第69話 花かんざし

日輪を直視できぬように、相手のかんばせをちらりと掠め見ただけですぐに目を伏せ。鋭くつよい眼差し、鼻梁のとおり締まった唇。目を閉じていても胸底に焼きつくようにありありとその像を結ぶ。おのれを抱え運んでいる者がシュガであること、それはすぐに分かりはしたものの、状況がすぐには呑みこむことができずにいて。シロブナ、サワグルミ、クマシデ、ウラジロガシなどの繁る水の流れの傍から離れて下り。いつの間にか、宙を舞う粉雪のようなものは雲散していて。イヌブナが林立しはじめるなか、シュガの足が下にある小枝でも踏んだものらしく、鋭く折れる音が立ち。その弾いた空気によって、朦朧としていたなか頬をはたかれたように意識が張り、ようよう口を開き、問う。

「もう、いいの」

 こちらに目をむけた気配がし、

「ああ。気がついたか。余は、なんともないが。うぬはどうなのじゃ」

 笑みながらも、いたわるもの言いで。何のことか刹那には分からなかったが、おのれが倒れていたらしいこと、そこに居合わせたのであろうことに思い当たり。そうであってみれば、気づかぬうちに抱えられていることに筋がとおるわけで、ヨネとの邂逅と別れ、そこに到るまでの事々がなだれ込むようによみがえってきて。めまいがしながらも、今ある状態にようよう心づいて、慌てて降ろしてもらおうとする。怪我をしているわけでも、足なえになったわけでもないのだから鹿のように跳ねあるくことができるはずだ、と。鹿のように、とはいささか大袈裟なもの言いで、そこまでの自信はなかったのだが、先刻までーー天道のようすから、気を失っていたのはそう長い時ではなかったと判別がつくーー昏睡状態であった人に担がせて歩くのは申しわけなかったから、ということが主にあってのこと。いや、果たしてそうなのだろうか。面はゆさ、むしろ罪悪感といったようなものが少なからずあってのことではないのか。申しわけないと同時に、嬉しさだとかこうしていたいと願う思いが秘めやかに溢れてきていて、そんな自分の無意識に近い内面のはたらきに心づいて愕然とし、愕然としつつ、密着してあることで伝わってしまうのではと恐れ。体温や息や体臭とともに。その、自分にとっては意想外であると捉えている情動を知られることを恐れたというのは、少しく正確さから外れるので。直前に、人一人のーーかつて人であったモノの最期に居合わせ、その前には不可思議な、そして烈しい諍いがあり、そのために昏睡状態にあった人。その人を煩わせ腕のなかにあることを思えば、そんな状況にあって悦びを覚えることを、いかでか人でなしと思えぬことがあろうか。

「もう何ともない、ほんとうに平気だから」

 リウは言を重ね、相手の胸をおして離れんと動きかけたところを、体勢が崩れ持ちなおすくらいのしぐさで、回された腕に力がはいり、引きよせられて。か細い声とはいえ目睫の間であり、シュガの耳が遠いかといえば敏いくらいなわけで聞こえぬわけがなく、よしんば聞きとれぬにしろ手脚の動きも伴っていて受けとり損なうということは、まずまずあり得ぬこと。暫時藻搔いていて気のつき、受けいれてゆだね。シュガがそうしようと決め、自分の足で歩けるということを取りあわぬのであれば、無駄に抗うのは進行を妨げることにしかならぬ。厚意を無碍にするばかりではなく。そうリウは自分に言い聞かせ、得心しようとして。さりながらそれは自己欺瞞、まではゆかぬにしろ、弁解の気味がつよいことは感じないでもなかったものの、目をつむり、シュガの肩にこうべを任せ。と、うなじから頚すじにかけて不意に相手の指の腹にふれられて、

「・・・・なにか、ついておるな」

 首もとから何かつまみ上げられた感触。顔をかすかに上げ、うっすり目をひらき、紫に染まったおのれの指さきを掴み見せられて。はっと驚き見開き、そうしながらも自分の手は自分の背後におかれていたわけでなく、運ばれやすいよう相手の背にあてられていることを自覚し。改めてまじまじと見ると、それは一輪の花であり。やわらかな紫のフデリンドウ。思いもよらず気を失い倒れていたときに、下敷きにしてしまうかして、襟の内にはいりこんでしまっていたものか。花弁はつぶれずに開いた姿でいて、わざとではないにしろ、いや、わざとでないから余計、気が咎めないでもなく。そこでふッと、ヨネの若き日のことを思い出し。我知らず手折ってしまった野菊に、申しわけなさを強くもっていて、そこまで気にすることもない、詮ないことではあるしと思ったものであったが。今思いかえしかんじるのは、その直後にあった惨事がなければまた捉え方、そして後まで持ちつづけた思いはかわっていたのではないか、ということ。また、そういう思いをもてるような人であるからこそ、異形と成りしも生き、そして地にさまよう囚われしモノ共を解放しようとしたし、できたのでもあろうし。野菊は、彼女自身でもあったのだろう。そして、この可憐な紫の花は・・・・。

「うん、これでいい」

 戯れだろうか、シュガの手がつまんだフデリンドウをリウの髪に挿し。リウはことさら気にとめず。投げ捨てていたら幻滅していたろうし、手にもつにしろ、それがリウであったとしても失念して落としたり、悪くすると握りつぶしたりする恐れがあるし、懐にいれてはなおさら。髪に挟んでおくのが最も無難であり、シュガもそう判断したものだろうくらいにしか思われずにいて。抱え運ばれ揺られながら、それよりも気にかかりはじめていたことがあったからでもあって。いまの状況を受けいれ落ちついてゆくなかで、そう強くはないが、霞のように浮かび、揺蕩う思い。

 ほんとうに、これで、よいのだろうか、吾は。頼り、もたれきったままで。

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