第58話 雀の意地
「ナンマイダー、タリナイダー。ナンマイダー、キュウマイダー。ナンマイダー、イチマイダー。タリナイんは、イチマイダー、イチマイダー・・・・・・」
絶叫するように読誦していた老爺は顔面をゆがめ、突ッ伏す。突ッ伏しながらも、ナンマイダー、ナンマイダーと声にならぬくぐもった声でうなりつづけ。大きく背骨を震わせながら。おいの身のむかしがたりをおもうにもただ何事も夢の世のなか。
没入し、無我夢中になっているサンキュウには目もくれず、巨躯の老嫗がリウにひたと眼をあてたまま迫りくる。早足ではなくゆっくりとしていはしたものの、それは着実に獲物を仕留めんがため、慎重の上にも慎重を期してといった具合に。今にもつかみかからんばかりの勢いで。リウは目を逸らすことができず、逃げだすこともできず。いや、もとより逃げだそうとする気など毛頭なくて。まるっきり鷹下の雀になり、ということでなし。シュガを置いて、という選択肢などあり得ぬことであったから。ただひたすらに、シュガの身は、シュガの身だけは守らねばと念じ。世のなかに思いあれども子を恋うる思いにまさる思いなきかな。言わでものこと、親でも子でもなく、いずれが年かさであり年少であるかを知らぬ。さりながら、夢(であろうか)で見たおのこのわらべの面影の濃くあらわれた、シュガのあどけないくらいな稚さの見える寝すがた。あまりに無防備なそのさまに、ほころぶような甘やかなものと、同時に締めつけられるような疼みを覚えつつ。
シュガの後頭部を押さえつつ、そっと膝をぬき、床へとおろし。シュガを背にし、老婆と向きあう姿勢をとる。自分になにかあった場合ーー膂力で太刀うちできぬことは火を見るよりも明らかでありーー、サンキュウひとりの他、シュガの身を抱え脱出させられる者はなかったのだったが、そのサンキュウはうつぶせになったまま、歔欷していて、時おりマイダーマイダーと吐きだし五里霧中。自分でなんとかせねばならぬ。が、どうやって。意は決しているつもりだったが、腰をおとしたなかでも手脚が震えてならぬ。雀が鷹にかなおうか。下唇を噛み、両手をあわせて組み、老女の双眸をきッと見返して待ちうけて。と、にわかに眼が開かれた感覚。全開に、まではゆかぬにせよ。胸中に光が射し込んだような、熱いものが流れたような。天井から吊されたものからだろう、不意に鼻腔をショウブの香にうたれ、こわばり縮んだ胸のうちを幾分かほぐさるる心地。合わせ握りしめた手がほんの少しゆるみ、下唇に刺した歯がぬける。
そうして、土壁が如き風体の老嫗を見やると、それでもやはり表情はあるかなきか読みにくくはあったが、どうやら危害を加えようとしてくるのではないらしく見てとれなくもなく。巨きな手、そのユンデにもメテともに、出刃包丁だの火搔き棒だのこん棒だの繩だのと物騒な物はなく、空っぽで。ぶ厚く鋭いクマを思わせる爪はありながらも、それを向けてもいない。リウの間近でとまった婆には、驚いている気色があるように感ぜられる。
「・・・・ソンウダグゴッ」
ソンウダグゴ、とは。石うすのような口から、異音が飛びだす。痰でもからんで喉を鳴らしたものか。声を発したのだとすれば、呪詛の文句であるのか、知らぬ方言であるのか。そうであれば読みとれるかと思ってか、リウは媼のちいさな目をじっと見つめて懸命に思い巡らす。
「ソノウダッコバ、ナステ」
ふッと閃くものがある。幽かな線であるが、その引かれたうすい跡、けもの道のようなそれをかろうじて辿れたような感触。その仕草だとか奥に隠れた眸子の翳り具合、音の抑揚から。
「その唄っこば、なして?」
リウは聞きとれた範囲で、自分の理解のおよぶものに換言ーー換言というまでもなく、整え、整えたものを示し、それで間違いないかと確認し。と、泥の仮面に深いヒビがはいり、ぼろりと首が落ち。
「んだ」
媼は相好をくずし、肯いた。思いのほか、明るくかるい返事に、いささか呆ッ気にとられ。喉をトクサで磨られたでもしたかのような、しわがれ掠れ低い声質にはかわりなかったのだが。はッと我にかえり、質問をもらっていたことに思いあたり、郷里にいたときに母から教えられたのだと答え。答えながら、その郷里にも関心があるのだろうと思いがおよぶと先に、
「どこだべ」
村の名称を問われ、答えると、老女はとなり村に暮らしていた(出身)だと、巨大な口を開いて笑い声をたてて。杵をならべたような歯と、イノシシの牙のような犬歯。クマでもイノシシでもまるごと嚙み砕き、咀嚼できそうな頑強で凶暴なさまであったが、ほがらかな様子であるせいだろうか、恐怖心をおこされることはなく。もっとも、けものを殺め、屍肉を貪り、同じ人を痛めつけたり殺めたりする人の間にいて、しかも現今それを生業としている集団のいわば一員となっていて、いま守ろうとしているのはその頭で。この老媼のことはよく知らぬが、それらに比してはたしてどれだけの非道(それを非道とすればだが)をしてきたというのか。リウはそこまで思いいたること(もしくは余裕)はなかったものの、いたずらに恐れたり怯えたりすることのおかしさ、愚かしさの感じは、さらに深まり、沁みてきてはいて。かすかに羞じらいが湧いてきている。
「この唄、知ってるんですか」
「馴染みはねんだども、聞いだごどはあってな。あまり知られでね唄っこだなや」
ふるさとの訛りなつかし、の心情が主であるか。淡い落胆の気もちがなくはなかったものの、気のつかされたところもあって。わらべ唄の歌われが、村ごとに多少のちがいこそあれ大抵かわらぬだろうから、あまり知られていないということは、リウの生まれ育ったところにおいても同様であったろうと推察できる。それは新たな発見という気味はむしろ少なくて、さもありなんと肯けて。振りかえってみて、母のおかれた立場を慮ってみれば。またべつの角度をむけたとき、それだけ母だとか母の家系に近いところにつたわる唄であるらしい確率が高まることが見えてきもして。また、記憶に残るほどには聞いたことがあり、あまり知られていないことをそれとなくでも認識していたということは、母だとか、母の家系に近いところの事情をも、なにかしら聞きおよんでいる可能性がおおきいのではないか。訊ねてみんと口を開こうとしたそのとき、
「アシャアシャ・ムニムニ・・・ムニムニ・アウニキ・・・・マカ・・キウキウ・トウカナ・・・・カナチアタナチ・アダアダ・リウヅ・キウキウゾリウ・キニキニキニ・イククマイククマ・クマクマキリキリキリ・・・・・・・・マカニリ・ソワカ」
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