第87話 けったいなん
「せわしないしとるときにィ、堪忍えェ」
脱いだ着物や紙きれが雑然と床に散らかる室内に、リウは通され。ナメクジのように白くヌメヌメ全身たるんだ中年男は、文机にしだれかかるように床に座り込み、前にくるよう目で促し。結いあげていない艶のない髪は肩にかかっていて、気になるのかダンゴ虫のような指でかきあげ、かきあげして。机上には広げられた帳面と筆があって、どうやら稼いだものやら支出するものやらをしたためていたものらしい。呼び出しの声をかけられたとき、リウは包丁を引いていたミカの脇で黒ゴマをスリコギであたっていて。ゴマは香りが立ちはじめたばかり、まだまだ粒の残っている状態で、途中でほうり出すのもどうかとためらったものだったが、相手は店の主ノレンであったし、ミカはただでさえ険のある面にきつい皺を刻みながらも、ここは大丈夫だからと頷いてみせられて。取りかかっていたものは、売り子らの昼餉だとか夕餉もあったが、なにより客に供する料理もあるわけで、それを主であれば当然承知しているわけで、そんな中でもあえて抜けさせられることなどリウは初めてであり。よっぽどのことなのか。さりとて思いあたることのゆめさらなくて、皆目見当もつかぬからこそ余計に平静ではいられずに。暑さによるものではない汗の、腋やてのひらにわき。
「だいぶここの仕事にも慣れてきたんとちゃうかァ。ようやってるぅ、助かるわァて、ミカも褒めとったしィ」
机上に頬杖をつき、ノレンは横にツラをたわませ。笑みをうかべているつもりらしい。目までは作り笑いがかなわぬらしく、見据えるようにすがめて言う。なにを言わんとしているのだろうか。ミカから何か訴えられたのだろうか、と一瞬脳裏をかすめるも、それであれば直にはっきり告げてくるだろうし、先ほどの態度からしてそれはなさそうに思われ。されば、他になにがあるだろうか。真綿で締め上げられでもしているかの如き、じわじわと責められている気分であったが、もしかするとそれも狙いにあってのことか。
「十人十色。いろんな人いたはるやんなァ。おんなじ赤いおべべ見ても、縁起がええてよろこぶもんがいてれば、なんやいとけないめんのやないのぉて笑うもんもいててぇ」
まだ本題は表れないのだろうか。煮込んだ餅のようにたるんだ面貌からは、参考になりそうなうごきは見てとれない。言いぶりと等しく、のたりのたりあくまでも世間話をしているときに相応しい色で。さりながら、ほんの少し、かけらのようなものではあったが、逡巡が垣間見えるような。この辺りの土地や職業柄による習性となったもって回った言い方をしている、それが少なからずあるとして、言い澱んで、という気配がかすかに感じとれて。
「コメジイは文句いわへんしィ、さっきも言うたとおり、ミカが褒めてるしィ。あんさんがするんはそっちの仕事やからなんも差しさわりないィ。ないんやけどなァ。・・・・モノがなくなって、くすねたんやないかァてなったらなァ」
もの言いは変わらぬものの、と胸を突かれ。誰がとは名は出さなかったが、客から送られた物がなくなり、探したところ、それがリウの室内から見つかったのこと。彼らはともかく我は窃盗があったとは思わぬが、そういう騒ぎがあって何も手を打たぬわけにもいかない。ノレンは相変わらず頬杖をついた姿勢のままで、ぽつぽつと語り。手にふやけたかがみ餅を乗せているようであったが、心なしかたぷたぷと動かすぶ厚いくちびるの端にこわばりというのか、緊張がほの見えていて。それはためらいによるもののように感ぜられ。今から口にすることに対するものらしいが、それを押しやるように口火を切り、
「・・・・をな、お願いするわァ」
リウは頭を下げて辞し、厨へもどり。遅くなって、と謝しながらゆくと、コメジイがすり鉢を脚の間に抱えてゴマを念入りにすりこぎで当たっていて。ミカが険しい表情でこちらを向き、
「のらりくらりしてるだけのじいさまが珍しく顔見せたから手伝ってもろてたし、かまへん、かまへん。それより、カマドの火かげん見てくれへんかァ」
リウは返事をして火に近寄り。なんじゃ、のらりくらりしてるだけのて、人がすけてやってるところに、とコメジイはぶつぶつ不平を漏らしていたが、そう立腹もしていないらしく作業をつづけていて。ミカは取りあわず、リウがそばに来ると、
「おかみさんから、なんて言われたん」
単刀直入な問いにリウは面くらいながらも、たまゆらの間、どう話そうか思案し。何があってそうなったのか知っているのか知らぬのか、いずれにせよ結論だけでよいと判断し、
「・・・・屋さんまで、文を届けて欲しいと」
へっ、とミカが大きくはないが意表を突かれたといった声を発す。それだけで済んだのか、と。忙しい最中無理やり抜け出させたのが、それだけの頼みのためであったことは、拍子抜けするのは当然のことだろう。やはり経緯を話さねば満足してもらえぬだろうか、問いただされることになるのかと、ミカのわきで青菜を大ぶりに刻みながら冷や冷やとしていると、
「・・・・でぇ、いつ届けろてェ」
と声をかけてくるコメジイ。愕きながらも、確かにそれを言えばだいたい事情が伝わりそうだと気づかされ、老爺に促された格好で、それでもおそるおそる、
「丑三つ時に、と」
刹那、二人とも口を閉ざし。湯のたぎる音、薪のはぜる音、往来の喧騒は日のいろに合わせるかのように勢いがゆるやかになりだしていて、カラスの鳴き声やひぐらしの声がして。わらべの数え唄もまた。
・・・・にんじん、さんしょに、しいたけ、ごぼうに、むかご、なすびに・・・・
「うしみつどきィー」
驚き思わず独りごちるようにミカが言うと、
「・・・・屋いうたら、黒雲(神社)さんそばやしなァ」
コメジイが補うようにぼそりとつぶやき。
「そら、あんまりにも酷い仕打ちやでェ。おかみさんに、うちからいうてやろかァ」
リウは首を左右にふり、青菜に集中しているふりをして、うつむく。なにゆえノレンからそうされるのか、わけを聞かれないことから、中年女も老人も知っているらしいことを察することができて。
「そやなァ。このおばはんに言うてもろた方がええかもしれんなァ。ただでさえその刻限は出歩かんほうがええし、ましてや御所の近くやろォ」
「逆らいたくない、荒だてたくない、ていうんは分かるけどなァ。なら、まだ明るいうちにこっそり届けにいったらええんちゃう。うちらで口裏合わせるしなァ」
「追いだされること案じてるんかなァ。そんならそれで何とかなるもんやし、出ていかされる方がよっぽどましかもしれへんなァ」
リウはなんとも返事をしかねていて。ことを荒だてたくないということや、追いだされたら行き場がないということは、確かになくはないものの、ここに居るのはシュガの意によるものであって、あたう限りその意に沿いたいと思うものだから。そうされたことに、配慮を感じとっていたからでもあり、そう危険はないはずだと信じられたからで。ノレンのもの言いも、傲岸に命令するといったものではなかったし、心配ない思うわとつけ足しもし。気休めもなくはないにしろ、気色として、誰かに聞かされたことを伝えているようなところを感じとれ。それはシュガではないか。臆測にしか過ぎなかったが、シュガの意をどの程度かノレンが受け、そしてさせるのであれば、さまで案じることもないのではないかと思えもして。いや、信じられる、信じたいという思いだろうか。それはもとよりノレンのこと葉だとかノレンに対してではなく、そう伝えた人に対して。だれを疑っても、自分自身をつゆ恃むことのできぬとしても、その人だけは疑ってはならぬような、そんな気のされて。
「ほらァ、どないすんのん。おかみさんにかけ合うんがいややったら、今でもこっそりゆくしかないでェ」
「そやそや。ワシのように信心深く、特別なもんはアヤカシなんぞ平気やんかァ。そやけどぉ、くさぐさのもんには、さがしいことやァ。なんやら、百鬼夜行だけやなく、けったいなん出てきてるみたいやしなァ」
「なんやのん、そんなんアヤカシがシッポまいて逃げだすような偉いおひとやったら、ついてってやったらどないなん」
「・・・・そらッ、あかんッ」
「なにがあかんねん。ホラやないならええんやないのォ。困ってるもん、現におるんやしィ」
「むやみやたらに力をみせるもんやないんやでェ。金持ちケンカせずじゃァ。体もよわなってきたし、はよ寝ななあかんしなァ。カンナガラ、カンナガラ」
「ふん、なにがカンナガラ、カンナガラじゃ。カンダガワのほうがずっとええわ。うりちゃんも、ちょっとの工夫でこの美味さ、て。口さきばっかりのお偉いカミさんだこと。こんなホラふきじいさんはどうでもええねん。こっちはええようにするから、さっさと行ってすませたらええわァ」
ミカに促されるも、リウの気持は決まっていて。この場では気どられずにゆき済ませることは確かに可能であろうが、届け先が気づくことは必定であり翌日にでも露呈してしまうことだろう。何より、シュガを信じれば一択しかなく。さりとて不安はやはりあって、力をこめても脚や手やらに小刻みな震えがおこり。コメジイがちらりと触れた「けったいなん」を、うわさ話としてミカから聞かされていたこともあって。
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