第92話 煙幕

「ほんとあちィーくて、ヒーヒー言ってきただァーよォー。干あがってヒモノになってしまいそうずらァー」

 いそいそと踏みこんでゆこうとする大年増は、立って来た男性にてのひらをむけられて。瞬時にそのこころを察すことのあたわずにひと呼吸おいてから、口をすぼめて流し目をつくりその手をつかもうとするも、男はわずかに躰をうしろへ逸らし、指をそろえて払いのけるよう上下にふり。即座に呑みこめぬミワアキがきょとんと惚けたツラをするも、次第に眉間にヒビが入ってゆきまなじりがつり上がってゆき。紅を濃く塗り重ねた口が開こうとしたとき、

「ご苦労さんどしたなぁ。ささやかながらねぎらわせてもらおおもて、一室用意させててなァ。もちろん、息子さんとともにぃ」

 間髪を入れずに、さりながらゆったりとした調子で、恰幅のよい初老の男が笑みを崩さずに言い。期先を制されたたらを踏む格好になったミワアキだったが、素早く体勢立て直し、とがらせ剥こうとしていた口をにいーッと横にのばして主の方へとおしろいを塗りたてた面をむけ。手もみをしながら、

「そら、すいません。助かるだァーけど、その、あれは・・・・」

 薄ら笑い(本人にとっては婉然たる笑みのつもりだろう)をして、何かを暗に要求している気色。

「へぇへぇ。すこしばかりやけど、お足代も用意してますさかい。・・・・スケさん、ご案内してあげたらどないやろォ」

 起ってきて間近に立つこのおのこがスケと呼ばれている者らしく、へぇと返辞をし頭をさげ。ミワアキと、廊下にいたリョウヤに声をかけてともない、連れだってゆく。リウは敷居の内側であったがそばに立ったまま、つられて付いてゆきたいような引力に抗いながら三人の後ろ姿を見送り、きざはしを降りてゆくものたちの音を聞き。見つけだしたり呼びよせるのは大変だったずらァーなどミワアキがしきりにしゃがれ声で媚びるように言ったり、ええとかほォとか声をあげつつ。騒音が遠ざかり、包まれていた覆いをはがれたような心細さを感じ。面識のない人らのなかに、一人になって。およそ関わることのなさそうな人らであり、ために何の用件であるか皆目見当もつかず。そういう心もたなさもあったものの、他にも気にかかることのあって。引きずられでもしているかのように、肩を落としてとぼとぼと後ろを追いてゆくリョウヤ。そのことも無論あったが、なにゆえであるのかスケと呼ばれた者についても。

 彼が年増にむかってきて、結果としてとなりにいたリウのそばに来るかたちになったとき、年増とその子を連れてゆき離れたとき、うごきによって起きた風から、ほのかな匂いの感ぜられて。体臭、もしくは香によるものか。どうもそういうものでもなさそうで。雨の立てるかそけき匂い。そんな感じのされて。地表に降りそそぎ、葉や花弁や草をあらい、塵埃をしずめ、濡らししみ、潤してゆく。ものに当たり、はじけるときにおこる、微細な香り。降りはじめに、その音色にも近いものをリウは聞くことのでき。そしてそれはその場所場所でことなるものであって、スケと呼ばれている壮年のものは、町中のものにあらず。シラギ山のものでもないし、ふる里のそれとも一致しないようで。それでいて、ひどく懐かしく。そう感じて得心のゆくものが何ひとつなかったのだが、久方ぶりにーー父母のもとにいた時分以降になるのだろうかーー、覚える安らぎでもあって。その匂いに等しく、霞のごとく淡くはかなきものではありながら。一体、いつの、いずこに。大空のあめはわきてもそそがねど、うるう草木はおのがしなじな。

「遠慮せんとォ、こっちに来てお坐りなはれ」

 いざなわれ断ることのあたわず、そもその気もなく。目的が分からぬし、属する世間も見るからにことなる福々しい外見ではあったが、どこか親しみ覚えさせられるものがあり、素直に従い近寄ってゆき。それは表面上の莞爾として泰然自若たるさまによるものではなく、内なる気配といったらよいだろうか、雰囲気というのか、そこにふる里の樹のかけらを見つけたような、草の生い茂り影も形もなくなったかつて居た場所に心づくような、そんな捉えどころのない感覚。それは脇に控え、オウギで風をおくる壮年のおのこに対してもで。どこからそのような既視感のようなものが起こるのか判らぬものの、同時に油断してはならぬと直感もされていて。草むらのなかに、毒蛇が潜んでいるのかもしれず。突っ立ったまま見下ろす格好でいるのはより失礼であろうと判断し、茣蓙の手前で腰をおとし正座をして手と額を床につけ。こちらがどう感じるかは問題ではなく、また、かつては(今も、だろうか)奴婢であって、相手は両班に次ぐ身分である中人(チュウイン)であるらしかったから。それで言うならば、常民(庶民)である者らに伍して生活を営む現在はあり得ぬことではあったのだが。堕とされ売られ烙印されたものが疼き、叩きこまれ習性となったものがはしなくも出てしまったものだろうか。


 よぶつういん よぶつうえん


 ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう


 ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん


 鈴の音とともに誦する男声。ここに入る前に往来で見かけていた大柄な僧侶が、まだ近辺をまわって歩いているらしい。額や手で床の冷えを味わうなか、聞くともなしに聞いていて。意味はつかめぬ文言であり、ごつごつ固くなめらかでない調子ではあったが、震動があたたかく心地よく。

「まぁまぁ、そんなんせんとかまへんがなァ」

 そう声をかけられ、カクさんと言いつけるのが聞こえると、カクさんと呼ばれた壮年男性に腕をかけられて上半身をおこされ、お近くにおかけになって下さいと小声で、さりながらしっかりした口調で言われ。そこにはいたわるような響きがありもして。顔を伏せながら、茣蓙の端に坐し。

「なにも責めるために来てもろたわけやないしぃ。・・・・そうは言うても、そういう立場にいたはったいうことやしなァ」

 主が話すなか、カクから茶托にのせたうす茶のはいった茶碗を膝のそばによこし。若草の影のさしたようなみなもを見つめながら、どこまで知られているのか定かならぬものの、ある程度まで事情は把握されているらしいと察し。さりとてなぜに吾を、とまたぞろ湧く訝り。そよふく風が、新緑のしたたる野の原にわたるものであるかのようにも感ぜられ。さりとて、萌えいずるものは草花や芽のみとは限らぬだろう。

「そうかしこまらずに足も楽にしはって。と言うてもそうそうすぐすぐはいかへんやろからぼちぼちとなァ。リウさんやろぉ」

 知られているだろうと予測はしていたものの名を呼ばれ、思わずびくッと肩が震えてしまい。気づかれぬことはないはずだったがその反応には触れられず、

「あか、うっかりしとったなァ。こちらでまだ名乗ってなかったわァ」

 そう言うと、代わりにカクが、

「水戸やの主、ミズクミです。てまえがカクで、あれがスケと言います」

 スケが戻ってきた気配を背後に感じ。スケは細面の痩身で、さりとてやせ細っているのとも違いよくしなる竹を思わせ、一方カクはスケと年齢は近いらしく四十あたりのようだったが、堅太りの体躯で、はった顎。朴訥ながら膂力がありそうなししむらと拳をもち。伏し目がちに、それでもスケとカクだけを確認し、ミズクミの膝のあたりの高価そうな布に目をとめながら、水戸やについて思いを巡らす。そう時を要せずに思いあたり。商いに暗く、関心ももたぬリウではあったが、そんなリウであっても水戸やの名は耳にしたことのあり。今いる龍女の売り子の野郎共にも、ため息をつかせ身をよじらせていたもので。都でも一、二をあらそう反物屋のおおだなで、質のよさはもとより、その柄のきらきらしさ、仕立ての良さに、身に纏いたいという者は引きもきらず。ミズクミのみならず、スケもカクの着物も、地味ではあるが上等な織りのなされたものであることが素人目にも見てとれ、過たずそのおおだなであることをその身なりで得心のゆかされて。それであれば、なおさらなぜ、と疑問のつのり。

「どうやら、なんも知らんみたいやなァ。スケさん、教えたったらどないやろなァ。そやなぁ、リウさんがうぶ声あげはるまえくらいでええ塩梅やと思いんやけどなァ」

 へぇ、と腰をおとしたスケはかしこまりましたという謂の肯きをかえし、リウに膝をつきあわせ。リウはそっと目をあげて相手のおもてを見。とっちゃ。そぞろに、父親をかさね見てしまう。実際しるく思い描けなくなっていて、そのおぼろな輪郭が連想させるのだろうか。笑顔をつくっているそれは、ほっそりした面立ちに、柔和な目。その眸子にやどるものに、身内へのみむける、うち震えるような感情が潜んでいるような気のされて。それはもしかすると自分の願望の映し出しであるのか。リウはなんとも判断のつかず。もっとも迷う労などいらず、ふる里の父母が亡くなったことは紛れもない事実であり、おぼろ気になったとはいえ明らかにとっちゃと面貌が異なると認識はできていて。なにゆえそんなふうに感ぜられるのか、吾ながらかすかに途惑いを覚えていて。ミズクミがスケに話すよう言いつけると、カクの方は立ちあがり室の四隅に香炉を配置してゆき。うすく煙ののぼり、かすかにヒノキやら沈香やら白檀の折りかさなる馨のたゆたい。室外を室外から隔てる幕のおりたような気振り。肉眼ではなにも障壁となるものなど現れていないものの、心なしかスダレ越しにはいる日、外音、風、それらの色や手ざわりの変化したような。準備が整った、ということか、スケが口をひらき、

「春夏秋冬のめぐりが十といくつかの前まで、マアヤさんは、わてらと・・・・同じとこにいてはった人で。まだ皆の前で盃をかわしてないうちに身ごもらはりましてなぁ」

 マアヤとは母の名であり、母の話をはじめていることは判ったものの、それ以外は初耳であり想定したこともない事柄で、すんなりと呑みこめず。かつては水戸やの奉公人のひとりであり、その折りにまだ正式に認められる結婚をしてないにも関わらず、という意味はとれながらもそれらをすぐに母と繋げて捉えることのかなわずにいて。ただし、スケのどこかためらいがちに、それでも勇を奮い話す誠実な姿に、騙そうとか偽りのなく、まことを述べているのだろうと信じられはして。であれば、宿ったその子とは。

「だれも・・・・責めるものはなくて、ミズクミさんも婚姻させたろやないかぁ言うてくれたりしてたもんやけど、身重なからだで単身、いずかたへもなく出ていかはって」

 どうして。口には出さなかったがその思いでスケを見つめると、スケは辛そうな色を見せ、目を落とし。どこまで言ったら良いものか思案している気色。一体、なにがあったというのか。

「人払いしたしィ、人ならぬものの耳目も心配ない。そん方は間違いなく、・・・・やし、話してかまへんがなァ。かまへんやなく、話して分かってもらわなあかんやろしなァ。リウさん、心地ええもんやないやろうと思いますけどなぁ、しっかり受けとめてもろてェ」

 ミズクミがリウにむけて言いながら、それは同時にスケに説明するよう促すものにもなっていて。居丈高な響きはつゆなくおだやかなもの言いであはありながらも、有無を言わせず従わせる静かな迫力があって。へい、とスケは肯き、

「カミユイ、それか、カムユイとはご存知か。ほうか、知ったはる。ジュデとかテンジュも・・・・知ったはるんやなァ」

 そうか。リウは先ほどの言と繋がりを見いだし。水戸やにいたというのは、なにも奉公先というだけでなくに。リウの表情から何かしら合点のいったらしい様子を見てとってだろう、スケはかるく首を縦にふってみせ、

「水戸やは、授出(元天授)の血筋の者がおこし、その血筋の者どもで営まれててなァ。むろんそのことは一族しか知らんこと。散り散りになったなかで、唯一色濃く天授の血統をたもつ集まりで、ミズクミさんは総領でらして、マアヤさんは後継ぐはずの一人娘やったァ。幸いというのか、孕んだ相手もどうやら一族の者だったらしいが、だれにも何も告げず出ていかはって。総領の意にそわぬ人になびかはったんか、なんやら、わてにはよう・・・・。なんで、なんでまた」

 スケは腿のあたりに置いた手を握り閉め、体を揺らし。摺りおろかの如く力を込め、苦しげに。

「意にそうもなんもなくなァ、次代を担い、ゆくゆくは返り咲くためにはなによりまず胆力、体力が大切やんなぁ」

 口重なスケにいささか苛立ったようにミズクミが口をはさみ、続けて、

「そんためにはシシムラが頑丈なおのこをてておやにするのが理にかなってるゥ。そやからこのカクと結納もあげてたいうのに、あれは。・・・・まぁまぁそうかと言うて、わしもあの偉そうなお二方とちゃうしィ、言うてくれたら許したし、それをあれも分かってた思う。それでなおなぜ姿くらまさなあかんかったか、ちゅうことやろォ、スケさん」

 軌道修正をはかり。リウはうなだれるスケ越しに、二人にそっと目をむけ、実の祖父らしい人と、母と結婚するかもしれなかった者を見て。母が言うとおりにしていたとしたら、自分は生まれていなかったろうと思われて。ほの見えるミズクミの苛立ちの正体は、スケの澱みがちな説明によるものだけでなしに、そのような状況になって生まれた吾の存在によるものもあるのだろうか、と思い胸が圧され息苦しさを覚え。吾だとははっきり明言されたわけでなく、もしかしたらそれは兄か姉であって、自分はふる里の父との間にできた子であるのかもしれなかったが、リウの知っている母の性分からいってそれはあり得なく思えたし、振り返ってみて村での対応を思いおこしたとき、間違いないことであるように思われて。

「天授を追いだし二天になったはええものの、二天も別れて、宮中には天長さんだけになって、祭司長が天礼さんの代わりを務めるようにならはって。とはいえしょせん天の詔を支える器やないから道理。臓卜師などといういかがわしいもんまで抱えこむようになってなァ。そいつらが卜したところによると、ある年にうまれた赤子が長ずれば御所を脅かす存在になると卦が出てなァ。その年に生むだろう母体は、都におるもんやけど、闇に葬られはじめましてなァ。それはあん人ら(天長、祭司長)らは密かにやってはったみたいやけど、ある程度の身分のもんにはもれてて、わてらも把握してて、それやからマリヤさんも知って逃げはったんやろうけど、それならそれでそんな真似せんでも匿うこともできた思いますけどなァ」

 そうだろうか。リウは耳を傾けながら、閑かに疑念をもち。許したろうと言ったが、それが本心だとして、後にそういう思いに到ったということかもしれず。もし許されて匿われると確信できたとしたら、だれにも告げず単身で、決行するものだろうか。ほとんど自殺行為であるわけで、それでなおやるということは、そこにいる方がより危険と判断したから、としか考えられぬが。ということは、ひょっとすると確実に仕留めるために、ここに呼びだされたのだろうか。

「でなァ。臓卜師の卦に出た子が、もし生きていたとしたら今が仇なす者の現れる年でありましてなァ。念のためまたぞろ卜したらしく、どうやらそれが死なずにいて都におるらしいと。あらかた片づけたはずなのになんや、ということになったらしく、王族や両班には手をつけていなかったからそれらの子息、どういうわけか女人に絞って、集め、吟味するつもりやったらしいけど、その乗った牛車は焼かれてもうて。幸い。まぁ焼かせたんやろうと思いますわァ」

 その牛車からはじき出された者がひとりいて。王族でも両班の者でもなく、女人でもない奴婢の、吾。賊の一味であるゲンタの刃にかかりそうになり、シュガに拾いあげられたことを水戸やの者が目撃していて、それを耳にしたミズクミは聞きながすことなく、売られた先である両班の家をたどらせ、リウやリウの母のいた処や事情を調べあげさせたものらしい。そして今はどうやらまた都におりているらしいと突き止められたのだとか。

「どうということなさそうなこと、およそ関係なさそうなこと。そういう誰もが目ェつけへんとこに、儲けの芽ははえてるもんでなァ。ささいなもんを疎かにせんわけは、それだけやないィ。わてらの扱うもんは織りなすもので、それは商いによるものだけやなく代々受け継がれてきたもんでもある。人と人、人と草木、天と地と、日と水と。この世のすべては結びつき、織りなされてできていて。そのえらい大きな反物をこさえる神さんをならうのがあてら一族。神の結うものを受けることをするのが務めやさかいなァ。カミユイを神さんを縛りつけるとか神さんと繫ぐて誤解したはる人いたはるけどなァ、神さんの結うたもの、でカミユイや」

 ミズクミが手で口をかくして笑い声をもらし、言い。それで結局、吾になにを求めているのか。なにをしたいのか。山椒を買うようおつかいを頼まれたのは、ゆっくりしてくるようにというミカの機転によるものだったが、そうはいってもいつまでも戻らぬわけにはゆかぬし、ゆっくりするどころか窮屈な思いをさせられていて。反面、胸のうちに沁みこんできてもいて。母からよく聞かされていたことに通じるように思われて。紛れもなく、母はこの人の娘であることを感じいり。

 さりとて時は有限であり。あの、と結論を得ようと口を開こうとした瞬間、スケがきっと顔をあげて視線をとらえ、

「リウさん。わてらのとこ来たら、いんやもともとわてらの者やさかい、戻ってきたらどないやろォ」

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