第81話 悠久のあなたで。
仏説阿呆陀羅経ぉー、そら阿呆陀羅経
如是我聞んー、ならぬ尿意ガマン
ガマンしすぎじゃもれるでな、そらもれるでな
有漏路より無漏路へ帰るひと休み
ふた休みも、み休みも
草まくらで手まくらだ
サンキュウは懐から本物であるのかないのかシャレコウベを取りだし、黒ずみちびた撞木で打ち鳴らして拍子をとり、節をつけ声朗々と唱えていて。森閑とした空気を打ちやぶり、鳥の飛びさる気配。シュガは制さずにいて。ベンマルはほんの少し先にいて、待つように佇み、こちらへ静かな目をむけていて。一人と一頭の安らかなようすからか、もう危険はないのだろうと、自然息が整ってゆき、目の前に立つシュガの双眸を再び見てから、肯いてみせ。置きざりになどするものか。そう言われ、すぐには応えられず、というのか応えていなかったことに気のついて。文字通り間がぬけていて、呆れられるか、即座に意味をとれぬかもしれないと思いながらおそるおそる目をあげると、射し込む一点の曇りもない笑みの充ちた顔。
でれんのれんの法螺貝しらべか、ホラ吹きか
浪花節なら入れごと枕か 阿呆陀羅経というゥやつは、そら
はげた木魚を横ちょにかかえて朝から晩まで
親のかたきか遺恨のあるよにあちゃむきすかかこちゃむきすかか
「よかった」
思いもせずに自らのくちびるから漏れ出でたこと葉に、リウははッと目を見はり口もとに手をのばしすと、
「そうだな」
何についてのことであるのかリウは自分がでに掴めていないことではあったが、つゆさら訝るさまのなくシュガに応えられ、はしなくもこの今の状況にも当てはまることであり、特定することなどないのかもしれない。しようとする迷いが溶けて消え。こうしてあること、そしてこれまであったこと、そしてこれからあることもまた。
「見つけられて、無事でいてくれて、ここにいてくれて、よかった」
シュガの引き締まった唇からあふれる声、そしてこと葉にも日の光がふくまれているように、いや、春の日の陽光そのもののように、あたたかくやわらかく沁みてきて。体感としてじんわりほぐされてゆくように感ぜられるほどに。それは唇からのもののみならず、前身から醸しだされるもの、表情もまた。どうして、これほどまでに暖かいのだろうか。そして、吾にむけてくれるのか。
すかすかばかばかばかげたお経にゃ間違いちゃうが
そらアホちゃいまんねんパーでんねん
あァー、チャカポコ、シャチホコ
おシャカさまでもクサツの湯でも
アホはしななきゃ治らない
あーあ、あーあ、ナムサンダー
はァーガンブツだ
はァーネンブツだ
はァーオダブツだ
ベンマルは行き先が分かっているかの如く、尻をむけて尾をふり、ゆっくり脚を動かしだしていて。若駒に先導されるように、三人もクマザサの波を掻き分けてゆき。サンキュウは懐にシャレコウベと撞木をしまい、またぞろ数珠を手にし、なにを誦するでなく。シュガは急ぐでなく、リウのわきに、歩調をあわせてくれてあり。リウは何となくシュガを見やることができずにいて、前をむき黙々と歩いていたのだったが、彼の話したことや、その直前に思っていたことやらに意識を半ば自覚してむけ、半ば捕らわれもしていて。見つけられ、無事でいて、ここにいてくれて、よかったというシュガのこと葉。こうしてあること、そしてこれまであったこと、そしてこれからあることもまた、幸いでしかないのかもしれないという閃き。それらが鐘が鳴りわたるように内に反響していて止まず。鼓動の如く繁くしていながらも、かまびすしくも煩わしくもなく。静謐な刻が控えている趣。これまであったこと、というと物心ついてからと疑問もなく想定していたものであったが、さらに遡ることができるのかもしれぬ、という気のされてならず。生まれ物心つくまで、という時のみならず、今の生を授かるよりもはるばるかなたに。大海の底よりも、蒼穹のはてよりも遥か遠く、アメとツチのまだ別たれぬ渾沌たるときに、ともにあったような思いのされて。
ずっと前から、何時のころからのことなのか、いま自分のいる場所は、はたしているべき処なのだろうかという不安が、つねに寄りそうようになっていて。いや、それだといずこにかしっくりする場所があると、おぼろにでも信じていそうではあるが、すくなくも自覚し得てはいず。もしかしたら、どこにもそんな処などないのかもしれぬと思いもなくはなくて、それ故不安が兆しもするわけだったが。それは両親が亡くなり、生まれ育った地から引き離されたことによるせいだろうくらいにしか思い疑問ももたず、それは途切れることなくあったし、現にしなければならぬことが数多あったためいちいち気にとめたり思い悩んだり思案を巡らす暇とてなく、雨つぶが軒から垂れるさまに足をとめ、目をとめることなどまずないように、つゆさら気にもとめなくなっていたものだったが。そのとりとめのない思いというのか、感覚というのか、それが今、くきやかに表れ出でて意識せられ。奉公先の屋敷では、落葉樹の枝が空にひびの模様を添えるようになり、白いものがちらつき、そして積もるようになっても、あてがわれる野良着は薄手のもので、首巻きひとつくれるでなく。もっともそれはリウにばかりにではなくて、奉公する者に待遇の差はなく、そもそこにいる皆、賎しめられる身分であってみれば、喰う寐るところに住むところをあたえられているだけ僥倖と云えなくもなかろう。さりとて身分で躰の作りがかわるものではなく、順応はあるにしろ、暑さ寒さは身に応えるもの。他のものは適当に首巻きだのさらしだの工面して巻きつけたりしていたものだったが、要領のわるく、他の者とむつみもしなかったリウはあてがわれたものだけですごしていて。いとけないみぎり、郷里で着せられたかい巻きを思い出したりしたもので。手も足も霜焼けになり、ようよう寝床にはいったとき、染め糸をするようになってからは粗末ながらも一室あたえられるようになり火鉢をつかえるようにもなってそこに手をかさずとき、また、ニジにふれてその体熱にふれていたおり、滞っていた血の流れが徐々に巡りだし、そうなって初めて意識できたものがあって。自分が、感覚が麻痺して感じなくなるくらいに冷えてしまっていたことに。吾ながらにおかしく思うが、温かみを感じはじめてから震えがおこり、寒いと口を突いて出ることで。感覚が恢復したことにより、痒みが痛みを覚えつつ。その、ぬくもりを得られたことで冷えを自覚できることに在り方は通じていて、馴れ、当たり前のようになっていた不安定さ、今いる処への違和感を意識し得たのだった。傍らにいる日のような者の放つものによって。そして、何とも言いようのないことではあったが、どうしてもこう感ぜられてならず。悠久のときのあなたからのことであったのだと。
シュガに触れているわけでなく、間に葉もあるのだが、リウは炙られでもしているかのように熱を感じ。この説明のつかない、記憶なのか、感覚なのかは、吾一人のもつもので、思い違いでしかないのだろうか。ためらいながらも、訊いてみようかとシュガの方へ顔をむけようとしたとき、黒いかたまりが飛びかかってくる。
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