第75話 黒煙
幾重にも塗り重ねられた漆の如き涅いろの闇。濃く立ちこめて一寸先さえ見わたせぬ霧中。破れ裂けしてゆく大量のホコリタケ。湧きたち渦巻く砂あらし。ひとつびとつは霧雨の如きかそけきものながら、重なりあわされて中のものの伺わせぬ紗。いや、布のようにひと続きに繋がってあるものではなく、単体である粒々があまた集結し、まわりを厚く被っていて外界との接触を妨げられている感じ。立っているのか坐っているのか、はたまた横たわっているのか。おのれがどのような体勢でいるのか、そもそもどのような状態にいて、ここがいずこであるのかあやめも分かぬ。また、さのみ疑問に思うこともないでいたものだったが、意識にのぼりはじめたということは、差と別を欲するということでもあり。欲した刹那から生じだし。
ーー一体、ここはどこだろう。
胸のうちで疑問をつぶやくと、白い点があらわれ。点は徐々に拡がり円になり、円から線が八方に走り、開きゆき。さりながらそれは、被っているものがなくなったというのでなしに、被っているものはそのままに視界だけが開けてゆく気配。水面に顔をつけ、川底を見るでなく、水中から外を見るに似て。揺らめいたり歪んだりはしないものの、やはり視界には厚みのある隔たりのあり。
山吹いろの霞たなびく間に、降りたちて。ケナリの花だらうか、爛漫と咲きほこりひろがる明るい色の花のしたにいて、あたりを見まわす。掃き清められたと見てとれる地面。踏みならされ平らかな土。人や、動物の姿はなく。塀や柱が見えてくる。
びょーッ。突然の異なる音にと胸を突かれ、立ちすくみ。風の吹きぬけるものだとか、ケモノの立てるものでないらしいことはすぐに察せて。モノノケの類でもなさそうであり、人の奇声でもなさそうで。ただ、人の為せるものらしいことは感じとれ。やや身がまえていると、別の音色がし、また別の音色がかさなり、楽の音を奏ではじめて。笙、ひちりき、龍笛、こうらい笛、かぐら笛、びわ、和琴、大小のつづみ、鉦。すべてを聞きわけられたり、いかなる楽器であるのか分かりはせぬものの、複数の異なる器によるものであることは聴きとれて。なにか祝いごとでもあるのだろうか、どうもそうではなさそうでもあり。もっとも、くにぶりのうたまい自体をまともに聞いたことすらなく、そういうものがあるらしいという話を知っているだけで、町中でそれらしい真似事をしているのを見かけたことがあるばかり。やんごとなき方々のものであり、鄙びた道の奥で生をうけ育ち、奴婢として奉公していた身にはゆめさら縁のない世界であったのものだし。さりながらそれを、何故かくにぶりのうたまいとすんなりと理解できていて、自分がでに不可思議に思わぬほどごくなめらかに。
・・・・のや もりの もりのしたなる わかこまいてこ あしぶちの とらげの駒
その駒ぞや われに われに草こう 草はとりかわむ みずはとりかわむ・・・・
びいィん。絃を撥ねる音に耳朶をはじかれ、はっと立ち止まり。さりながら、止まったのは楽の音に異変がおきたから、ではなくて。あくまでも一糸乱れることなく、奏ではつづいており。調和を欠いた物音。人の声とともに訪れる気配を感じて、であって。
「・・・・アホやなぁ」
「そら・・・・やから詮ないことやァ」
狩衣姿の男たちが、声をひそめつつも談笑しながら歩いてきていて。ことさら興味をひかれたわけでなく、何とはなしに眺め。痩身の細目の男と、片方よりはやや上背の低い、肥えた垂れ目の男。肉づきは異なりながらもともに日に焼けたことのない白い肌で、手に荒れひとつなく、狡猾で酷薄に見えるうすら笑い。
「穏当にことが運んでおるようで」
「祭司長はんも、喜んではるんちゃう、思い通りやんなぁ」
「そら、なぁ。えらい上手い具合に、始末してはってなァ」
「・・・・家だの、なんやったかカズラキの・・・・」
「・・・・てなぁ、ほんま、ほんまやァ」
やつか穂の ・・・・の御田に おりたちて 舞いつ奏でつ 植うるさおとめ
・・・・山 かげをひたせる いわいに やつか垂穂の 秋のいろ見ゆ
やましろや ・・・・神の 御田祭り いざもろともに ゆきて舞わばや
二人はゆっくりと歩を進めていて。どうやら、すくなくも急務があって通ったのではない気色で、そも馳せたりすることのなさそうな方々であり、またそれに相応しいいでたちでもあり。足を被うクツの底に厚みがあって安定感がさまでよくないようであり、見るからにすぐに脱げてしまいそうな納まり方をするつくりで。
通りすぎる前にこちらから離れ、建築物の方へむかってゆく。渡り廊下があり、御簾により、内側がまったくもって窺えない。楽の音はするのだし、うごく数多の人の気配はあって。綾と緞子で縁どられ、モウソウチクのひごを束ね垂らしたもの。それに触れようとしたとき、キンと引き留められて。引き留められて、というより、瞬間玻璃があることに気のついたように、強固に妨げるものがあることを感じ。沸騰した水、もしくは凍りつきそうな水にふれたおりのような刹那の衝撃に、いささか怯んでいると、
ーーたそかれ。
おきた女声に刺され。おそらくまだ若い女人のもの。さりながらその調子は鋭く、冷たく、そして気魄に充ち。並々ならぬ能力を持ちあわせた者、らしく。さりとて、こちらの気配をなにとなく感じとっただけであるらしく、探るような響きがあり、警戒だとか威嚇までとはゆかずに。感知し得ず、入ってゆくことを妨げられることはまずなさそうであって。実際のところ、なんの根拠もなかったが、当たり前のことのようにあたう確信。
ためらわずに御簾をぬけようとした刹那、どッと黒煙が捲きおこり。墨汁の如く濃厚に、絡み纏わりついてきて。不安や恐れはゆめさらない。それに危害を加えられることなどあり得ないと、分かっていたため。煙幕の発生源、その存在が何ものであるのか、顎をあげて一点を凝視する。この暗黒の気体は、どうやらそれから放たれてある瘴気らしい。それはとぐろを巻き、宏壮や屋敷を包み込むようにしてある巨大な黒蛇のかたちを成してあり。それ自体、こちらを認識できていないらしい。自らの領域を侵されそうなことを感じとれていて、妨害せんとするばかりで。そのまま進もうとしていた。が、ぐいと肩を掴み、うしろへ持ってゆかれて。抗おうとすると、
「・・・・リウッ」
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