第68話 日のかんばせ

 浴びせられたる土埃で、自我の意識が甦り。眼球を撲たれ、鼻腔をふたがれしたものの、瞬間的に振りはらおうとする暇とてなく砂塵の波にさらわれて。体勢を整える間すらなくて、手もなく押し流さるる。いのちはあれどなきかの如く、砂のかなしさにさらさらと握れば指のあひだより落つ。沈みゆく、いや、浮かびゆくのだろうか。前後も、上下も、左右も、覚えずにいて。さりながら戸惑いはなく、思いは静謐。なにも見えず、なにも聞こえず、なんの匂いもなく、これこれと明確化できるなにものをも感じとれず。さながら澱みにうかぶうたかた。ただに流され、はじけ、消滅するのみ。かといって真ッ暗というのでもなく。明るい白地。生成りのようなやわらかな色の。そこにうっすり淡き影があらわれ、綾をうみゆき。徐々にかたちを成してゆく。

 布地に絵の具をおとしたように、白とみどりがぽっちり滲み出でてきて。可憐な花びらと、それを支える茎と葉と。一輪の、野菊の花があらわれて。根のほうを手折られていながらも、花弁も葉裏も活き活きと息づいていて、一輪で宙に立っていて。いや、宙にあるのだか天にあるのだか地にあるのだか、我が状況自体わからぬため判断のつけようのないことではあったのだが、自力でそこにあるらしいことはかろうじて分かり。それだけ生気が隅々まで横溢し、すっくと首を上げているように見えたからで、また、なかんずく、自力もなにも姿勢を保たせる存在が皆無であったからでもあったが、はたしてそうだろうか、とうっすり疑念がさしてきて。なにも見えないからといって、なにもないと言いきれるのだろうか。

 そぞろに、野菊をつまんでいるものがあるように思われてきて。気のせいだろうか。よくよく目を凝らして見ていると、じんわり霞かと思われるほどの幽かな影が現れ出でて、形なすはしなやかな拇指と人さし指と。華奢な手から流れるたおやかな肢体の女人。山吹の色の簡素な着物でありながら、ぬめるような艶やかな黒髪をひとつに束ね、柔和な笑みをうかべていて。ヨネだとすぐに見分けられ。外観でいえば、怪異な老婆の姿とは、天と淵との差はあるものの、天と淵はかけ離れてあるだけで別たれぬ自然の一部分であるのと同じく、目の有りようだとか佇まい、内側に宿り醸す雰囲気に通ずるものがあり。ありがとう、ヨネはふっくらした唇をうごかさずに、なんの仕草をするでなくそう伝えてよこすと、花の茎をもつ手をひらく。蓮の花びらが笑むように。花の香もただよう。

 野の花は落ちるでなく、離された位置にあり。そして少しずつ、少しずつ寄ってきて。無意識的に触れようとしてなのか、リウはなにを思うでもなく手をのばし、草に指さきが届こうかとするとき、にわかに腕が重くなって手が下だり。花は間近にあって、静止していて。手をあげればすぐに掴める状況で、かいなが固められたように動かなくなっていて、かいなのみならず、前身縛りつけられたように自由にならずにあって。躰の異常であるのか何なのか判らぬものの、必死で振りほどこう働かせようと試みつづけ。せんなく足搔いているなか、目の前ではみるみるうちに花べんが開きゆき、垂れ、しおれゆき。いまにも散り去りゆきそうなさまに、恐怖さえおぼえ、思わず叫びだしそうになって。締めつけが強くなり。そんななかでも裏腹に、不思議と気持が落ちつき、静かに観察してもいて。野菊は茶に化したり黒ずむことのなく、端から白く淡く薄らいでゆき、しろ金色に崩れゆく。銀色にかがよう砂となり流れ落ち。風でもあるのか降りかかりくる。打ちつけてくることのなく、やわらかく撫で、雪の如くとけゆき。さりながら温かく、沁みゆく。

 身動きできぬ状態に抗うことを止めていて。諦めたのでなく、そうする必要性がないと、わかったからで。さらさらと内に流れゆく、ヨネの手放した花の細やかな欠けら。目を閉じて、その流れの成すささめきに耳を澄ます。なにか、唄声のようにも聞こえ。穏やかな、静かな、ゆるやかに拍子をつけたおだやかな女声の子守唄。まどろみに、誘われゆく。幼きみぎりにもどりゆく心地。母が添い寝してくれていて、胸のあたりをかろやかに拍たれ。春の日のひだまりのなかにいて、目を閉じ、そよ風に頬をなぜられながらヒバリのさえずりを聞くともなしに聞いている。そのひだまりのぬくもりは、母のものであって。・・・・

 背や腰のあたりに圧がかかり、地から引き離される感覚。母に、だろうか、父に、だろうか。いずこでか寝床でないところで眠ってしまい、寝床へと抱えられ運ばれてゆくのだろう。こうべが反ったりしないよう、うなじを押さえられていて。あたたかな掌。逆らわずに相手の首もとに頭を預け。土の香りと香ばしいような体臭と。母のやわらかさはなく。父の感触だとか匂いとも異なる、そんな気のされて。草葉のそよぎ、小川のせせらぎが近くになりながら、土を踏みしめる音がつづいていて。うっすらと寂しさが差しこむ。うつつの五感が働き、外部のものが知覚されてあることに気がつきはじめていて。母のものでもなく、父のものでもない、さりながら懐かしい慕わしい思いをもたせる者。リウは深い水底から浮かび出るように、目が醒めていっていて。こうべをそっと、かるく上げて瞼をあけると、日に耀くシュガのかんばせ。

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