第90話 蹄の下

 さらさらさやけの秋の夜は


 顔をむけると、そこにいたのはシワシワのコメジイ。たなびくうす紅いろの布と、みず色の布が眼底に残っていて。舞うもの音や、歌声を後頭部に聞きながら。垂れたまぶたで狭くなった双眼に怨めしげな色を宿し、翁の不平そうに尖らせた口が開こうとしていて。そこまでありありと思い描けていたものだったが、実際にそこにいるのは小柄な老人ではなく。背丈はおなじくらいであったが、剥きたての果実のようなつるんとした頬の男わらべで、目を伏せがちにし口を突きだしたりもしてなくて。袖を引っぱりながらも、すぐに逃げ出してしまいたいような、居たたまれなさがありありと見えて。男わらべは青洟をすすり上げ。リウははっと目を見はり。日灼けしてなのか茶がかった肌、眉や鼻すじ、口もとに見覚えがあり。まさかと思いながらも、覚えのある、ある種の木の実のような体臭でもあり、間違いなく。注意を引こうとしたということは、この子もこちらを知っているという証左でもあり。

「リョウヤ」

 呼びかけるとびくっと震え、うろたえて今にも駆けだしそうな気ぶり。反応に違和感のもたれなくもなかったが、衝きあげてきた喜悦の前ではかすかなもので、

「よかった。無事で、元気そうで。・・・・あんなことがあって、行方知れずになっているって聞いていたから」

 童子に向きなおり、腰をおとして肩や腕のあたりに触れて、大怪我をしたりもしていない様子にほっとしていて、未だ目を合わせようとして来ないことにリウはさまで訝ることのなく。もともと懐いていたわけでもないし、襲撃から外傷なく遁れられたとて、まだ幼いわけであるし、内面に傷を負っていてもおかしくないわけで。傷までゆかずとも、衝撃を受けたろうことは疑えず、あの山のなかから町まで一人あるいて降りてきたのだろうか。今、どのような生活をしているのだろうか。見たところ、木綿地の質素な単衣ながら垢じみてなく、髪も短くして町の子と言われても違和感のない姿をしていて。いろいろ訊きたいことはあったが、いっぺんに訊かれても困るだけだろうからと、

「いまは、おかあさんといっしょ、なの?」

 そう問いを発した途端、リウはあッと声にならない声をもらして、かるくではあったが息を呑む。リョウヤの全身に緊張がはしり、顔面をこわばらせて横をむき。こめかみに血管が浮いてきそうなほどに頑なな表情。しまった、亡くなったのかもしれない。その態度からそう推察し、ごめんごめんと謝りながら、それも誤った対応だろうかと惑いつつ、今現在いずこに住しているのか訊ね。身なりなどからして、誰かしらのもとにいることは判るし、かつそう酷い扱いをされているのではないらしいことも。あくまでも外見についてのことであって、中身についての実際は何とも計りかねることではあったが。


 花かごに月を入れて


 漏らさじこれを 


 曇らさじと


 もつが大事な・・・・


 別の謡いにうつり。曲調もかわり、舞いもべつになっていることだろう。それを聞くともなしに聞きながら、リョウヤに向きあっていて。怒ったような面つきをしているリョウヤからそっぽをむかれていることは変わらず。頑なな姿勢をどうしたら解きほぐせるのだろうか。さりながらそも、注意をひこうと袖を引っぱってきたのは、この子であるのだから、ということはこの子が何かしら関心か用があって、しかあり得ぬわけで。それであればよけい不可解な態度ではあったが、相手は年端もゆかぬわらべであり、かつわらべにしてはいろいろな環境にいて、とりどりな人を見てきたわけで。その環境、人とは、少なからず裏だとか蔭に属するものであるわけで。


 漏らさじこれを 


 曇らさじと


 ぎゃッ。だんまりを決めこむリョウヤにどうしたものか、放っゆくこともリウにはできず困惑していると、叫び声があがり、どよめきが起き。音曲はぱたりと止むと、騒然とした雰囲気にとって変わり。リウはサダンペの方へむき直ると、舞い手の女人たちは慌てて布をたぐり寄せ、鼓をもった男と路のわきへと遁れようとしている最中で。見物人はすでに散り散りに走り去っていて。アイハラの、と誰かのいう声が耳を掠める。刹那に状況を呑みこめず身がまえ、判らぬながら吾も避難したほうが良さそうだ、いや、吾らだ、と背後の男わらべにも意識にとめ。アイハラとは、何なのだろうか。疑問が浮かんだとき、思案するいとまもなく、この状況にいたった理由を知ることになり。

 土ぼこりを上げて驀進してくるものが見え。イノシシだろうか、それにしては幅がせまく、丈高く。何やら奇声をあげていて。その声でみな気がついたらしい。ざわめきや謡いのなかにいてリョウヤと対し、思いあぐねていたし、危険をともなう存在の声という認識がなかったからこそ、対応できずにいたもので。ケモノが一頭。一頭は一頭で誤りのなく栗毛の駒。ただし、その背に跨がる者のあり。奇声はその者のわめき声で。疳高い声で切れ切れで、なにを言っているのかも聞きとれぬ。意味のあるものなのかどうか、少なくとも万人にとっては意味のなさぬ掛け声みたいなものなのかもしれぬ。そんな詮索などしている場合ではなく。親切に避けて馳せぬけていってくれるようなものには思われぬ勢いで、突っ立っていれば、蹄の餌食にされるかねぬことだろう。それが周知されていたからこその皆の反応であったようで。逃げなければ、もちろんリョウヤも連れて。ようよう動きだそうとした時には、既に爆走し跳ね上げる小石がぶつかりそうな距離にまで迫っていて。鞍上は身分の高いものらしく、光りものの装束で、やけに白い肌、つり上がった一重。冷たく傲岸に見下ろす眼。まわりにいる人らが見えてはいるのだろうが、人とは見做していない色。目の前にいようが、虫けらのように蹄の下にして何とも感じぬ人だろう。見慣れた双眼の気色。都へ連れてこられ、奉公することになってから主一家をはじめとする者らから向けられていた視線。いや、その前からか。父と母がこの世からいなくなり、売り渡されることが父方の親族の間で決まってから続く目線。その眼によって、自分の立場がどうなるのかをおぼろ気ながらも感じとれたものであったが。あのときに聞いた、ふる里と自分を繫ぐきずなが、音を立てて切れた感覚。いずこにも自分の居場所なんてないし、必要としてくれる人もいない。なくなったのだと、そこまで明瞭に意識していなかった(できなかった)はずだけれども、言語化すればそういうようなことを覚ったように思う。そこを抜けられたと思っていたのは勘違いでしかなく、やはり吾は。そして、ふる里のみならずこの世とのつながりも絶たれてしまうことになるのか。チュンナか。彼岸まで追いやられ。

 膝から力が抜けそうになり、それは自らゆるめ、あきらめるということでもあり、玉の緒の断ち切られることを待ち受ける気持に傾いていたとき、胸中におこる閃光。焰のゆらぎ。閉じかけ翳りはじめたところを開くともしび。わが身はともかく、リョウヤの身は守らないと、そう決意できたときには馬の脚は目睫の間。時、すでに遅し。せめてリョウヤだけでも、と振り返ったとき、がつッと硬い音が鳴り、地面に投げだされ叩きつけられ。馬脚が疾駆し通りすぎてゆき。地面に臥していて。顔面が熱せられた土にあたっていて。どうなったのだろうか、つゆ痛みを感じず。感じないだけで踏みぬかれたりしているのか、それとも。・・・・

「おばかっちょッ。なにぼさっとしてただよ。死んじまうずらッ」

 女声、ならぬわらべの声。肩のあたりを軽く打たれ。両うでを前につき、上半身を起こすと、脇にリョウヤが腰を抜かしたように坐りこんでいる姿があり、睨まれていて。リウは咄嗟に謝りながら、リョウヤに引っぱられて倒れ、酷い目に遭う羽目から免れられたことに気のつき。

「ごめん。・・・・ありがとう」

 謝りたいことも感謝したいこともあり、他にもつかえる感情もあり、起きあがり地べたに腰をつけながらリョウヤと向かいあう姿勢をとり。まだまだ幼さの残る男わらべを守るどころか逆に危険に晒してしまい。ニジの危機にも咄嗟に駆けつけられなかったし。ただの足手まといにしかならない。だから、なのだろうか。だから、なのだろう。吾一人、都へ来させられることになったのは。

 ぽたぽたと目の前の土に染みができて。はっとして自分の目からあふれ出たものと気づき、顔を背け。困らせるだけだろう、どうしてこう情けないのだろう、吾は。役立たず。そう思うとよけいこみ上げ、こぼれ落ちてくるもののあり。と、頭に触れられ、小突かれるのだろうかと思い、また謝る(泣いてしまったことを)と、その手は突くのでなくて左右に振られ。ぎこちない仕種ではあったが、撫でてくれているらしい。

「びっくりしたんだら。オレもだ。もう心配ねぇだからなァ」

 小さい声で素っ気ない響きであったが、そのてのひらからも、気づかう優しさが根底にあるのを感じて。こくんと肯き、息を整え。目をあわせると、リョウヤは慌てたように目を逸らし、ふんと言って立ちあがり、

「もう平気なら、行くだぁよ」

 付いてこい、と言っているらしいとは聞きとれたが、はたしていずこへと。七五三屋に、だろうか。吾がそこに往くことを知っているわけがないし。それよりも、リョウヤはどこか怪我をしたりしなかったのだろうか、と目を走らせていると、なんずらと訝られたため問うと、

「オレはそんなヤワじゃないずらな。おら、よそ見しないで付いてくるだよ」

 言動は乱暴だったが、怒っていたりするわけではないことが、ちらりちらりと垣間見えるいたわるような気色から判り。本人はそういう色を出してしまっていることに心づいていないらしい様子で。よく話してくれるようになったこともうれしく、付いてゆくことに決め。さりながら、いずこへ、なんのために。それらを訊くと、

「あんたを知っている人がいて会いたいて。呼んでほしいって頼まれただよ」

 リョウヤの説明はそれのみで。気まずそうな気配があり。都で知人などいないはずだし、ましてや会いたいという人など。かつ、それであれば今の奉公先に来ないで、なぜ往来でなのか。不審をもたなくもなかったが、それはリョウヤのあずかり知らぬことであろうし、呼んでくるよう言われてはたせず、それによって何か言われたりされたりするのは避けたく。助けてもらったわけであり。おそらく人ちがいであろうから、会うだけ会ってみても良かろうと思ったもので。また、せっかく口を利いてくれるようになったのだから、もう少しは話しをしてみたいと思ったからで。さりとて、何の話題であってもはなすというわけでもなさそうで。訊かれたくないこともあろうし。そのため、当たり障りのなさそうな、先ほどの傍若無人の輩について訊ねると、

「ほんとに知らねぇだか」

 と愕かれ、半ば呆れられ、有名なやつだと教えられ。両班の武家のなかでも名家の一つに、跡継ぎが女子の家があり。男子でないことはそう珍しくはなかったものの、やはりその例はすくなく。その少ない一人である「アイハラ」という方は気性が荒く、よく外に飛びだしては酒屋を占拠して飲みあかしたり、先ほどのように馬をやたらめったら走りまわさせたりしているのだという。それによって死傷者が数知れず。さりとて身分の高さから手出しのできる者のなく、触らぬ神に祟りなし。アイハラの奇声が聞こえたらすぐに逃げることが、ここ最近の町中の常識になっているそうな。

「町にいて、そんなことも知らないずらか」

 リョウヤが独りごつ。バカにしたり、からかったりする風はない。むしろぼう然としているようすすらあり。そんなにびっくりするようなことなのだろうか。確かに自分でも、自分がぼんやりしていると思わぬこともないけれど。そう思いつつ、リウはことさらそこに捕らわれることもなく、微笑んで隣にならぶリョウヤを眺めていて。リョウヤを最後に見たときから数か月でしかなかったが、背がのびたようであり、肩や腿のあたりが締まってきて幼児の丸みが消えつつあるのが見てとれ。環境は分からぬにしろ、健やかに育っていて。心根も、また。視線に気づかれたのか、目をむけられ。咎められるかと怯む気持を抑え、何気ないふうに見かえし。眸子に攻めるようなうごきはなく、

「あれ。あれを見ると、あんたを思い出すだァ」

 眩しそうな目をして、はにかむようにしたこうべを前に戻し、指さす先には小川があり。その傍に点々とならぶ彩り。咲きて散りぬと、人は言えどわがしめし野の、花にあらめやも。ひっそりと慎ましやかで可憐なカワラナデシコの花。そうだろうか。自分ではとてもそう思えず面はゆくもあったが、否定が拒むこととして捉えられ、せっかく開きはじめた胸襟をまたぞろ閉じてしまうかもしれぬことは避けたく、また、何にせよ気にかけてもらえていたことはうれしく、そうか、と応えて。リョウヤのことは、何かを見ればということはなかったものの、吾も時おり思い出していて。生きているかどうかさえ分からなくて、もし息のないことになっていたとしたら、自分のせいだと思っていたから、こうして会えてよろこんでいる、と話すと、

「あんたのせいじゃ、ないずら。あれは、あれは・・・・」

 とみにリョウヤの表情が翳り。何かを言おうか言うまいか、逡巡している素振り。リウはそんなわらべの肩にそっとふれて、首を左右に振ってみせ、

「こうして無事で会えたんだから、それで充分」

 それを聞くと、リョウヤが目を伏せ。まつ毛やくちびるに走る微細な震え、内面の葛藤を表しているように思われ。ダイジョウブ、そうリウは誰にともなくつぶやき空を仰ぐ。みず色を塗りかさねたような濃い蒼穹の青。すべるようにワシが飛んでゆき。ひと雨くるのだろうか、入道雲がおこりはじめていて。リョウヤにも注意をむけさせて、降るかもしれないと言おうとしたとき、

「これはこれは。おひさしぶりだァーねェー」

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