第59話 ヨネの疑問
「・・・・・・リウム、リウマリウマ、・・・・、キリキリ、キリキリ、クナクナ、・・・・・・、クナクト、クナクト、クルクル、クルクル、キウルキウル、キリ、ボキウ・・・、ボキリボキリ、ボキリホキリ、・・・・・・、キウムキウム、キメイテイ、マメイシマカテ・・・・・・・ソワカ」
元大僧正である老人が、床に突ッ伏し慟哭しながら、何ごとかを呻くように唱えていて。いまの状況に関わりのあることなのか、ただただひたすらやみくもにに口走っているだけのことであるのか。うわごとだろうとしか、リウには思えず、さまで気にもとめることのなく。訊こうとしていた母のことを切り出そうとするも遮られた格好で、多少いらッとしたばかりで。
「こごはわんつか(ちょっと)騒がすぃ」
婆から戸外へ誘いをうけて。確かに泣き声だけでも会話の円滑を阻むものであるのに、理解不能なことを喚いたりするので。肯ける状況ではありながらも、肯ききれぬものがあり。
「おらがおっがねぇが」
乾き固まった土の面であったものに、幾分やわらかさがあらわれ、大きな口からのぞく臼や刃のような歯からも猛々さがやわらげられてはいる。私が恐ろしいから外に出て一対一になることをためらうのかと問われ、それはなくもなけれども、より懸念されることがあって。横たわるシュガ。リウはまだなにも言っていない。いないが、心情を読まれたのか、
「こごさいればまず心配ねぇ。このマイダーマイダーちゅう、じっちゃも、あめでも(腐っても)鯛。ただ人でねぇようだすぃなぁ」
ただ人にあらず。なるほど、サレコウベを木魚のかわりにして念仏まがいのものを読誦したり、操ったことのない馬車の綱をにぎったり、人前を気にせず号泣するなぞ、若い者であってもそうする者は少なかろうに、いわんや。モミジが言うにはかつてサンキュウは、さる大本山のいただきに就いていたのだそうな。さりとて今は、ネジのひとつふたつ外れた老体としか思われなくて。もっとも、思いかえしてみれば、シュガとセヒョの諍いを寸時ではあったが止めてみせたこと、行く先こそたがえど繰ったことのない綱をつかみここまで運んだこと、怖ろしげな風体の老婆につゆさら怯むことなくふところにはいり込んでいったこと。それら尋常の者には容易にできることではないだろうことを、易々とやってのけーーやってのけられているかはともかく、かけらも逡巡することなく踏み出してしまうので。天才となんとかは紙ひとえと言うが。聞くままにまた心なき身にしあれば己なりけり軒の玉水。老媼に言われ、気がかりのいくらか減じ、頷いてみせることのかない。
「若えどぎ、村一番のべっぴんどよう言われもんでな」
暗がりに目の慣れたなかから、快晴の日なたに出で、リウは目を細め、すこしずつすこしずつ視界をひろげてゆく。外に出で、歩くなかで老女が語りだす。いずこへ向かうものか分からなかったが、問うことなく従い。関心のなくはなく、相づちをうちつつ。ナラやイヌブナの木々のならぶなか。ガマズミの白い花。
老媼はヨネと名乗って。ヨネは村にいた若い時分には器量好しと評判で、よう夜這いの対象にされ、嫁にもらいたいという話も繁くあったのだそうな。さりながらそういう男衆を寄せつけることのなく。高揚するものが微塵もなく、むしろ牛にたかるハエ、灯りによりつく羽虫、それら程度の煩わしいものでしなかったので。それはまた、そうできるだけの気性のつよさと、それが許されるだけの技倆をもっていたからでもあり。機織りをよくし、官吏の家でも言い値で買いとるほどで、器量好しであることは知らぬでも、在所でヨネの反物を知らぬものはなかった。なまじそこらの男にくっつかれ稼ぎが減ってはと勘定したものか、ふた親も娘に好きなようにさせていた。ために、ウマズメだのコマチだのと陰口をたたかれもしたものだったが。陰でなにを言われようと、面と向かってであっても、馬耳東風。柳に風で、ハエよりも気にならぬほどで。
ヨネの関心事は、土だった。土であり、土より生ずる草や木や花や実。それの近くに生きるもの。これといって理由のなく、また、理屈づけして惹かれたのではなかったが、あえて言えば、無駄のないように思われて。余分も欠けもない整然とした生の循環。響きあいつながりあいするもの。和する調べの妙韻。・・・・
ヨネは口をつぐむ。小枝を踏みおるちいさいが、鋭い音。アカショウビンだろうか、ひょるるるると鳥の啼き声。そのおりの心地、それは今とて変わらぬはずであったが、目を伏せた顔色からは懐かしむようにほほ笑む気配がほの見え。若かりしみぎりのヨネの可憐な面影を、リウは感じとれたように思われ。
「なんだべなぁ、おらが、わがんねがった(悪かった)んだべが」
ヨネは目を上げる。皺につつまれちいさくなっている目に、心なしか淋しさのようなものが見え、痛ましさもまた。またぞろ、ぽつりぽつりと語りはじめる。イヌブナの間を通りぬけ、柏の葉の下をくぐりぬけ。ガマズミの葉になぜられてゆきながら。
つよい疑問をもつようになっていた。当時、ヨネにとっては比較的自由にふるまうことができていて。ヨネにとっては、であり、はたからすれば、自由奔放得手勝手、非常識のきわみで、憎む者もすくなからずいたし、ヨネ自身そう思われていることに気づいてもいた。が、さのみ気にとめず。気にとめるだけの関心をもてなかったし、もたずに済む稼ぎももっていたし。ために余計憎まれる悪循環という側面もあったので。疑問はそれにもかかってくること。
つよい疑問とは、森羅万象ことごとく調和のなかにあり、人類もそのなかで生かされてある一生物にすぎぬ存在であるにも関わらず、なにゆえ人間だけが無軌道に殺め壊し、和音を乱すのだろうか、ということで。生きとし生けるもののすべてが、おのおのの営みを成すことに変わりはないように見うけられるのだが。ひとが円環から外れてしまうのはなぜなのか。そもそもおのおのという、自意識、意識自体が他のものにはなく、ゆえにひとつの生の営みの一部として、文字通り自然としてあるのものなのか。どうなのか、ヨネは考えれば考えるほどわからなくなったものだったが、おかしいという感覚はつのる一方であって。その日もそんなことを考えながら、なにも思わずに野菊を一本折りとり。そばに、食した一菓のアケビのころがるなかで。けざやかな香りが立つ。そのときになって、意味なく茎からちぎりとったことに気のつき、わるいことをしてしまったと、手にした花と、のこった茎と葉に謝していて。そのときに、それは起こった。
「・・・・・・やづが来だんだじぇ」
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