第84話 追放されし天帝。

「後、こっちやっとくから、はよォお休みィ」

 正午すぎからぽつりぽつりと客の入り、火ともし頃から深更までに満員御礼となり。さりとて同じ刻限にいちどきに、ということのなく、酒やメシ、風呂の用が重なることのなくさまで忙しい思いをすることのなかったものの、裏を返せばのべつ幕なし牛のよだれの如く、常にやらなければならぬ状況がつづいていたということでもあって。その合間をぬって賄いを比較的ゆっくりといただいたりして、風呂の追い焚きのため外に出入りしていて。蚊が出はじめまつわりついてくるのはいささか煩わしかったとはいうものの、充実というのだろうか、快くうごけていて。合間には自分の食するだけでなく、捨てるところをもらい受けてあった端の欠けた皿二つ、その片方には水を湛え、もう一方には残りものを集めてのせ。それらは庭の隅においた、ニジにやる分で。そう、ニジだけはついて来ていた。誰にも止められず、また、誰にも止めようのなくもあり。水や風の運ばれる花びらに似て。

 ミカから上がるよう言われ、それじゃあ遠慮なくと返して、裏戸の敷居をまたぎ、土を踏み。初めはそう言われても本心かどうか判らず二の足を踏んだものだったが、ぐずぐずしているうちに癇癪をおこされ追いだされしたこともあって。初老の女性がなにか特別な優しさをしめした、というわけでなく(彼女なりの思いやりがなくもないのだろうけれども)、確かに朝早くからやることがあり、もしくは朝早くからやらなければ回らなくもあったわけで。近所のいまにも崩れ落ちそうな陋屋に住み、かよってくる老爺、コメジイがここの諸雑事を担っていたものだったが、手足が覚束なくなっていたため口を出すだけで、ほぼほぼリウがひとりでやる状況であったから。薪の着火やハタキをかけるなどかるい作業だけはやり、見かねたミカが手伝ってくれることもあったが。掃除、洗濯、ちょうなを振りあげ薪をつくり。繕いものはさすがにできないし、ことに仕事で着用する着物は任されることもないため、仕立て屋へと頼みにゆき。文の送り届けもし。入り用とあれば籠の手配もして。空が白む前から起き出してやり、コメジイはほとんど体を動かさぬとは言え、遅れず欠かさず居合わせてはいて、あっという間に店をひらく正午すぎが訪れるのが平常の形態となり。かるい作業しかせず、それすらやらないで済めばやらずに済ませたいという老人。そんなコメジイでも、決して誰にもさせず、自分の手でやらねば気のすまぬことがひとつだけあって。それは庭に置かれた祠のお供えや燈明で。コメジイと同じくらい古び、小さく萎びた木製の祠で、店の先代の主の代に迎えたものなのだとかで、その折よりコメジイが担当していたものらしい。いまの売り子上がりでまだ売り子も兼ねている主から、その他にかけて気にとめる者は皆無であって、それで逆にコメジイは依怙地になりのめり込んでいる気味は少なからずあるようではあったが、異様にさえ見えるのめり込み方はそれだけでは説明のつかない執念といったものが感ぜられ、そこには幾分か責任感によるものもなくはなさそではあり。それは祠に向かってにたりにたりと笑っていたり何かぐちぐち呟いていたり、普段の高圧的な目つきからも窺えたものだったが、ミカがこっそり耳うちしてくれたことによると。なんでもコメジイは、祀られている神と対話できるのだそうで、その神は二天の祖神よりも偉い天帝に仕える女神なのだそうで、天帝は祖神方から追放されるも、いつか返り咲き神々の頂点に立つことになり、コメジイは天帝の息子の魂を持つために、二天の立場に就くことになるのだという。そういうことを、その女神から吹きこまれたものらしい。困惑したリウはどういうことなのかミカに問うと、ミカは大口を開いて笑い声をあげ、

ーーオモムロ教ていう、いかれたおっちゃんとおばちゃんの興した教え知らへん?この代はもうすぐなくなるから、改心せよって、リョウガエだ、リョウガエだて、踊りくるってた連中。不敬だって、島流しにされたんやんかぁ。そらそうやろ。天さんらに変わって自分らが治めるだの言うてるんやから。そうか、知らへんのォ。そこに入りはしなかったみたいやけど、呑み仲間にいたらしくて、かぶれてなァ。で、何をとち狂ったんか、島流しされた人らはおとりでな、ワシこそがほんまもんの神のひとり子じゃあ、て思い込んだらしいわぁ。なんでもなぁ。まぁ、二親を亡くし、間をおかず伴侶もなくし、ひとり娘も流行病でなくし、て続きはって、なんかに縋りたい、わけあってあったことであって欲しい。そや、ワシは特別やからこんな目に遭うんやなぁ、そやそや、ってなるのは分からんでもないしィ、気の毒っちゃあ気の毒やねぇ。カンナガラタマチハエマセ・・・・

 ミカは細い目に光るものを見せ、鼻をすすり、そやから鬱陶しいやろけど堪忍してやろなぁ、と微苦笑して言いしたもので。人の心の弱さと言ってしまえばそれまでだけれども、誰しも強いだけの人はなく、脆さを抱え、必死に持ちこたえようとしているわけだから、嗤うことをリウにはできず。自分自身、弱さを自覚していて、今いる場所、ときとは別のところに思いを馳せていることはよくあったし。また、コメジイの妄想だとか、妄想の元となったもの語りは、荒唐無稽なようでいて、何か引っかかるものも感じていて。なにか胸に訴えかけてくるものがあって。普段の脈搏を数えるに近い、閑かな微妙な感覚ではあったが。いずこかで聞いた、いや見たようなことのような気の、淡くされて。

 囲まれた中庭に井戸があり、端で汗を流す。風呂場があり、使用人は使ってはなるぬと言い渡されていた、というわけでもなかったが、売り子らの残り湯をつかうのはできれば避けたく。垢がういているとか、化粧臭いというのもなくはなかったが、彼らや彼らの客らの分泌物が漂うところに身をさらしたくないような、そんな気のされて。嫌悪感、というまでもなかったが。

 マツムシが鳴き。雲のすくなく、瞬く星々。膨らみはじめた月のひかり。あてがわれていた小さな部屋にもどる途中、祠を素通りし、ニジの二皿の中身が減っていることを目にしてゆく。屋敷にいたときのように、滅多に姿を見せることはなかったが、近くにはいるらしい。それにしても、と思う。はたして祠に祀られているのは、二天の祖神を凌ぎ天上を統べる神に仕えるという女神なのだろうか。どうも、黒い蛇と、黒いヤマイヌにしか思えなかったのだが。いずれにせよ、自分とは関わりがないし、心なしか祠から拒まれているような気もされるし。時おり小首をかしげさせられはするものの、さして気にとめることもなく。

 薄い蒲団を開き、敷き。すぐに横たわらることなく紙燭に顔を向けていて、目を閉じて。まぶたを透し感じる、火のゆらめき。ため息をもらし。あれから、もうひと月。まだ、ひと月というべきか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る