第93話 海鳴り。
うりざね顔で鼻筋のとおり、派手さはないものの端整な顔だち。さりながら眉間に深くきざまれた皺から、心痛を重ねてきたろう遍歴の推察されて。今もまたスケは眉がしら同士を寄せ、訴えるような目をむけていて。リウが水戸やの一員となってもらいたい(一族のうちにもどってもらいたい)という要請は、総領の意向であり、それはつまり一族の総意ということにもなるのだろう。その内に属するものであれば従う他ないわけであったが、スケの形相からは強いられたり立場上やむなく、といった他に、主導されてでなく能動的な熱意が見えて。あくまでも一人の人間として、一人の人間に対して訴えている、そんな気色。そこに相反するもの、逡巡がほの見えもして、故に偽りなきものであることは察することのむつかしくないものの。さりとて、はいそうですか、とすんなり容易く諒解できるものでもなくて。母がジュデの出であり、カミユイの樹を大切にしていることは知っていて。さりながら、母が水戸やの主の一人娘であり、主であり総領であり父の決めた相手がいて、それでありながらべつの者との子を宿し、祭司長の手による危険から単身逃亡したらしいことは初耳で。その宿りし生命は、どうやら、自分のことらしく。さすれば、ふる里と信じていたところは、ふる里でも何でもなかったということになり。それはまだしも、ふる里ではなかったその地にいた父は、実の父ではなかった。そういうことになるわけで。提案に対して、否か応かを案ずるまでにも到る以前の問題にとらわれ、身動きできず。
「知らんかったようすやし、いきなり言われてたまげて、よう考えられへんのやないかなァ」
いずかたからか、海鳴りがかすかにとよもしているのを聞く。ミズクミがリウに、というよりスケにだろう、言い。魂消えると言われれば、そうなのかもしれない。灯っていたいくつもの焰がかき消えてしまったような心もち。地とつながっていた綱をすべて断たれたような気もち。疑いもせず確としてあると信じこんでいたものは、初めから何も、どこにも存在しなかったということで。今いる場所が本来いるべきところではないという感覚はずっとありはしたものの、もう決して手の届かないものになったとはいえ、それはあったのだと思うことができていた、これまでは。ふる里と、ふる里の父と母と。さりながら、母だけが真であり他は勘違いでしかなく。勘違い、幻想でしかなかったのだ。いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと握れば指のあいだより落つ。躰に穴でも空いてしまったものか、みるみるうちに力が抜けてゆくのを感じ、倒れこみたくなり。一人になりたかった。一人になって、うずくまっていたい。そうも行かないと理性で判断して、膝をつかむ手を突っぱらせて、どうにか姿勢を崩さないようにしてはいたものの。躰が砂になってしまったのか、形を保つのが非常に困難に感ぜられていて。いずかたからか、海鳴りがかすかにとよもしているのを聞く。
チュンナ、チュンナ
どごさいぐ
そっちばわしの畑だじゃい
チュンナ、チュンナ
わしの畑、塩辛い
あっちの畑はああめえぞ
チュンナチュンナ
あっちゃいね
チュンナチュンナ
あっちゃいね
必死で腕を突っぱらせているものの、倒壊に抗えないほどになってきて。かがみ込んでしまいたいという願望がつよまり。スズメのさえずりは肉体の耳には聞こえなかったものの、胸のうちに表れてきていて。引き出されるが如く、ふる里と信じていたところにいたいとけなき時分にふれた唄のわき、流れ。そして語りかける声もして。あたたかな男性のものであり、女性のものでもあり。
ーーおらほのめんこいチュンナはどこさもいぐな
ーーめんこいがら、みんなこっちゃ来いていうだ
ーーリウはおらほの一等ひがるたま(光る玉。宝物の意)
持ちあげられ抱きしめられし、吾のたてる笑い声。とっちゃ、かっちゃ。とっちゃは、オラのほんとのとっちゃじゃなかっただな。土と木でできた確かな家と見做していたものは、ワラでできたすぐ燃え去り、すぐ吹き飛ぶようなたよりない紛いものでしかなかった、ということか。かっちゃ、なじょして(どうして)、なじょして。二人にとっても、いらないチュンナだったのだろうか。だから、置いてかれただか。・・・・
いずこかたからか、海鳴りがかすかにとよもしているのを聞く。リウは海を見たこともそば近くへ行ったこともなく、川のはてにあるいう塩からい水の大国、と聞かされたことのあるばかり。大地よりも広大な領域なのだそうで、で、想像することすらしかねたものの、なにゆえか海鳴りと思い。いずこかたからかしていた海鳴りが、大きくなっていて、いつの間にか翳りをおびはじめた室内が、かッと閃光で照らしだされ。ああ、そうか。とよもすのは雷鳴であることにようよう思い到ったときには、だだだッと険しく雨の軍勢が襲い来たり。土や青草の香の混じる、水気をたっぷりふくんだ風のどッと吹きぬけて。轟音のなか、慌てて避難する駆け足と声が往来からかそけくし。もう、どうでもいい。体裁をつくろう気力もつき、倒れこもうとすると、床にひたいの付くまえにとまり。見るとスケの腕に支えられていて。細く見えるも意外に肉づきがよく、力強く、熱い。熱いというのは体温ではなく、伝わってくるものであり、内に宿したものらしく。双眸の奥にも情熱のほの見え。抱きおこされながら、二人に聞こえないようにするためにだろう、耳もとに小声で、
「案ずることない。逃がしたるからな。わいらのとこ来たらあかんで。縛られずに好きなようにいったらええんや。自分がええようにな。それが、あの人の願いに決まっとるし、あても・・・・」
雷鳴のとどろくどしゃ降りの騒音のなか、なんとか聞きとれはしたものの、正直なにを言われているのかリウは呑みこめず、そも咀嚼するだけの余力もなく。さりながら一所懸命に力になろうとしていることは、直に伝わってきて。親身になって。なにゆえか、懐かしさの湧き。ゆめさら記憶にない人で、初めて会った人だというのに。かといって訝るだけの余裕もなく、ただ受け入れ、ただ肯き。なぜか安らぎも覚え、いまは、それだけで充分だった。
「・・・・よう考えてみィ。おとしこむ猶予はいる思うゥ。ゆっきりなァ、言いたいとこけどォ、そう悠長なことも言うとられへんようでなァ」
轟音のなか、やわらかいもの言いながら、ミズクミの冷然とした声に突き刺され。庇うように抱いてくれているスケに身をもたげ、急ぐ必要性のある状況ということなのだろうかとだけぼんやりと思い、思いはさまよってゆく。チュンナと呼ぶ地方もあるスズメ、そしてセキレイなど往来にいた小鳥たち、それらとうろつくイヌは、やはりどこかで雨宿りしていることだろう。蝶やガやハチも。花や葉や枝の陰に身をひそめ。ニジは。ニジは、大丈夫だろう、神出鬼没にあちこちに上手くもぐりこめるのだから。雨音が幾分ゆるやかになってきて。
「あてらのとこ来て、ゆっくり身の振り方考えたほうが、よろしいかもなァ」
「ほんまですわァ。それが何よりでおま。ああいったいかがわしいとこにいたら、考えようにもろくに考えられへんでしょうし、それやなくても身分不相応ですわァ」
ミズクミに賛同し、カクが言いそえ。いかがわしいとこか。確かにいかがわしいと言えばいかがわしいのかもしれない。売り子はせずに、諸雑用をしているだけとはいえ。さりとて、身分不相応というのは、どんなものだろう。血筋としては二天にならぶものであるらしいが(人違いでなければ)、そうはいっても北のはての農村で生まれ育ち、常人(庶民)すら見上げなければならぬ立場の奴隷になって、売られた立場で。雨脚が弱まり、カワズの鳴きだしているのが聞こえてきていて。
日が再び射してきたのだろうか、ちいさく光が現れ。いや、それは肉眼で見えるものではなく、かつ外部にあるものでもなく、灯り、ゆらめき。奴隷から解きはなってくれた人が、あるとき現れて。上げるとか下げるとかではなく、ただ捕らわれから外してくれて。捕らわれ、縛りがあるのは、この人の世の、人の都合によるものだが、それはおのれの内に巣くうものでもあって。自縄自縛であるものから解放しきる、まではゆかぬしにしろ、緩ませられて。その人にとって、自分が何の役に立つのか立たぬのか、必要であるのか要らぬのか判らなかったし、追いだされる格好になったから足手まといで不必要なのかもしれないが、でも、相手のどういうつもりでいるのかは別にして。会いたかった。会いたい。
「もうしばらくしたら、落ちつかはるやろしィ。来てもらいまひょかァ。雨もええ塩梅にやみそうやしなァ」
ミズクミの言に、へぇとカクの返辞。スケは聞こえているはずだが無言でいて、息の整いはじめたリウから、倒れこむことなく上半身をおこしていられるものか確認しいしい身をはなし。ぼう然たる状態から脱せたわけではなかったものの、リウの気持は固まっていて。ミズクミのもとに行くつもりはない。少なくとも、今すぐには。
かんぜおん なむぶつ
よぶつういん よぶつうえん
ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう
ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん
ねんねんじゅうしんき ・・・・・・
カワズの輪唱。人声の賑わいも戻りだしてきて。この軒下に僧がきたものらしく。鈴や誦する音がやんだかと思うと、何やら小競り合いでもしているものか、鋭い女声等のきれぎれと。戸外での言い争い、ののしり合いなどかくべつ珍しいことでなく。ましてや都の中心街から外れたここらでは茶飯事であり。セミもまた鳴きはじめ。
「もう止んだようですしィ、ここらでェ。駕籠よんできましょかァ」
伺いを立てたカクは、ミズクミの鷹揚な肯きを得てから起ちあがろうとしたそのとき、
「いたいッ。タオヤメになにするだァーよー。細腕がおれてしまうずらァー」
騒ぎは外ではなく、内でおきていたものらしい。怪鳥のけたたましく啼きわめくが如き声。階下からそのもの音が次第に大きくなってゆき。室内のみなの視線、もしくは意識がそちらに向かい。そんななか、カクが四隅に配置した香炉を回収してゆく。
「なんだよォー。きょうはアタイは、さるオオダナのダンナに頼まれて人さがしして見つけてつれてきてやってきたずらァー。・・・・悪だくみだァー、人聞き悪いこと言うんじゃねーずらよォー」
どうやら二人でのやり合いらしい。一人はミワアキであり、一人は低い男声。きざはしを上る跫音とともに、二人が室の前に姿を現す。猛々しく目をつり上げ、カモジが落ちそうな勢いで頭をふり、摑まれた腕をふって遁れようとしていたミワアキだったが、リウたちを認めると、
「あーれェー。助けてぇー、このボウズから、か弱いヤマトナデシコだってえのに、無体をはたらかれとるだァーよー」
なよなよと膝を崩し、摑まれていない方の袖を面の前にやり、泣いている仕草をし。突きとばされ、わざとらしく大げさに床にしなしなと倒れこむ。
「無体も舞台もないわ、くされ外道のババア。舞台でもあるまいに芝居がかったわざとらしい真似しやがって。なにが子どものためならエンヤコリャじゃ、ええようにつことるだけやんけェ」
大柄な僧形。長く遊行しているらしく色あせた衣。ここに入るまえにリウは通りで背や横をむく姿を見かけていて、覚えのあり。笠をかぶり顔は隠れて見えなかったが、いまは笠を外していて。鴨居を抜けるときぶつからないようこうべを下げて入ってきて、大きな目でまわりを睨めつけている男には見覚えのあり。
「どないしたんやろなァ。おだやかやないなァ」
ミズクミは姿勢を崩さずににこやかな表情で目だけむけ、そばに戻ってきたカクに言い。
「ああ、えらいお騒がせしてすんませんなァ。このババ、やない、年増に問いただしたいことあって、バ、年増だけで用たりるんやけど、どうしてもここに来ると暴れてしゃあないもんで」
そう頭を搔きながら会釈したのはセヒョで。丸ボウズにしてはいたが、間違いなく。
「あ、リウやないかッ」
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