第82話 黒い影
避ける暇のなく。もっとも、並はずれた身体能力の持ち主であれば、避けることもかわすことも可能であったのかもしれぬが、リウには望むべくもなく。声をあげる余裕すらなく、咄嗟にもろ手をあげて身をよじり。イタチだろうか、どうやらケモノらしいということだけは見て取ることはできたものの、背けるまでの刹那に見、感じとったのはそれくらいで。黒い固まりが躰に当たり。打つけられた衝撃にのけ反り、倒れ・・・・ということはなくて、脛の辺りにふんわり柔らかな感触。そして、淡き旋律が耳朶にふれ。馴染みのある快い響き。胸中に、締めつけられるようなかすかな疼みが馳せて。ゆっくりと足もとに顔をむけてゆき。恐れは瞬時に消えてはいたものの反射的に切り替えられずに。また、閃くようになんであるか判ったものだが、強く願っていたことであったため、本当にそうだろうかという疑念というのか、そうでなかった可能性をうち消すこともできずにいてーーそれは猜疑心ではなく、自信のなさが多分に影響しているのだろうーー怯む気持もあってのことで。クマザサの陰に、身体をこすりつけてくる黒い毛並み。甘やかなものが噴きだす。リウは思案する間ももたずにしゃがみ込み。それは迷い彷徨っていた山中で、ようよう見覚えのある樹や磐を見つけたおりに、我知らず無我夢中で駆けだす感覚に似て。
「無事でいてくれたんだ。よかった」
黒猫のニジに、ありがとうと言いながら、その小さなこうべや背中を撫でて。若芽いろ、というものだろうか、黄に緑もしくは青のはいった色の地に、中心に黒曜石の色のはしるつぶらな眸子。寡黙な子らしく相変わらず鳴くことはなかったものの短めのしっぽを立てて、ぐぉろぐぉろと喉をならし頭を擦りつけてきて。ひんやり濡れた鼻先。上にある六つの瞳の存在が脳裏をよぎり、はっとして腰を上げ。ここが到着地ではないはずだし、安否を確認したい相手は他に仰山いるはずであり。たかが畜生一匹、なのかもしれぬのだ、他のものにとっては。手を離しても、しきりにひざ下に頭を当てられたり、胴を擦りあてられたりされ続けられているのを感じながら。ささ原風吹けばいでそよ人を。待たせてしまっていたが、幸い、嘲笑するものも苦笑するものもなく見えて、迷惑そうだったり苛立っている色も見えず。さりとて、見せぬ、もしくは見てとれぬだけなのかもしれず。誰にともなく、リウはかるく肯いてみせて謝し、足を前へ進める。
アホはしななきゃ治らない
あーあ、あーあ、ナムサンダー
はァーガンブツだ
はァーネンブツだ
はァーオダブツだ
金銀砂子、だろうか。シャレコウベで拍子をとり、サンキュウがまたぞろ唄うように経を唱えていて。ベンマルが先頭となり、その後ろを二人と一匹がついてゆく。リウは先ほどから、目の前に漂うきらめきが気になっていて。木洩れ日、の輝きとは明らかに異なり。それより複雑な光の屈折を生み出してあり。天空にまたたく星々がおりてきて、目睫の間に留まる、そんなことはあり得ないことだろうけれど。目の錯覚か何か、ともかく害のないことだろうと口にせず、さして気にも止めずにいて、ふっと心づく。気のつかぬうちに溢れていたものが、流れ落ちるほどの量にはならず、まつ毛にふくまれ留まっていた、それがきらめいていたことに。拭おうと指をもって来て、手に乾いた泥の跡を見、昨日からのことが追想され、手どころか髪にも首筋にも足にも、至るところにあるだろうと思う。となりを歩むシュガが、土をなすりつけられたような姿をしていて、ずっと目にしていたわけだから気がつきそうなものだったが。確かにシュガは土まみれになってはいたものの、汚れているだとかみっともないとはゆめさら思わなかったせいかもしれぬ。あたかもそれは装いでやっているかのように堂々と見えて、少なくとも容貌を損なうことなく見えて。あくまでも、リウの見る世界においては、であったが。そして急に自らの状態に羞じらいが突き上げてきて強ばるも、先ほどから一度たりとも不快がられる目をむけられていなかったことを思い、ほっと息をはく。察せられぬように、そっと。
「もうすぐだ」
きらめきが散ったころ、崖というほどでもない岩場を越えてゆく前に、シュガがつぶやくように言って寄こし。ニジもベンマルも軽々と飛び越えてゆき。さすがのサンキュウも、撞木をふったり戯れ言を口にする余裕もなく息ぎれしながらよじ登り。ふっと空気のいろが変わる。岩場のあたりに、透明でふれられぬ幕でもかけられていたかのように、幾人もの人々のいる雰囲気、立てるもの音ーー決してけたたましかったりする噪音というほどでもないがーー、が降りかかってきて。忽然と現れたかの如く、巨大な口を開いた洞穴。両脇にイチイの木がたち、草に被われたそこに、人の姿はなかったものの。
「・・・・じんさんこんを守り通して、さんせいさんぐんぐひん去るッ」
突如としてサンキュウが大音声をあげ、リウは打たれたように固まると、そこにいるもので愕いていたのはリウだけであったようだが、穴から二人、屈強な中年男が刃物を手にして飛び出してきて。向けてきた鋭い目がシュガやリウを認めてだろう緩み、四肢の動きをとめ。気をとり直したリウは、二人が砦の出入り口に立っていたことを思い出し。二人の顔色が波のように変化す。なにを見ているのか即座につかめぬ訝り、まさかというものや、やはりというもの、愕きや喜びのようなものが閃き、はらりと安堵したものに落ちつき刃物をおさめ、速歩で来つつ、
「ご無事でしたか」
「・・・・わいらは」
話しかけてくる面つきに、憎しみや怒りがほの見えたようにリウには感ぜられて。蠟燭に火がともり、すぐに吹き消されたようにそれは影をひそめ、見えなくなり、単なるリウの見間違いであるのかもしれず。さりながら、微細なトゲが刺さったような痛みを感じて。彼らの刃物と等しく、ただ鞘に収めただけなのではないか、と。
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