。すぐ引導わたしたるッ」
イチとモリゾウの形をしたものどもが向かいくる。セヒョはツルギをかまえ、
「天魔外道皆仏性、四魔三障成道来、魔界仏界同如理、一相平等無差別」
「待ってッ・・・・」
焰の刃が二人を薙ぎはらわんとした刹那、気がつくとリウはその太い腕を摑んで止めようとしていて。相手に比してはるか膂力が劣り、重量もかるいため振りまわされる格好となりながら、自分がでに何をしようとしているのだろうと訝り。セヒョの腕につかまりつつ、襲いくる二人の前に倒れ込むような状態となり。あッと状況に心づきそちらを向くと、目睫の間まで迫りくる笹竹をもった者の爪と、振りかぶった切っ先と。斬り裂かれる。機敏にかわす瞬発力も余裕もなく固まり、ただ見ていて、身体に打撃を受けて目をつむり。ぐっ、とこもった唸り声がして。肉斬られ、皮膚突き刺し破り捕まえられ。そうされていることを覚悟していたのだったが、肉体のいずこにもそれらしい痛みの微塵もなく。視界が塞がれ、身動きの自由が利かぬばかりで。顔面を覆っているのは洗いざらしながら頑丈に編まれた触りの荒い綿地で、しみ込んだ風雪と体臭がし。セヒョの腕のなかにいて、庇われていることに心づき。
「なにしよるッ。・・・・あいつらが知り合いのなりしとるからか」
抱えられた姿勢で言われ肯きつつ、代わりに傷を負わせたらしいと気のつき、平気なのか問うと、
「ああ、たいしたことない」
そう言いつつ、確かに深傷ではないらしいが息づかいのなかに微かに乱れが見られ、痛みを堪えているらしいことが感ぜられ。リウをゆん手で抱えあげ追撃から身をかわし、受け答えしながら、め手で刀印を切ってイチとモリゾウを牽制していて。不本意ながらも意をいれてくれたのか、バジュラはしまったものらしい。セヒョの厚みがあり大きな躰によって覆われた状態で、必然的に彼らのやり合いがリウには見えていなかったのだが、いかなるありさまであるのか如実に伝わってきて察せられてはいて。眼界を妨げられてはいるものの、鼓動や息づかいを直に聞いているからだろうか。セヒョを取りまく焱によって大抵の打撃は禦ぐことのかなうようではあったが、イチの振る笹竹によってその近くの箇所のものを祓われる、まではゆかぬにしろ薄らぎはするようで、そこを狙いモリゾウが突いてくるものらしい。見知ったイチはすでに恍惚としていて、おもしろがってかどうか、タタりじゃあと騒いでは他人を驚かすことくらいしかしなかったものだが、かつてはカンナギであったらしく、その能力をこのような態になりながらも発揮しているというのか。そうはいっても、先ほど邪魔しなければ一網打尽にできていたことは間違いなく。セヒョは特異な技をもち、もう一組腕や眼を出現させることができるようで、もとよりそれは霊的なものであるらしいが、さりとてそれも咄嗟にあたうものでなく、しかるべき準備が必要であるらしいと察し。漲る気力といい体力といい膂力といい、力の差は歴然としていたものの、人一人抱えてなるたけ傷つけまいとしながらしていては万が一ということもあり得るし、何より時がかさみすぎる。さりながら、簡単にケリをつけることをどうしても認めることはできず。もしかすると、二人は上辺だけの、意思もなにもない中身が空な傀儡でしかないのかもしれないが。どうしても割りきれず、さりとてこのままこうしているわけにもゆかぬことは理解でき。何者かによって囚われ使われているようだが、どうにか穏やかなやり方で解き放つことはできぬものかと持ちかけると、
「できないこともないけど、なんぼか(時間)かかるで。それでええのんか」
急いでいるのではないのか、言外にふくまれた問いに、迷いのなくもないながらも、そうして欲しいと応え、
「もうここから一人でゆけるから」
そう請けあい、地面へ足裏をあて。ホンマかと訊かれ、大丈夫と返し、セヒョのゆん手を振りほどき。勘違いでなければ砦の近くらしいと推察するのみで、実際、シュガの隠る場所を知らなかったのだが。そうではあるのだが、そうでも言わなければ望まぬ選択をされてしまう(速攻片をつけられてしまう)恐れがあるため、というわけでは実はなく。いや、もちろん恐れがあり避けたい願いはあるわけであったが、何ゆえにか必ず行きつけるという根拠なき確信をもてていたものだから。セヒョが斃されることはなかろうと一片も疑うことのなく。そのセヒョはリウの言を信用したものか、問いを重ねるでなく、手を止めず迫り襲う二人を前にそういった余裕がなかったせいもあろう、
「分かった。ここは任せろ、心配ない。きっちり引導渡して上にあげたるわ」
背を向けたまま言い。突拍子もない我を張っているのではないだろうか。まったくの思いつきでしかないことで、横車を押し。吾ながらそう思わなくもなく震えが走るも、なんにせよ踏みだしてしまったわけで、迷いはなく砦のある方向へ駆けだす。見当もつかぬものの、直感で。見方を変えれば当てずっぽうということになるのものの、不思議と不安のなく。夕闇のとうに過ぎ、欠けたることのなき望月煌々として、人の往来する道はたづたづしきことのない中。と、駆けだして間もなく、足下にひとかたまりの影が躍り出て。ススマロゲだろうか、と一瞬怯む。ススマロゲとは稚きみぎりにいた土地で存ずると信じられ語られていたモノノケで、厨を住み家とし炭の如き見てくれなのだそうな。悪さをなすとは聞いたことのなく、ネズミより害のないものと親しみをもって話されたりもしていたものだったが、やはり突如目の前に現れられて平静ではいられぬもので。ましてや家屋内ではなく、山道で、まさか出るとは思いもしないわけであり。
浅葱色に光るちいさな二つの玉。それはモノノケにあらず、黒く小ぶりなケモノ。低空飛行する鳥、にあらず、追いかけてきたニジであり。ほっと胸をなで下ろし、また、うれしくもあり、
「付いてきてくれたんだね」
驚かされつつも脚をうごかしつづけていて、思わず笑顔になり、ゆるんだ速度をまたあげて。この世ならざる者らから離れたところに来たためであろう、あたりからはコオロギ、マツムシ、スズムシ、地虫の鳴く声。草木のそよぐ音。あッと息を呑み、足をとめ。伴走するニジ、いや、追いぬき藪のうちへざざっと飛び込んでゆき。気まぐれか、なにか獲物でも見つけでもしたものか。突きこんでゆくさまが鋭く、月光を反す黒い毛並みで、カラスのようにも見え、脚の三本が残像として目に留まり。追いてゆくべきだと感じとり。追いてこいということではないのか。シュガのいる場所まで先導してくれようとしているのではないか、と思えてならず。月の光があるといえども草木のはらわれた街路であれば先々まで見通し進みゆくことのあたうであろうが、道といってもそう整えられていない山道ではしるく見わたすことなぞかなわぬのは必定。ましてや樹木の繁る藪のなかとあっては、暗中模索。崖や穴があるかもしれず、イノシシだとかクマ、毒へびだとかヤマイヌだとかの猛々しいケモノに出くわさぬとは限らず。その迷いというのか恐れというのか、可能性を思ったのは、深々とした草木の闇に分け入ってからのことであり。
掻き分けるクマザサのざわめきの他、通るそばに止む虫の音と、遠くから響きくるコノハズクの啼く声。日のあるうちであっても目視できなかったに違いないとしてそれでもまだササ藪の動きで見当つけられたろうけれど、この状況にあってはニジの進んでゆく方を辿るに、耳を澄ましてゆく他にまったくの術のなくて。それでいて何故なのか、不安に捕らわれることのなくいて。不安など余計な感情にとらわれている余裕がなかった、とも言い得るが、信頼しきっていたからでもあり。ニジを、そしてニジからはぐれず導いてゆかれることを。綱でひかれてでもゆくように。そうはいっても夜目が利かず、クマザサの群生で足もとどころか胸のあたりまで隠れ見えなくなることのあり、けつまずいて倒れそうになったり、葉の鋭利な側面で指に切り傷を負ったり、枝にこめかみを打たれたり(ともかく目に直撃しなくてよかったと思い)ながら必死で馳せてゆき。原初の渾沌たる闇。まだ光もなく、こと葉もなく。いや、ないのではなく、それらも別たれることなく混じりあい溶けあいしている状態であって。見ること聞くこと感じることもなく、それはそこになべて含まれてしまっているものだから。その、豊穣なる渾然一体とした泥濘のうちにもどりゆくような安らぎ。急ぎ焦って、肉体は汗に濡れ息ぎれしながらも、胸のうちのどこかでは、そんな閑かな穏やかな心地を覚えてもいて。生の生まれ出で死にゆき、目覚め微睡み。生々流転の根源たるところ。
肥沃な泥のうちから不意に吐き出され、視界がひらき。藪から抜けでると、土と岩の広がる場所で、前脚を揃えて坐し待ちうけるニジの姿があり。ここで間違いないだろう。それはニジの様子からのみの判断にあらず。辺り一面草木が枯れはて、むき出しになった土。生きものの声ももの音も絶え。そのむき出しになった土は土で、自然ではないこの世ならざるものに侵されているかのようで生気の感ぜられず。月明かりのもと、露わになった荒涼たる景色。天然の闇よりもずず黒い、濁った冥暗をたたえた洞穴。しるく見覚えのあり。以前夢でみた光景。
ありがとう、とニジのツムリを撫ぜながら礼を言い、洞穴にむかう。砦まででもリウの脚ではどう急いでも四半刻はかかるだろう距離のあるはずで、この場所はさらに奥まった地にあるらしいため一刻どころでなくかかるのが道理であったが、どうもここまで四半刻もかからなかったような感触のあって。さりとて体感でしかないものの。訝る部分はありながらも、ニジによって近道を来ることができたのかもしれぬし、そんなことに拘泥するつもりもなくて。洞門の前に立ち。やはり強烈な臭気なようなものが充ち満ちていて、みぞおちを打たれたが如き疼みに似た不快感が突き上げてき、吐き気と頭痛がおこり。
ーー・・・の神、名は阿明、・・・の神、名は祝良。・・・の神、名は巨乗、・・・の神、名は禺強、四かいの大神、・・・を退け・・・・・・
ーー朱雀、玄武、白虎、匂陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍・・・・・・・
ーー・・・・・・ほのけ、みずのけ・・・・・・奇しき三津のひかりを・・・・・・しき光、天の火気、地の火気、振るべゆらゆらと、ひとふたみよ
ーーあめのをき、つちのをき、あめのひれ、つちのひれ、あめのおむすび、つちのめむすび、ひのめおのさきみたま、つきの おめ の さきみたま・・・・・・
かそけく誦する声、声、声。それは鼓膜にふれて知覚できるものではなく、内なるもので感じとれるものらしい。どうやらこの蠢く暗黒を一所に抑えつける働きをしているものらしい。たまゆら稲光が閃いたように、咒する四つの影が見えたような気のされ。リウはおそるおそる穴に手をのばし。夢のうちでは弾かれて入ってゆくことのあたわなかったものだが。境界に触れた瞬間、触れた指さきにうっすら痺れと抵抗感のありつつも、すんなりと潜り込んでゆけ。ニジははいってゆけない模様で、浅葱色の双眸を光らせ見守ってくれていて。嘔吐感と耳鳴りのするような頭部の痛みを堪えつつ、足を踏みいれてゆく。ドブ沼の如きそこへ。
ずぶずぶと粘液のように躰全体くまなくずず黒いものがまとわりついてくる。さりとて沁みいったり入りこんでくることのなく、呼吸がいささかし辛いだけでーーそれはこの場所に立ちこめる瘴気に対する生理的厭悪感からくるなるたけ呼吸をあさくしたいという意識によるものかもしれぬがーー、何かしら五感の機能が妨げられたり、ということはなさそうではあり。不快感はやはり積み重なる一方なものの、それにも増して鬼胎のほうがより強く。シュガがいることは確信しつつも、はたして行き会えるものなのかどうな。濃密な煙幕の上がっているかのように、全く視界が利かなかったゆえ内部がどれだけの広さであり、構造であるのか見当もつかなかったために。たえずさざめき蠢く気配はするものの、物音といえば自分のたてる跫音と息、烈しい鼓動しかなく。怯み立ちすくんでしまいそうになる身を、奮いたて奮いたてして足を擦り進んでゆく。見守ってくれていたニジの目が思いうかび。ついで、セヒョのこと葉があらわれて、胸のうちで鮮明に見えてくるもののあり。蠱毒と式神についてのはなし。この一体に充満している瘴気はシュガに収められているものであり、この内にはいってゆけるものはこれを内にした宿主に限られる。さりながら、式神の一種という、自らの霊体を切り離したものが身についていたとすれば、瘴気はその者を宿主と認識し受けいれすることだろう。そう心づいたとき、こみ上げてくるものがあって。それは胃の腑を絞りあげる気色わるさではなく、胸のほぐれ熱くなり突き上げてくるもので。打たれたように覚り得たもののあり。膨大な量の憎悪、怨恨、怒り、哀しみ、混乱、救命、それらを抱え(抱えせられ)るという、尋常では耐えられないものに耐えながらも、さらに自らを切り離して護ろうとしてくれていたのだ、とそのことに。吾のために。
熱いものが噴きだし頬を濡らすも、拭うこともせず歩んでゆく。一人都の下働きにゆかされることとなり、憎まれまではせぬにしろ厭われたのではないかと思わぬでもなく。何の役にも立たないゆえ、厄介払いされたのかもしれない、と。でも、そうではなかったのかもしれない。かもしれない、ではなく、そうではなかった。祭司長の手であるらしき者らからの襲来で死傷者を出し、それは頭領の不在の間におきたことであり、もし在していれば被害は禦げたかもしれぬ。実際のところその数日前からいなかったわけであるが、そう思う者は少なからずいただろうし、そして大事な場面で不在にさせたのは事実吾で。そんな状況のなか、あの中でいままでのように安穏にはやってゆけなかったろう。制裁を加えようとしてくる者があってもおかしくなく。人気の荒い者が多いなかにあっては充分にあり得ることで。立場上、見せしめのために、というよりも、吾の身の安全をはかるために。危害を加えられないように、冷然と突き放すような態度をとり、あえてあのような店にいれ、下働きをさせ。疑い、逆恨みしようとしたりしていた自分が恥ずかしく、それ以上に胸ふるわせ、全身を揺さぶられる感情のおきていて。とめどもなく溢れ、嗚咽し。ふり返ってみれば、何時のときを取りだしても、いたわり、大切にしてくれていたではないか。一体、なにを見て、なにを感じ、なにを思ってきたのだろうか、吾は。
「・・・・シュガ・・・・」
明瞭な語にはならず、掠れてか細い声ながら、呼びかけてゆく。肉体的反応までおこしていた忌避感も、あふれ出すもので、なにも覚えなくなっていて。捜している、というよりも、求めていて。謝りたいとか、礼を言いたいとか、そういうものはなくて、ただ、会いたくて。
はっと意識を澄まし立ち止まり。空気に微細な震動がおこったのを感じとり、ケモノ臭をかぎとれ。はっとしたときにはそれは目睫の間に迫っていて、濁った闇のなかでも見えたその姿。シュガ、と認めたときには躰の浮き。押し上げられていて。シュガのゆん手ひとつで頚を鷲づかみにされ、狩った獲物を誇示するかのように軽々と。なにがあったのか咄嗟には判断できず呆然としながらも、喉に喰い込んでくる指を外そうともかぎながら状況をつかみゆき、離すよう声をもらす。シュガの形をした者は、力をゆるめることのなく、うなり声しか出すことのなく。リウは発声がまともにできなくはあったが、聞こえないわけがなく、なにを言わんとしているのか伝わらぬわけのなく。正常な状態であれば。だれも近寄るなと言いわたされていたところへ来たため怒り心頭であるのかと一瞬思うも、そうではあるまいとすぐかき消え。シュガからは怒りどころかなんの感情の波立ちもなく。生命を奪う意思ーーこれを意思といえるものかどうか、意思というか、組み込まれた衝動といったほうが適切か、殺傷のひと色しかない気色。頚を締め上げられ藻搔きながら、リウは覚り。たがために、シュガはだれも近づけまいとしていたのだと。満月と、その前後一日は。洞穴に入れる者はないにしろ、万が一ということがあるために。
喰いいる爪と指。気道が潰されてゆき呼吸が困難になってゆき。もう声も出せなくなっている切迫したなかにあって、リウは抵抗するのを止め。朦朧としてゆくなか、意識をシュガのうちにむけていて。辺りに濃密に澱み立ちこめているものが、身内にも充ちていて。よくよく視てゆくと、それらは全てシュガの内にあるものに繫がれてあるらしいことが分かり。いずこにつなぎ止められているものだろうか、分けいってゆく。大きな球状のものがあり、それは非常に力強くまばゆいものであるようであったが、幾重にも覆われて光を放てないようにされ。その巻かれたものが、縛りつなぎ止めしてあるものであるらしく。並外れて力強いため、膨大な量のものをつなぎ止めていられるものらしい。これを外しさえすれば、本来の赫く玉をとりもどし、正気をとりもどすことのかなうのだろうと視てとり。薄れゆく意識のなかで、手をのばす。心のうちなる手。幾重にも幾重にも縛られ覆われいるものをほどきにかかる。自分の玉の緒は、ここで断たれてかまわないと思う。失いそうになった命を救いあげ、そして護られつづけてきて、いまは御恩報じをするとき。いや、恩返しだとかなにかよりも、常人では耐えられぬであろう重い苦や痛から解き放ってあげたい、ただその一点ばかりで。そして、この一生がこの人の手によって幕を降ろすのであれば、本望。これ以上悦ばしい最期などないのではないか、と。
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