第85話 左肩のぬくもり。

 たゆとう波のまにまに。日の沈みきったなかにあって、ちらちらちらつくのは漁り火か。もっとも、リウは海というものを聞いたことのあるばかり、今生ではまだ目に、耳に、肌にふれたことのないもので。地表より広大な、塩辛い、あらゆる生命をうみ出し生死を抱えこむ豊穣な水だというそれ。せいぜい沼や川しか知らぬはずであるのに、あたかも触れたことのあるかのように、そこにいたことのあるかのように、自らがその一部であるかのように、むしろそれが己が一部であるかのように、馴染みのあるぬくもりのうねりのなかに融け、ゆれゆらめく心地。たゆたうように焰のゆらぎ、狭陋な室に影の踊り、舞い。ゆらぎ霞むは、蠟燭に灯ったもののうごきや、すきま風のせいだけではなさそうで。まどかに満ちはじめた月かげ。水を浴びて後にした月光が、肌から染み込ったとでもいうのか、いまも胸のうちに射し込み照らしていて。胸中は水面の如し、揺れさざめきが白い光を散り散りに、形を安定させることのなく。


 往相、還相の廻向に

  もうあわぬ身となりにせば

  流転輪廻もきわもなし

  苦海の沈淪いかがせん


 手ぬぐいを目もとにあて、紙燭の火を吹き消して寝床に横になり。なにも哀しむこともないはずなのに。いや、そういうものともまた違うのか、この疼くものは。いい加減、はやく寐ておかねば。寺の鐘の鳴りだす前には起きておかなければならぬのだから。明かりとりからの、漏れいずる月の影のさやけさ。同じ家屋で男たちのうめき声や笑い声が時おり聞こえなくもなかったものの、遠くからイヌの遠ぼえがし、マツムシやスズムシの輪唱。昼間の喧騒は嘘であったように、静かにふける夜。さりながら、まったくの別のものでしかなく。山中の、深々と沈もりゆく森閑とした漆黒の闇とは。・・・・

 左肩のあたりに手のひらをおき、撫で。そこにまだ、感触やぬくもりが残っているような気のされて。いや、そうあって欲しくて、がより近いのだろうが。リウは左の肩に手をおきながらまぶたを閉じて。ひと月以上前、かるく触れられただけのものが、シルシを付けられたようにけざやかに残り、思いおこせ。ひとたび軽く打たれただけであり、相手自身、軽い、なんの気なしにしたことであったろうが。その程度のものが、どうしてここまで温かく、切なく、胸に応えるものであるのか。リウは思案し突き止めるでなく、ただそっと抱えていて。繊細なつくりの、高価な器ーーそれよりも希少なものかもしれぬーーをあつかうときに慎重に、細心の注意をはらってそうするが如くに。

ーーナンマイダー、イチマイダー。ナンマイダー、わしゃニマイメダー。ナンマイダー、そち、サンマイメダー。

 知らぬ場所、知らぬ人らのなかにきて、サンキュウは頓着することなく、ふところから取りいだしたるシャレコウベを木魚がわりに撞木で打ち鳴らし、歌い踊り。出入りの番をしていた二人の中年男だけが、出てきた者だったが、老爺の声と音に引き出されるように、男わらし、女わらしがおちこちの洞穴から顔を覗かせ現れ、なかにはマイドー、マイドー、ボチボチでんなーと一緒に手をあげ和するものあり、が、そのほとんどはリウやシュガにすぐに気がつき、オカシラさんやァと叫び。駆けよってくるものあり、穴の中にもどり知らせるもののあり。よほど奥行きのある広い洞であるのか、総勢四、五十名弱、姿を現して。ムラを構成していただいたいの人らがいるように、リウには思えたものだったが。モリゾウやイチが欠けていることは想定のうちで。

ーーどないしたん、泥だらけやんかァ。なんにせよ、無事やったんやァ。オカシラさん、一人で飛びだしてって、どないなったやろ、ってえらい案じて・・・・ってそれもそうなんやけどなァ、ひとのこと心配してられることもできんような塩梅になってなァ・・・・

 タマがリウを見つけ馳せ寄りくると口早に言い、足もとにいる黒猫をかるく撫でて、

ーーあんたもどこ行ってたん。あれから見えへんようなったから、どないかしたんかと思ったんやでェ。

 それはニジにかけていた文句ではあったが、自分やシュガにも幾分か向けられている淡い非難のようにリウは感じとれ。そう言われても、リウ自身、おのれの身におこったことがなんであったのか判らないでいたのだったが、砦に一体なにがあったか、それも判然としないにしろ、少なからずおのれが関わってのことらしいとは判断がつき、ごめんなさいとうなだれると、

ーーなんも、一個も謝ることないでェ。リウが悪いわけでも、オカシラさんに非があるわけでもないんやからなァ。

 タマは、声を張り、高くあげて。周りによく聞こえるようにだろう、態とらしく一語一語強調して。声の音量を落とし、といっても通常の話しぶりくらいにして、

ーーオカシラさん飛びだしてったらしいな。トリちゃんまた寝込んでたんやけどなぁ、不意に起き出して、なんやおかしいて。なんでか掴めへんけど、ようさん人が来てるて言うてな。ハナちゃん、ツキちゃん、カゼちゃんらはなんも感じひん言うとったけど、なんも感じひんのがおかしいわ、てトリちゃんが。

 人、またはケモノなど動く生きものに限らず、万物に気配があり。花や草木に、空に、風に、雨に、土に。それら一切が遮断されたように感じとれなくなっている異常。何かの力が、それも自然の力でないものが働いているようだと察知し、訴えたものらしい。タマが飛んで知らせてまわり、その最中で番人をしてる二人が縛り上げられ失神した状態で転がっているのを見つけ、リウがいなくなっていることに気のつき。シュガはまだ山に籠もっているところで知らせるにも場所がわからずに聞くも、何があってもこの間は立ち入りを禁ずとなっているとのこと。今日にでも出てくるはずとも。が、それを待つほどの余裕はなさそうなことは、トリの青ざめ震える様子からも見てとれ。触れまわったなかに、モリゾウやイチがいて。正直、寐てばかりいたり徘徊している老人らに知らせてもと思わなくもなかったが、意外や意外、その翁と媼が人がかわったようにしゃんとして、目に強い光を熾し、みなに説いてまわりだし。手向かうことならず、早く山のなかへ逃げろ、と指示を出し。後はわしらが喰いとめると。

ーーあんなヨイヨイになにができるんやかと初めはうちらも呆れてな。のされた人らはおるけど、襲うなら一気にくるもんちゃう、そもそもようさん来たりせんのやないかてな。そやけど、あんときのあんひとらからは、どわっとなんやら吹いて出てる感じでなぁ、誰も逆らわれへん迫力あって、逃げることしたんよ。いんや、ちょっと逆らうのがおったはおって。・・・・

 おハツも来ていて、シュガに話していて、しきりに袖を鼻の下にあて。赤らむ目もと。おハツの旦那であるゲンタは、老人らを甘くみてか、もしくは何か騒動があるのであればシュガがいない内に、手柄をあげておきたいと思いでもしたのか、従わずに、それでいて表立って反抗する勇気もなく、居酒屋にしている家屋にこっそり潜んでのこり、ちびりちびりとガマズミ酒を啜りながら。潜み、酒を盗み呑みというのはもとより目撃者がなく、残された状況からおハツなどが推し量ったことであり、弱くなったとはいえ雨のなか、大勢の人らとともに、子らや年輩のものや足腰に不自由があるものに気を配りながらであったため、ゲンタが居残っていることを妻は知らなくて。背を袈裟斬りにされてよろめき現れるまで。痛みにうめきながら息絶え絶えで、おハツを見ると倒れこみ、抱えあげると、涙と鼻汁の詰まったくぐもった声で、やられちまったよ、痛い痛い。傷の深く、流血の多く、もう手の施しようがなく。リウは、土が盛り上げられところに目をむけ、すぐに目を背け、どこを、誰を見てよいものか、いや、見てはいけないような気のされてうつむく。そうキツいものではないが、責められているような不穏な空気が肌に感ぜられてならず。そんなときに、気がつけばオカシラであるシュガは隠りの期間をぬけるなり飛びだしてむかったわけだから。何十人もの仲間を見捨て、取りたててなんの役にも立たぬたった一人を救いに。知らなかったとは言え、だからと言って割りきれるものではないだろう、身内をそれで亡くしたものはことに。小狡さによる自業自得、であるとしても。シュガはおハツの口調にあるトゲに捕らわれることなく、そやつらの風体なり何か言いのこしてはゆかなんだかと問い。小肥りの中年女の顔に刹那、怒りや憎しみが閃くも抑えこみ、

ーー賊ではない、やつら。そう言うとった。黒ずくめで、二つ葵の紋が見えたとも。

 そして消息不明であるのは、モリゾウとイチの他に、ミワアキとその息子リョウヤ。脱出した翌日、ハナ、トリ、カゼ、ツキがその能力で襲撃者や不審な輩がいないと見透した上で、数人が見にいったところ血痕はあれど死したむくろは一つとしてなかったのだとか。もしかしたら生きていて、うまく逃れられたか、生け捕りにされたのかもしれない。そうあって欲しいと、リウは思い。そうでないことを察しながらも。それにしても二つ葵の紋とは。ふと口にし。その洞穴にはトリが横たわり、脇にハナ、カゼ、ツキが坐していて。タマに案内され、シュガとともいたリウがそれを口にした途端、動揺が走り。一人の男わらべと三人の女わらべらに、かすかな青い稲光の如き緊張がほとばしり。リウは愕き、能力をもったわらべたちを見まわしていると、そらなとトリが息切れするように喘ぎ喘ぎ、

ーーあのお人のご紋やで。あのお人に仕えるやつらなんやろ。

 あのお人て?とタマが恐る恐る問うと、

ーー祭司長やぁ。どこまで人コケにしたらすむん。あの人でなしがッ。なにがカミさんにつかえてるだ、アホがッ。

 ツキが吠えると、両手を顔で被い、うずくまり。ツキちゃんそない泣かんといてえェなァ、とツキの背をなでるカゼも泪声。ハナは血の気の引いた顔で無言でいて。

ーー道理でなぁ。気取られんよう、術つこてはったんや。あまりにうまくやりすぎで、逆に不自然なってもうたけどぉ。

 トリが軽口をたたく風を必死で装おうさまが痛々しく。さりながら、トリでなければまず不自然さにも勘づけなかったことだろう。

ーー祭司長は憎んでも憎んでも憎み足りないやつやねんけどなぁ、なんやろ、なんでこんなことしはるんやろ、って思うんよ。

 ハナは無表情でぽつりぽつりと語り、

ーーあんなやつ、まともなこと考えてるわけないわッ。人でなしや、人でなしの好き勝手やッ。

 ツキは顔を下げたまま、叫び。

ーーツキちゃん、うちも同じ気持やでぇ。そやけど、なんやろ、なんだか、どこがなんだか腑におちひんのよ。ほんまにあの人の手のもんなんやろか。なんのために。ほんまやとして、下々のうちらがわかるわけないんやけどなぁ。

ーーハナちゃんはまた、見えるもんちょっとちゃうしな。まぁ、うちらにはなんにもできないんやから、オカシラさんに任せよか。なぁ。

 トリは仰向けになったまま、シュガに意識を向け。そこの気が、シュガに集まり。頭領たる青年は膝の上に手をおいたまま、表情をかえることなくいて。しかしながら、その面の下でめぐるましく働いているものがあるのをリウはそぞろに見てとれるような気もされて。と、その、冷たいほどに冴えた鋭い双眸を向けられて内心たじろぐ。

ーーそなたは、山より降りて、町にいた方がよいだろう。

 顔にも声にも、なんの色もなく。雨が降っているから蓑をかぶってゆけとでも言うような、当たり前のことを当たり前にやれと指示される具合に、あっさりと言いわたされて。突然のことで瞬時に謂をとれぬまま、はいとふたつ返辞をしてからはじめて思いがわきだし。いても足手まといになるだけだからだろうか。もし吾がかどかわされず、されてもこの人が助けに来なければ、こうはなっていなかったのだろうし。

ーーリウにいさん、あんなァ。曇らせず、見なはれ。にいさんは、ここにいるうちらよりもずっと、めったにない澄んだもん持ったはるゥ。

 トリが話していると、

ーーなら、うち、ついてくわ。ええやろ。

 タマが腰をうかせ声をあげ、駄目だとシュガに目で制されて。なんでなん、と言いかえすと、

ーータマちゃん、オカシラさんにはオカシラさんのお考えがあるんやでェ。言われへんことかもしらんし。なんにせよ、ひとりの方が、目立たないとも言えるやんなァ。それに、心配ないわぁ、えらいごついもん付いてはるから、アヤカシぐらいじゃあなんともないやろ。

ーーごついて?

ーーどこにいるんだか、いつの間にやら現れたり消えたりする、にゃあにゃあ鳴くのやろぉ。

 とハナが笑いをふくんで言い、そうやぁとトリが微笑して。ニジかァ、とタマは納得したものかどうか、浮かせた腰をおろし。場を和ませようと冗談で言っているのか、本気で言っているのかリウには今ひとつ掴めず、またニジが付いてくるものかどうか分からず、実際この外まではついてきながらすでにどこに行ったのか判らぬ状況ではあったものの、なんにせよここから一人、離れなければならぬのだろうと腹を決め。そして、ひとり合点に悪いように捉えるのもよそうと思う。はい、とまた返辞をし、シュガの目をしっかりと見つめて。

ーー大丈夫だ。

 シュガは肯き、一言そういうと立ちあがり、立ちあがりざまにリウの左肩をかるく打って歩み去り。

 左肩のあたりに手のひらをおき、撫で。そこにまだ、感触やぬくもりが残っているような気のされて。いや、そうあって欲しくて、がより近いのだろうが。町のなかの狭い部屋のなかで横たわり、リウは左の肩に手をおきながらまぶたを閉じていて。大丈夫だ、とつぶやき。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る