第76話 カジュの影

「リウッ・・・・」

 あッ。背後に引かれ、はっとするも、あまりに出しぬけのことで抵抗のかなう間とてなく。抗うもなにも、引っぱられ躰が傾いた時点でようよう、おのれに呼びかけられていたこと、おのれがリウであること、おのれ固有の肉体をもっていたことに心づき。思いだせた、とも言い得ようか。色やかたちのくきやかな夢から目ざめた直後のような、うつつの世に馴染まぬ違和感に近いだろうか。あれは夢であったろうか、歩いている最中に。うつつのことであったような気のされてならず。・・・・

 背後に倒れる(引き倒される)、そう閃光のように認識した瞬間、クヌギの幹が見え、枝や葉が見え、落ち葉の積もった地面の感触、三人と一頭でいた今の状況がなだれ込んでくるように甦り。それで何ゆえに転倒しそうになっているのか、ちらと疑問がかすめながらもそこに拘泥する余裕などなく、あッと声をあげるゆとりとてさらさらなくて、足裏は踏んばりようのない状態にういてしまっていて、背をうちつける事態を観念し。落下してゆくなか、今さらながらに誰かに呼びかけられていたことに思いがおよび、そしてそぞろにそれが誰であるか思いあたり。同時に、眼が木肌をかすめたおりに視界にはいったものが心のうちを去来してもいて。

「ひらひら、ひら」

 カジュ。玉響の間で、遠景にあったもので、もしかすると何かの見まちがえであったかもしれぬものの、さやけきシカの立ち姿。一頭ばかりであったようで。まだツノの生えぬ、いやメスであったろうか、いずれにせよ稚さのある小柄なさまでつぶらな清澄の眸子。カジュと貶まれ呼ばれたことを思いだし。その口吻、使用する意味としては快くなく、言われるたびに胸中を擦りむくような思いをしたものだったが、語の源は仔鹿であって。シカはカセギとも云い、それをどうしてか都(の庶民のあいだ)ではカジュと呼び、かつ幼い時期をさすものであって、それを思えば、そう厭なものでもないのかもしれぬ。そして気のせいか、掠めたカセギはうっすり発光していたような。胸のうちにうつる仔鹿のそばに、大きなカセギから小さなカセギ、あなたこなたから集まりて。ツノ合わせるでなく静謐に佇み、真摯に耳を澄ませ。なにを聴こうとしているのだろうか。声にならぬ声。音にならぬ音。うたかたの生まれ消えする如き精妙なしらべ。それがいずこからか起きているような気のされて。いずこから、すぐ間近なような、いや、間近どころでなく、身内からだろうか。


 やましろや ・・・・神の 御田祭り いざもろともに ゆきて舞わばや


 篳篥の音とともに、甦る早乙女の誰何する声。たそかれ。さりながらそれら夢かうつつかで見聞したものが流れでたわけではなくて、もっと深淵の今の自分には触れ得ぬところから湧いてきているものであるらしく。雪片が水面におりてまたたく間もなく一体化する、その変幻の際におきるかそけき震え。微細なふるえの奏でるしらべ。たゆたう燦めき、あるかなきかの彩りの変転。ふるべゆらゆら、ゆらゆらとふるべ。


・・・・より蔭は蔭れど雨やは降る、・・こそ降れ


「大事ないかッ」

 水中よりすくい上げられ、日なたの草むらに背があたり。明らかに落下を地面の前でくい止められて、問いかけられつつ。それは日なたの中でも、草むらでもなく、もとより濡れそぼりもしていずに、双眼に火を宿したシュガの腕のなかで。呑みこんでいた水を吐き出すように息をはき、リウはかるく咳きこみ。胸のあたりに疼痛があり、躰が重く感ぜられ。さりながらそれは、不調によるものでないことは何となく諒解できていて。本来あるべき肉体の感覚であると。触りかかるそよぎ、ヤマバトの声、支えてくれる固さ、ぬくもり。あたたかい、もち重りのするたしかな身体実感。それを何ゆえにか失念してしまっていたようで、とは言えさまで気にも止めずに。シュガとサンキュウとベンマル、三人と一頭で、仲間の避難した場所へむかう最中であったことが意識にのぼり、慌てて小声で謝しながら、姿勢を直そうとして。

「ほんまに、平気なのか」

 顔つきはそう案じているふうもなかったが腕を離されることなく、そう問われ、肯きて足裏を地面に押しつける。自分がでに何が起こったのか分からず、どれだけの間朦朧としていたのかと歩きはじめながら誰とはなしに訊ねると、

「なんぼて言うほどでもないがな。あっヨロヨロしたァ、倒れたァ、このあんちゃんが押さえたァ、ですぐまたこうしててな。これがホンマの、あっちゅう間、てやつやなァ」

 サンキュウはベンマルの首をかるく叩きながら完爾として話すと口をひらき、あくびをしてまばらになった歯を見せて。ともかく、長い時を浪費させなかったらしい様子にリウはほっと胸をなでおろし。リウ自身、みなのところへ早く往きたくもあって。モリゾウとイチはもう亡きものとなったことは間違いなさそうではあったが、遺体ははたしてどうしたのだろうか。遺体がないため、もしかするととはかない望みをもってもしまう。他の者らには、被害はなかったのだろうか。タマ。ハナ、トリ、カゼ、ツキ。ニジ。・・・・・・

 リウの歩調は自然早まって。場所を知っているのはシュガしかなく、追いてゆくしかないはずであるのに、追いこしてゆくほどの勢いで。と、突然眼前に広がるクマザサの一部が、ざかざか音を立て乱れ動き。

「こりゃッ」

 サンキュウが鋭い声をあげ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る