第61話 うつつであると

 ・・・・・・いかばかりの時をへたものか。うばたまの黒雲のうちに抱かれて。もとより雲にふれたことなどなけれども、ましてや呑みこまれたことなどあり得べからざることではあるものの、イカズチだの雨つぶだのを生じさせ、内蔵するものであれば、やはり渾沌として、堆積物のたまった古池の底のように豊穣なものではなかろうか。然り、豊かで充ち満ちた場に埋もれ、休らってあり。このまま融けあい、ひとつになりゆきたい。否、それはすこし違う。成る、化す、ではなく、本来あった状態であって、還ってゆくだけのこと。この意識も、雲居にまがえ。

 と、白波な如くうち寄せてきたものがあり。飛沫のつぶがはじけ。ひとつぶひとつぶが訴えかけてくる。忘れたのか、忘れたのか、と。思いだせ、思いだせ、と。煩わしく振り飛ばそうとしていると、それは野菊のかたちをとり。償い。そう、償いをしたいと強く願ったのだった、吾は。どれほどのことをできるか、分からぬけれど。どうしたらできるのか、手だても分からぬけれど。浮き世に人としての生、つづきとなる営みを再開したいとはつゆさら望まなかったものの、そうすべきであろうとは思え。思いが縛りとなり、形なきものと成りつつあったものにおもむろに輪郭を作りはじめ、それにともなうようにほぐれていた念が纏まりゆき自意識があらわれゆく。鋭い痛みとともに、無自覚に野菊を手折りとってしまったこと、その直後におきたことが鮮明に脳裏を馳せてゆき。

 思わず両手をあげ顔を覆ってしまい。と、てのひらと顔面がふれた刹那の間に違和感をおぼえ。いや、腕を持ちあげたときからそれはあり。袖に石でも詰めたかのように重く、手は肥大していて樹の幹のように乾くゴツゴツ堅い。それは手のみならず、触れている顔もまた。小川のせせらぎのようになめらかで艶やかであった黒髪は、茅のようなぼうぼうとこわい毛になっていて。うつつとも夢とも知らずありてなければ。まだ目が醒めていないのだろうか。これは夢であり、すべては夢であったのだろうか。お手製の香袋を枕もとにおいた寝床にいて、安らかな寝息を立てる父母のそばで臥していて。

 フクロウの鳴き声が聞こえる。うつつであると、分かっていて。分かっていても、認めたくなく、遮二無二払いのけ、目をそむけようとする。さりながら払い除けようのない現の実。すこしずつ諦め受けいれてゆくなか、そのときになって初めて思いいたったこともあって。櫛にながるる黒髪の。ふだん容姿をいくら褒めそやされたとて、むしろ厭わしいくらいに感じ、おのれをうつくしきと思ったことのついぞなかったつもりなのだったが、実は誇りかに思っていたのではないか。おごりがあったのではないか、と。それだけひどい衝撃であったため。陽がのぼり、池の表面に映った自分を肉眼で認識したとき、改めて打撃をうけたこともあってみれば。水面に映っていたのは、はなしに聞くヤマンバそのもので。そのような姿で里に帰り、出かけたときと同じ生活にもどれるとは、いくらぼんやりした吾とてあり得ないことは理解でき、

「山ン奥さ奥さ入ってっだ。村からばなるたけ遠く遠くさ。知ってるのがらだけじゃねぐ、人がら遠く、遠くさ行ったんじぇ。ずんずん、ずんずん、ずんずんずんずん・・・・」

 ヨネは立ちどまり、顎をかるくあげ、耳を澄ますように目を閉じ。奥山へ踏みいった当時に思いを馳せてか。耳も大きく、枯れた芭蕉の葉の如し。小川のひそやかな流れ。かわずの音。ヤマバトの声。草葉のすれあい。ミズキの葉のゆらめき、白くひらめき。リウは老婆とおなじく、オニグルミの方をむく。あたかも同じものを見ようとするかのように。細かな綿毛のような、胞子のような、粉雪のような、あまたの白き微細なつぶつぶのたゆたうなかで。それらは感触もあるかなきか。冷たくもなく、心なしかほのあたたかく。張りつくこともなく、降りつもることもなく。その無色にも見えるひとつぶひとつぶに、意思というまでの鮮明なものではないながら、思いのようなもの、いとかそけきそれがあるようにリウには感ぜられてきてもいて。それを異形となりし女人は何かしら感じとれているものか、どうか。なにとなく、ヨネをいたわるように、見まもるようにしているように見えて。まったくの気のせいであるのか、そうあって欲しいとのリウの胸のうちのものが働いてのものでしかないのか。声にならぬ声、そよ風にもならぬ大気のゆらぎ。そのような波紋、といったようなものが常時ヨネにむかっていて。媼はまぶたをひらき、さりながら姿勢はかえず、

「だがら、おらァ一個も悪ぐねェ。かわいそうなやつだァ、と言うことはなぐでな。四つ足喰っだし・・・・ふたつ足も喰っただ。たまにおめはん達みでぇに迷い来た奴どか、狩りしでる奴らなぁ。見てくれだけでねぐ、正真正銘のヤマンバだぁ・・・・・・」

 そう言うと、こちらを向く。どうだ、恐ろしかろうと言わんばかりに。大男でもこれだけの巨躯はおよそいないだろう、少なくともリウは会ったことがない。むろんのこと、並外れているといえば規格外の巨きさのみならず、イバラのような太く硬く絡みあった白髪、泥人形の如き造作。猛獣を思わせる厚い腕と手に、頑丈で鋭い爪。泥をこねて成した仮面のような顔に、相も変わらずさのみ変化は見られず。皺の被さるちいさなまなこ。リウははっと目をみはる。媼の皺の蔭からのぞく双眸に、きらきら光るものがあることに気がついて。清水のような澄んだ光のゆらめき。恐ろしいだろうと問う、もしくは確認しようとする態度であったが、それは先ず、おのれをそう見做しているということなのだろう。容姿、のみならず、行為をも。そしてそれは現在成るありさまに留まらず、かつてあった容子にもおよんである気配があって。

 ヨネ自身、おのれをそう規定しているのだろうか。完全に規定しきってしまってあるのか。リウは、ちいさく首を左右にふってみせる。おずおずと、ためらいがちにではあったが。面に変化は見うけられなかったが、ふっと笑みがひらめいたように見え。ちいさいが鋭い目が視線をうごかし、歩みをまた始め。苔むした岩場。水がゆるやかに流れる。ヨネはかがみこみ、指をひたすと、

「おら、ずうっとして来だこどあってなぁ」

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