第86話 櫛
「いやァー、どないしたんやろォ。うちのお櫛、どこにも見あたらへんんわァ」
マツが疳高い裏声を張り上げ、大柄で丸太のような躰をくねらせて廊下をドスドス音を立てて練り歩き、
「とみ屋の若旦那が、うちにってこしらえてくれたええやつやんかァ。お座敷にはつけるようして、そら大事にしとるのにィ」
となりに小柄で痩身の、これまた同じ売り子だろうと分かる身なりや身のこなしの壮年男子、アリヨ。剃り跡青々した眉間にシワをよせ、顎に手をあてて、
「あのベッコウのえらいきれェーなやつやんなァ。うらやましいわァー、てみんなで言うてたんよォ。姐さん、ほんまなん。どこ行ったんやろねェ。足がはえて、勝手にどっかいかはるはずないやろしぃ」
客の退け、店の開くまでだいぶ間のある刻限。日が天頂から下ってきていたが、まだまだ勢い盛んで屋根から大地まで炙りつづけていて、ミンミンゼミがしきりに鳴き交わし。墨も紅も白粉さえたたかぬ、朱いろの寝間着をしどけなくーー本人らはそのつもりらしいが実際のところだらしなく身につけた男が二人、寝起きのむくんだ顔を見合わせ、声をひそめる素振りで聞こえよがしに話していて。三十四五にし成りぬれば、紅葉の下葉に異ならずと女人の盛りを言ったものだが、二人は男性であって、かつさらに齢を重ねているらしく。白粉だとか不摂生のせいもあるようではあったが、肌に艶がなくそそけ立ち色がくすみ、髪が細くなってきて額の面積が広くなりはじめていて。それはそこにいる者らだけではなけれども。
都からすこし離れたこの一帯は、歓楽街であって、春をひさぐ店ももとよりあり。そんな軒のうち、ここをならぶというのもおこがましいような粗末で小さな造りではあったが、この近辺ではここだけという特色をもち、なんとか生きながらえているらしい風情。それは売り子がすべておのこ、ということであり。都の中心地に近いところにある色街には、「カジュ」というある種流行にすらなっている男色を売る処があって、出入りする者の身分が比較的高く、もっとも噂によると高位の官吏や僧も客になっているらしいとあるが、それはあくまでも噂ですまされなければならぬことで、身分がさほどでなく利用したくばそれなりの金子が必要となるわけで。とても利用できない、されど、という者がこちらへ流れくるもので。それはこの店のみならず、この辺りにあるここよりは見映えのする隣近所もまた、中心街から流れてくる客の溜まり場であり、一口でいえば、場末ということ。売り子は男女限らずに、それに相応しく、岩場にはさまる枝や葉、漂流物のような者ばかり。活気に欠ける、締まりがないと言えなくもなかったが、それは何もわるいこととばかりも言えないらしく、
「なんやらえらいシケたとこ来てもうた、しもたって思っとるかもしらんけどなぁ。たしかにあちらさんは、ようさんお客さん来はるし、そのお客さんもなかなか拝めないようなお人もおる。やまぶき色のキラキラしたもんがようけェ飛びかうもんやけどなァ。そやけど、そやからかぁ、まぁまぁそら、そこでやってくのは、あんじょう気張らなあかんくてなェ」
なにを思ってか、包丁を使っていたミカに、そう話されたことがあり。不服そうにしていると見られたのか、もしくは特段の意味もない軽口であったものか。口ぶりはそれまで喋っていた世間話とさまで変わるところのなく、聞きながしてしまいそうになりながらも、何となく気をとめられるものがあって。それまでの話とは、異なるものが含まれてあるような気のされたからで。もしかすると、そこに居てたことがあるのかと思い当たり問うと、「まぁまぁまぁ」と否定とも肯定ともつかぬ返事を笑いまじりにされて、
「それなりのとこは、背負うもんもそれなりに大きゅうなるいうことでなァ。こんなみすぼらしいとこでも、こんなんとこで、しかもオサンドンやけど、そやけどなぁ、キラクはキラクやしィ。これはこれでええんかもしれんでぇ、ってはなしや、それだけェ」
ミカが身の上を語ることはなかったが、その話を聞いてから気をつけて見ていて、かつては、それなりの芸妓かなにかだったのではとリウは見なしだし。売り子らの着こなし、合わせる着物や帯について、身のこなし、謡いの調子について、彼らにむけた、彼らには聞こえないようにつぶやく悪態が、鋭く的確なように思われてならず。もとより、リウは花柳界に全くつうじていないため、素人なりにそう思うというだけのことで、そういうミカの目(批評)をとおして白粉臭い男どもを見たときに、粗が見えてくるように思われて。その目から見て、どうやらリウは磨けば光る玉のようで、
「カジュにでもいったら稼ぎ頭になれそうなもんやのになぁ。・・・・そやけど、それはそれで、むごいことなるかァ。気だてとして、合わなさそうやんなァ」
とため息をつかれることが時おり。そこの内部どころか外観すら目にしたことのなく、売り子らが外で歌う姿をちらりと見たことのあるだけで、関心がつゆさら湧きもしなかったためリウは困惑するだけであって。見誤りではないかと思われもして。ただ、そんな折りにはよく、タマからつよく言い含められたことが思いおこされもして。シュガから行く先を言われ、なにか商売をしているところらしなくらいにしかリウは見当をつけられなかったのだが、そばにいたタマは、それってと思案を巡らせつぶやき、はっと思い当たると目を見開き、シュガを睨みつけて。それに気づいてかいないでか、下働きをしてもらうことになるとだけシュガは補足し。タマはいまにも噛みつきそうな様子を見せていたものの堪え、ただ、リウには、
ーー厨なんかではええけどォ、そこに来る客と会うようなとこでは手ぬぐいで顔隠すんやでェ。必ずやでぇ。痣があるとか傷があるとか、なんとでも言えばええんやしィ。
真剣なまなざしで、絶対やでェと繰り返し言われ約束させられ、なんのためか意味が分からなかったものの、わが身を案じてのことであることは判り、言いつけは必ず守るからと肯き請け合ってみせたもので。訪れる場所が、いかなるところであるのか緊張や不安が勝り、気持の余裕もなくて、タマの言った真意を考えることも、思いうかべることすらなくいて。ともかく機械的に言われたとおりにしていたものであったが、場やすることやらに慣れてくるにしたがって徐々に、どうしてだろうと、何となく考えるときも時おりおこるようになってきていて。どうやら祭司長が暗躍しているらしく、シラギ山の砦を襲撃したのもその手によるものらしく、天長と祭司長の御座す宮のある中心街から離れていて、およそ高貴な方々は近づかないような場所ではあったが、そうは言っても都の内であることには変わらぬため、祭司長の手の者に気取られぬためのことだろうか。さりながら、タマが強く言ったのは、客に顔を見られないようにしろとだけで、他はかまわないというふうであり。気取られないようにすることが目的であれば、外に出る用も時にはあるため、そのときこそ要るのではなかろうか。そも祭司長側の人が、吾を知っているだろうかという疑問もわき。また、そういう危険性があるところに、寄こしたりするものだろうか。そう考えてゆくと、タマの言わんとする旨が掴めずに。気まぐれに、やくたいもないことを言ったとも思えないし。
「いままでェ、そんなんなかったんやけどなァ」
「ほんまやねぇ、姐さん。どないしたんやろォねェ」
マツとアリヨが廊下を練り歩いていると障子が開き、
「どないした、あーん」
面を見せるなり問いながらあくびをして、はだけた前から手を突っこみ腹をかいているのは、顔面の大きい中年男、オスピで。
「オスピ姐さん、起こしてしもたァー、堪忍えー。それがなァ、マツ姐さんのなぁ」
くたびれ染みのついた雑巾のような三人の男どもが、べちゃらくちゃらくだを巻いているなか、彼らの衣食住のために小走りで往来していて。廊下で彼らを目にし、話声ももれ聞いたりしていたが、ゆっくり聞いていられる暇もなく、仮にあったとて加えてくれることはないと察していたし、まず関わりたいと思えなかったため忙しくてむしろ幸いではあって。通りかかるたび、ちくちく刺のある視線が飛んでくるような気のされて。声の調子も、矛先が向けられているようにも思われて、さりとてゆめさらあずかり知らぬことではあり。三人は連れだっていずこかへのろのろと歩いてゆき。用があって往来するなかを男どもは障害になっていたため、ほっとして。洗って庭で乾かしておいた木おけを、風呂場へもどしにゆき、厨へもどろうとしたとき、
「ちょい、待ちやァ」
戻ってきたアリヨに突然水をかけられるように、声をかけられ。びくっと愕き立ち止まり、そちらを向くと、三人がいて凝視されていることを知り。マツのナマコのような指に抓まれたものがあり。どうやら櫛で、騒いでいたそのものを見つけたらしい。それなら喜びそうなところだろうに。アリヨは三白眼で睨めつけていて、オスピは面倒くさそうに頭皮をかいていて。マツは袖を目もとにあてたりして泣いている素振りをし、怨めしげにこちらを見ていて。なにがあったのか皆目見当がつかずに呆気にとられ眺めいて、そんななかでもどうも自分にむけて責める気色があることだけは感ぜられ。
「いまから、おかあさんのとこに言いにゆくからねッ」
アリヨに叩きつけるように言われ。何を言いにゆくのか、なぜそれを吾に告げる必要性があるのか全く理解できず、はぁそうですかと困惑して応えると、
「信じられへん。根っからの卑しいやつやわぁ」
痰をはくようにアリヨが発すると、いややわァとマツがぶ厚い手で顔面を覆い。オスピはうすいため息をつきながら、
「うちはもうひと眠りするわぁ」
と自室へもどり、
「オスピ姐さんは自分のことやないからてェ、ほんま薄情なとこあるなぁ」
アリヨがマツの肩を優しく叩きながら、二人は主の室へと。こうして突っ立っていても詮ないことで。夕餉やら客に出すつまみやらを作るミカの手伝いがあるため、厨へと馳せる。買い出しにいったり、薪をくべたり慌ただしくしている間に、マツとアリヨらの不可解な様子から受けた動揺の薄れゆき。忘れかけてすらきた頃。不意に水ぶくれになった土左衛門のような、色白の男が顔を覗かせて、
「ちょいと、いいかねェ」
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