第89話 さらさらさやけの
光をはらんだ水の玉がころげ落つ。手のこうにぽたりとあたり、閉じ込められていた光がはじけ、飛び散り。はっとして、止まる手の動き。雨だとか滴りの落つるのは、あり得ぬことで。それはおのが身よりこぼれ落ちしものと気のつき、意識のなく予兆もなくおきた自らの反応にぼう然としながらも、あわてて抑えようとするも、そのしぐさがかえって刺激になってか、余計目にあたたかなものの滾々とあふれ出し、ぽたぽたと手のこうを濡らしゆき。なぜ、なぜに、ニジをすぐに抱えてやれなかったのだろうか。ヌエと称されるアヤカシに戦慄し、足が竦んでしまったのだったが、ふり返ってよくよく思い巡らせてみると、それのみではなく思われてきて。思い出の隅々にまで灯りをむけてゆくと、毛を逆立て尾を膨らませて戦闘態勢をとっていたニジに対する怯えも幾分か働いていたようにも見えてきていて、紛うことなくそれがあったような気のされて。何に対する怯えであったのか。その姿だとか、うなり声にか。それもなくはなさそうであったが、攻撃態勢をとっているところに手をかけたら吾を攻撃対象としてしまうのでは、という恐れがあったようで。父の小さなころ、共に寝起きしていた猫が、となりの家の猫とにらみ合いになったおり、喧嘩にならぬよう抱き上げたのだそうな。激し充ち満ち張りつめていたものが、触れたことによって噴き出したものか、手や腕をざっくりと咬まれたり引っかかれたりしたのだという。その話を稚いみぎり父から聞かされていて胸底に残っていたことも作用していたらしく。要するに傷つけられる恐れを些少とはいえ抱いたからと言えたが、また、はたしてそれらのみであったろうか、と疑念がなくもなく。
ごめん、ニジ。どれだけ凍え縮こまっていた胸のうちをあたため、寄りそいしてくれたか分からぬほどなのに。それなのに、吾は。震える紫に染まりし指さきと、とき色の口唇。ヌエや、愚かにもニジにも怯え、傷を負うことを恐れ。身動きできなかったのは、それらのみではなかったのではないか。密やかにさし込みかかってくる嫌疑をふり払えずにいて。吾のうちのいずこかで、アヤカシがニジに注意をむけてくれていれば自分は助かるかもしれない、という打算がはたらいていたのではないか。絶対にそんなことはなかったと言いきれるのか。言い切ることは、リウにはできかね。
・・・・ ・・・・ さんしょに しいたけ ごぼうに むかご なすびに はくさい きゅうりに ・・・・
自分が傷を負いたくなくて、おのが身の安全のために。それは已むない人情であり、本能にきざしたものですらあるものであったが、リウはそういう自身のうちのさざ波を憎み。そうまでして怪我を怖れたり、生命を脅かされる理由がいずこにあるのか。いや、理由ではなく、価値だろうか。吾ひとりいなくとも、誰のなんの支障もきたさず、むしろ。・・・・そこまでしるく思い案じしていたわけでもなかったものの、自ら自らに対し喰いこませる悔いの手は緩めず。そんななか、ふっと往来から男わらべのものらしい数え唄が、雑踏のたてる音声のなかから耳朶にふれ。さりとてことさら声高にしているわけでも、かん高い声でもなく、むしろ控えめでうっすらと認められ程度のものでしかなく。それがどうしてか耳につき。こちらに来てから聞いた数え唄とどこか異なるような気のされ。また寂しげな雰囲気もあり、聞き覚えのある声のようにも思いなされて。
「なに、グズグズしてるん」
カブの身に刃を入れているミカが顔を向けずに、
「ほんまどんくさい子やねぇ。教えたやろぉ、きざむときは、口で息せななァ。ネギぃ」
謝りつつ、あ、そうだったと思い出し口で吐き吸いするも、後の祭。
「・・・・まぁぼんやりしてまうのも、しゃあないかァ。ゆんべ恐ろしい目にあってなァ。・・・・遅かったやろし、かわらず朝まだきからうごいてたんやろからなァ。それにしてもォ、よう無事でなぁ。なんやったか、あの黒いネコもついていってたんやろォ。さっき庭さきでちらっと見たけど元気そうに走りまわっとったしなぁ。ほんまよかったよかったァ」
青痣ひとつつけることのなく、用事を済ませて往きて復りしことを悦ぶ文句を、ミカから聞かされるのはこれで幾度目になるのか。正午すこし前にくるのがミカの平生であったが、今朝は日がまだ天頂にかかるには間がある頃、じりじりと地面をあぶり出しはじめた刻限にで。アブラゼミがそろそろと鳴きはじめていたなか、店頭のまわりを掃いて打ち水をし、戸や柱を布で手早く拭いていて。ここが済んだら焚きつけつかうマキを用意しなければならず、早く取りかかりたくて。裏手に積んであるナラやブナの材木を、マサカリでもって細く切りわけてゆく。ここに来て初めてマキ割りをするようになり、マサカリを手にし。それまで、一振りで割れるものだと思っていたものだったが、そうではないことを知り。コメジイだとかミカに教わり、指の皮が擦りむけたりしながらも切りわけることができるようになっていて。さりとて慣れればそう力のいらなくやれるようになるも、暑い盛りには厳しくなるため、日の強くなる前になるたけ済ませておきたかったからで。昨夜は胸中をかき乱されつつも、言いつけられた用を済ませてニジともどり、床につくもまんじりともせず一番鶏の声を聞き。平常通り起きだして雨戸を開けたり、廊下に投げだしてある盆や衣類を集めて洗ったりして。祠の世話をしにきたコメジイに、何事もなかったような姿に見えたからだろう、一瞬細い目を見開いて、オウと声をもらし、「つつがなくてなによりじゃァ。ごくろうさん」と言われ、忘れていたのだろう、おはようさんと付けたして。かといって、常とかわらず煙管をくゆらしたり庭の木々をいじったりして、マキひとつ割ってくれるでなく。さりながら、忙しなくしていられるのはありがたくもあって。動揺しているなか、そういう思いに捕らわれずにすむからで。そして柱を磨いていて、いやァーと鳥でも啼くような疳高い声に耳朶をうたれ、慌てて辺りを見まわすと、
ーー無事かえってこられたんやねぇ。えらい心配してたんよぉ。もうあかんのやないかぁて、な正味。どっこも欠けてないみたいやしねェ。痛いとこあるのォ。そら、よかったわ、ほんまなぁ。
いつもより早く来たミカに、案じ様子を身に早めに出立したのか問うと、
ーーせやない、せやないィ。仕込みでちょっと手間のかかるもんあるからなぁ、それだけェ。
と口ではそう言っていたが、勘違いやったわと笑って、床拭きを手伝ったりしてくれて。時おり、なんにせよ無事でよかったわァーと言われ。ふっと緊張がゆるみ胸が熱くなったものだったが、ゆるんだことにより自分のしたこと、しなかったことが冷たく静かに見直されてもきて。ニジを見捨てるような真似をしてしまったことが、次第に胸に応えてきていたもので。ニジはかけがえのない存在で、独りぼっちになりこちらに来て得られた、唯一のぬくもりであったはずなのだけれど。それなのに、どうして。結局、自分自身しか、芯から大切に思えないようなやつなのだろうか。ニジに対してだけでなく。・・・・
「そら、ぼんやりしたりメソメソしてまうのもしゃあないかァ。無理ないわなァ。そやそや、おつかい頼まれてんかぁ」
反応する間を待たれることなく、リウは押しやられるように炎天下へと出て。山椒の粉がきれたから買ってこいと。ついでに喫茶してきたらよい、と金子を渡されて。ためらっていると、偶には息ぬきせなもたへんし、いまみたいにぼんやりされてボヤでも出されたらかなわんからなァと背を押され。厚意であり、確かにその恐れはあるとおとなしく従って。そうでなくとも、普段から指を切ったり(皮膚までではあるが)、カワラケを落として割ったりしているわけであり。
アブラゼミの輪唱。日に灼かれ大気のゆらめくなか、車輪が土ぼこりをあげ、駕籠かつぎらがかけ声を出し出し汗を散らせて馳せてゆく。この辺りで薬味をあつかう店に、七五三屋があり。七五三と記して「なごみ」と読ませ、乾物もあつかい、というよりも乾物屋であり、売りものの一部に薬味もあるというのが正確なところであって、リウが今いるところ屋号「龍女」のゆきつけで。近くに薬味をあつかう店はあったのだったが、なんでもコメジイがその乾物屋を気にいっているらしく、そこを贔屓にすることになったそうで。コメジイの姿が見えないとき、ミカが笑いながら声をひそめて教えてくれたところによると、そこの看板娘がまだ年端もゆかぬうちから岡惚れしているためらしい。
ーーなんやらァ、いつもの伝で、自分は偉いカミさんのボンの、カミさんで、そん娘は伴侶になるメガミさんなんやてェ。タマシイがやから、今はわからへんみたいやけどォ。ほんま迷惑なはなしやでェ、娘さんにとって。それでなんやら出来るだけの金も力もないからなによりやけどなァ。それやったら、なくなったオクさんとか娘さんどないなるんや、て話やけどォ。まぁ、ふたり立て続けになくしたらなぁ。そんなんあり得へん、まともなもんなら思いせんようなアホなんに捕らわれるようなってもうかもしれんしなぁ。しゃあないんやろなぁ。
君が愛せしあやい笠
落ちにけり落ちにけり かも川に川なかに
それを求むと尋ぬとせしほどに
明けにけり明けにけり
さらさらさやけの秋の夜は
往来に、ちょっとした人だかりがしていて、歌声が聞こえてくる。色あざやかな布の舞い。中心には二人の女性が、手にした長い布をなびかせて躍っていて。坐して叩く、男の太鼓の音にのせて。身なりこそ質素だったが、うす紅いろのものと、みず色の布は天女のはごろものように、交差し、ならび、舞いおどり。サダンペ、と呼ばれる人ららしい。おちこちを遊行し、主に寺に寝泊まりするらしい要するに旅芸人ではあったが、旅芸人とは明らかに異なる部分もあり、それは謡いや舞いに仏の教えを交えたり、御札を広めする行為もあって、それゆえに寺の世話になれるわけであり。仏は常にいませども、現ならぬぞあわれなる。もっとも、その必要性によっての色あいであるのかもしれぬが。とは言えやはり、一般の認識は傀儡師、河原者でしかなく、一段も二段も低く見なすふうがあり。龍女のもっさりした野郎共もまた、品がないやんなァとせせら笑ったりしていたものであったが、サダンペを初めて目にしたリウは思わず立ち止まり、見物人のひとりとなっていて。
・・・・・・ かも川に川なかに
それを求むと尋ぬとせしほどに
明けにけり明けにけり
さらさらさやけの秋の夜は
まだまだ秋にはほど遠く、町中を走る川も湯にかわるかというほどの暑さのなか、心なしか水のながれもひだるそうにゆるやかに見えるほどながら、謡いと宙にながれるけざやかな色彩が涼やかな景色を感じさせ。爽やかなそよ風が吹き、モミジがひらめくような思いを抱かされ。天つ風、雲の通い路、吹きとじよ。すずろに眺めいっていて、片腕がとみに重くなるのを感じ。はじめ、誰かの手が偶々あたってしまったか、間違えて引いてしまっただけだろうと気にとめないでいたものだったが、引っぱられ続け。どうやら吾を知っている者らしいと思い到り、ここらで吾を知っていていま時分戸外をあるいるようなものは一人しかなく。コメジイだろうと思い、謝った方がよいだろうかと少々困惑しながら顔をむけ。油を売っていると咎め立てされるのか、それとも七五三屋にゆくことを勘づかれて、自分が往くと言いだされるのだろうか。
えッ。顔をむけたリウは、戸惑い。袖を摑んでいたのは、小柄な老人ではなく。この人は・・・・。
さらさらさやけの秋の夜は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます