第71話 おサワの言づて

 わか紫色のかけらがひらめき、飛びたってゆく。幽かなものではありながらも、おのれの頭髪に違和を感じたリウがその部分をふれたとき、ふれたせいだろうか、フデリンドウが抜け出て、宙に舞いあがり。シュガから挿された花であることを思い出したときには、すでに時遅し。手の届かぬところへ離れゆき。荷馬車は勢いを増していて飛びおりようがなかったし、停めてもらえるような余裕のある雰囲気なぞなく、リウはただ見送って。きな臭さが濃くなっていて、リウ自身、早く砦にゆかねばと逸る思いがありはしていたので。そこに住む人たち、動物が案じられ。とはいえ、紫の可憐な花を失ってしまったのは、心のこりであって、何時までも見送って。と、ちかッちかッと視界にきらめくものがはいり。見ると、ウラジロの葉がそよぎひるがえっていたものであって。髪にあったとて、いずれ枯れ、朽ちゆくもの。風にのり地に落ち、土に化す。意図したり、求めて手放すかたちになったわけではないものの、だからこそ自然の流れに沿っているともいえるのかもしれず。それによってシュガのしてくれた行為、それがなかったことになるわけでもなくて。

「なんやぁ、山火事やろかァ」

 サンキュウの頓狂な声がし、リウは思いを振りはらうようにして進行方向に躰をむけ。砦はまだ見えてこないものの、ほど近いところまで来ていることは感じとられていて。馴染みのある匂い、景色になってきていて。親しみの感ぜられるクヌギの樹、緑蔭にしずむイワオーー泣き虫イワとも称されるおサワの磐。以前磐を目にしてから、半月も経ってはいない。そこを思い出し、まだそれしか経っていなかったのかとかるく呆気にとられ。確かにそれくらいだと認識できている部分と、はるか遠い昔の出来事のようにも思われて。また同時に、被せるように違和感をおぼえていて。十日と幾日かを経て、緑のかさも色も増して、紺碧のいろ、雲の形状にも変化が見られ、そのせいもあってのことだろうか。あのときは、シュガとタマとニジとでかちであり、通る径も異なれば、進む手段もちがう。そのためなのだろうか。違和感が減じることなく、積もってゆき。それは以前見聞したときからの移りかわりだとか、状況の別であること、わずかな場所の違い。それらも確かに幾分かあるのかもしれぬが、そういう五感で捉えうる物象、現象によるものではなさそうであって。ただし、次第に濃くなりゆく焼け焦げた臭い、という異様なものがありはしたものの。

 胸中に赤い閃光が爆ぜて。鋼のいろも馳せ抜けて、黒煙のたなびき。何事であるのか、先ほど不意に表れ出でた擾乱の映像。いや、映像といえるほどしるく何かが認められたわけでもなく、色だとか空気の乱れた気色を感ぜられただけなので。と、同時に、けざやかに像を結び現れ出でたものがあり。木蔭にしめ縄をかけられた磐座。したたり落ちる水のないにも関わらず、水気をおびた苔が繁茂していて。いかなるわけか、おサワの磐が思いうかびくる。それのある手前でのことで。まだ目にする前であったが、そろそろ間近になってきたことを、どこかで意識していたものだろうか。そしてその折りに偶々、正体の知れぬ乱れた気色を感じとった、もしくは幻視しただけのことであるのか。なにとなくではあったが、磐から沁みだし苔に蒼々湿らせるしずくが、リウの身内にもひんやり浮きあがり、流れてきたような感覚があって、そこにいるのはおサワだろうか、おサワに関わりのあるものであるのか、リウがかつて感じた女人の存在から、なにか伝えようとされているような気のされてならなく。それが気色として、わたされてきていたようでもあり。詳細は分からぬが、何かただならぬ、芳しくないことであるらしいことは、リウは受けとれていて。ただ、だから行くなと止められているのか、急ぐよう勧められているのか、そのような働きかけなどなく、ただに知らせようとしてくれているのかまで掴めないでいながら。その意図が掴めず、それは事実として、具体的になにが行われていたのか、いずこの地でありしことなのか判然としていないのは、発したものが曖昧に濁らせていたから、ではなさそうで。水のしたたる苔の花。その清らかなさまの如く澄み、鮮明に伝えられしものではあったが、リウが受けとることを半ば無意識に拒んでいたもので。どこかで、なにが起きたのかを感じとっていて、認めたくなかったのかもしれぬ。

「山火事ではなさそうだな。すくなくも、もうほとんど消えている。そこにあったイノチのともしびの多くも」

「なんやてぇ。ホトケさん、ぎょうさんいてるいうんかいな。道理でわしが行く流れになったんやなぁ。ナンマイダー、シンマイダー。ナンマイダー、ゲンマイダー。ナンマイダー、セイマイダー。ナンマイダー、ハクマイダー。・・・・・・」

 サンキュウが声高らかに、陽気ですらある調子で唱えだすも、シュガは顔色ひとつ変えるでなく、前方にひたと目を据えていて。肉眼ではまだ見えてこないそこには、住み家とする場所があり、そこに寝起きする者どもがあり。リウはシュガの姿からなんの表情も読みとれずにいて。ほぼ後ろ側からで、揺れかしぐなかであってつぶさに観察できるありさまではない、ということもあろうが、事実なんの感情もおこしていないようではあり。ひたぶるに、向かう先へと思いをむけているらしく。

「ナンマイダー、バンダイダー。ナンマイダー、ドンマイダー。ナンマイダー、ゼンマイダー。ナンマイダー、シュウマイダー。・・・・・・」

 焼け焦げた臭いが鼻腔を撲つ。現場が間近になってきたことを知り、募りゆく不安や案じるなか、自分自身がしっかり何事かなせるようにせねば、という思いをリウは持ちはじめていて。何もかも他人まかせにして、シュガに背負わせて、それでよいのだろうかと自身を疑い、脱却しようと気持ちがかたまりつつあって。

 荷馬車の揺れがゆるやかになりゆき、ベンマルの脚の止まり。墨をかけて積みあげたかのような、黒い巨大な物体が、眼前にそびえ立ち、進行を妨げていて。直ぐにはそれが何か理解できず、リウは混乱し。こんな場所に、こんなものがはたして、あったろうか。思いおこそうとする最中に、鼓動が早まってゆき。まさか、これは。・・・・

 砦を囲う塀。もう火は消えてはいたものの炭と化してどす黒く、崩れも見え。出入口である戸が、惚けた歯なしの口のように開けっ放しになっていて。

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