第62話 蠢くもの

「あれ見えっがぁ」

 セキショウモの瑞々しくなびく流れ。川原にかがみこみ、ひたした、樹のこぶのような手を引きあげ、ヨネは川上のほうを指し。水をしたたらせた、鋭利な刃物を思わせる爪の先がむけられた方向を、リウは見る。ウラジロガシ、トチノキ、サワグルミ、シオジ、ミズナラ、ミズメ、オヒョウ。川の流れる上部には葉がうすくなるため、日がつよまる。その対比でだろうか、目をむけた河畔林の奥はことに緑蔭が濃い。一体、なにが見える、なにが有る、というのだろうか。リウは目を凝らす。葉、幹、落ち葉、草。その間をただよう木ノ下闇。有るものは分からぬものの、ないものはなにとなく感じとられてきて。この辺りの宙に舞う、白い粒子。それらが、そこからは別の領域で柵でも設けられてでもあるかのように、寸毫も認められなくて。もっとも、柵があろうがなかろうが捉えどころなく、いかなものでもすり抜け融通無碍に浮遊するものであり。仮にそのひとつぶひとつぶに意思、といったようなものがあるとすれば、その意思によって行かないということであろう。リウがなにも見えないことを察してか、

「ンだなぁ。見えるはずだども。・・・・上、見すぎなんがもしんね。ぐっと下げてみで。ぐっと、ぐうゥっと落どすてな」

 ヨネはてのひらを下にむけ、もろ手で押しこむ仕草をする。目線を落とせ、ということではどうもなさそうで。では、何を下げろというのか。つかめず当惑しているリウの視界の片隅に、さらりと色鮮やかな真砂のさやかに流れおち。目をやるとカワセミで、くちばしに白金にはねるうろくずーーウグイらしいーーをくわえ、羽根をきらめかせ飛び去り。獲物を捕らまえる瞬間を目撃してはいなかったものの、その場にうっすり残る水や大気の乱れ、いや、乱れというまでもない微細なゆれ、軌道の跡があり。かつ、かつて目にしたことがありもして、ありありとそのさまを思い描くことのかない。ゆるぎなく、迷いなく、純一に、空気と水の境目を突きぬけてゆく。しるく現れたその鳥影。そこに意識がかさなり、ヨネの言ったことがそぞろに腑に落ちたように思え。視覚である外界にではなく、身のうちに気を集め、入りこませてみる。内にある幕に映し出そうとして、と言ったら近いだろうか。そこまで自覚的にしているのではなくて、感覚的な物ではあったが。

 なかなか像を結ばない。こころの内で、身をかがめるように下げてゆく。おぼろな影が見えてくる。黒いモヤのようなもの。が、蚊柱よりうすく、たよりなく。無理な姿勢をとり苦痛になりかけこれよりも下げようのない状態にしたときに、それらしい姿がようようあらわれ出でくる。モヤ状であったものが、煙のようなものへと濃度をまし、まとまりゆき。形状を作りなし、その容子までは認識できるまでには可視化できていて。見えてきてはいたものの、それらが何であるのかはまだ判断がつかず。それら、左様、一体でも二・三体でもなく、数十体の得体の知れないモノが、もぞもぞと蠢いていて。

 初め、モグラでもいて、地表付近を動きまわってでもいるのだろうか、と思い。それにしてはその波立ちはあまりにおおきく、あまりに大量で。リウのなかでほぼほぼ視覚化できたことを見はからったものか、ヨネは川上のそれらの方へ歩みはじめ。リウも従いゆき。空気の感触があきらかに変化する。宙を浮遊していた粒子の群れはなくなり、それどころか虫やら鳥やらの気配も消え。動くことのかなわぬ草や木や花だけがあり。ありはするものの、心なしか生気が失せ、精彩に欠けているように見えなくもなくて。そよ風もそこでは絶えてよどみ、異臭のただよう。吐き気をもよおしながらも、それらは決して肉体の皮膚だとか鼻腔をとおして感じとったものばかりではないらしいことを、リウはなにとなく察していて。同時に、この臭気に覚えがある、と思いあたりもする。そう、先刻、サンキュウとこちらに訪れヨネの姿を目にしたおり、かいだもの。婆から来たった臭い。気のせいか、と思うほど短い間のことではあったが。リウはヨネの大きな背に目をとめたまま、とりとめもなく、幼きみぎりに聞いたわらべ唄の断片を思いおこしている。


・・・・・・


氷ばはって


あぶら一升まけた


そのあぶらなした


太郎どんのイヌっこと


次郎どんのイヌっこと


みんななめてすまた


そのイヌっこなした


たいこにば張って


あつちの方でもどんどんどん


こつちの方でもどんどんどん


・・・・・・

 わらべ唄とともに、村にいたおり、また都で見たイヌを思いおこしもされる。飼っていた家、飼わないまでも可愛がっている人がいたのかもしれない。多分、存在するのだろう。リウは実際に見聞したことはなかったが、そういう奇特な家や人がいると耳にしたことはあって。ただし、あくまでも奇特な例であって、その大半が野良であり、蹴り上げられたり石をぶつけられたり、よくてほっとかれるくらいで、餌をやるふりをして撲殺されて人の餌になる場合もあり。ただしそれはイヌに対してだけでなく。畜生と貶む動物に対してにもとどまらず、人においても、身分というものを設けて当たり前のように行われていたことであり。リウは疑問に、主に不快に感じるものの、そう感じたりする方がおかしいのだろうかと、する側もされる側も平然たるさまの辺りを見回し、うつむき口をつぐむ他なく。


「・・・・ほう、やっぱりなぁ。こごまで生身の人っこが来られるもんでねぇ。おめなら大丈夫だど思うがら、おっかながってねぇで、よく見でな」

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