第56話 信じる心

 くわッと開いたケダモノのあぎと。その内に溜まる濃厚な闇。妄念にすぎなかろうと思い直そうとする。さりながら戸の内に足を踏みいれる際、リウはどうしても捕食者の口のなかに自ら喰われにゆく獲物であるような思いが拭えきれずにいて。こころなしか、三和土の土があるべきところに、ぬたッと粘りがありやわらかみがあるようにも感ぜられ。このまま行こうか引きもどろうか逡巡していたとき、腰のあたりの布をちょいと引っぱられる。びくッとかすかに震えるも、サンキュウが仕業らしいとすぐに気のつき目をむけると、何事も感じていないかのように莞然と笑いかけてきて、

「どないしたん。はよいこやぁ」

 なまぐさい匂いがなくはないものの、草だの実だののものらしい匂いが繁くあり、その一部に紛れてある。明かりとりのある部分は朽ちてしまったのか、ツタカズラにでも被われてか塞がっていて。いまは開け放たれてある戸と、風化してできた壁のわずかな隙間から漏れいずる日光のみであるため、暗がりが濃く、すぐにはまわりの様子を見てとれず。しかしながらサンキュウには難とならずにか、滞ることなく進むためリウはつられて行くばかり。徐々に暗がりに目が慣れてゆく。草や実の干したものが、天井の梁にいくつもいくつも吊されてあって。外観からの予想とは反し、存外ひろく、それなりに整然とされていて、そう酷い悪臭が立ちこめていることのなく。いくらか落ちつきはじめたリウであったが、そんなおっかなびっくりのこころ内に関わらず、ためらうことなくずんずん入ってゆくサンキュウに引きずられる格好で、あがり框をのぼり居間の隅までくると、

「ここらでええんちゃうかなぁ」

 シュガを横たえる場と定められ。 シュガをなるたけ早く休まる体勢にしてやりたくもあり、リウは否も応もなく従ったものの。老婆が危害をくわえるものでなく、危険な場所ではないとして、他人のうちにこう無遠慮にずかずかと乗り込んできたことには、ひやりとする気後れを覚えてもいて。

「ネエさん、なにか喉うるおすもんないかぁ。あ、それより先に、こやつのアンバイ診てくれんかなぁ」

 老爺はどかッと胡座をかき、黒髪まじりの短い白髪頭のてっぺん付近をかきながらのんびりしたものいい。あたかも、飲料の要求と容態を診ること、それらにはさのみ差のなきことのような具合に。リウが割りきれぬ、のみ込めぬ思いでいるなか、さりながらそれにとらわれている暇なく、老女がのしのしと迫りくる。巨体でその容量分重量がありそうではあったが、足音はさほど大きくはなく、軋みもすくない。見た目と異なり、よほど頑丈な造りの床ででもあるのか。もしくは身体能力がたかく軽やかな身のこなしであるのか。もろ手空ではあったが、巨木をへし折り、岩を砕き、熊を喰らい、イノシシを喰らい・・・・するか(できるか)どうかはともかくも、壮健な偉丈夫と組み合っても引けをとらなさそうである太く硬い指。その一本一本には、鷲を思わせる鋭く厚いかぎ爪が。うって変わって、貧弱な若者ひとりと、口だけ達者な老人ひとり、動けぬものひとり。害しようとする輩からすれば、さして腕におぼえがなくとも格好の餌食と見做しうる非力な三人。はたから見た自分らを意識するとき、怯む気もちがやはりおこりはしたものの、なにゆえであろうか、うっすりおかしみも湧いてきて。巨木をへし折り、岩を砕き、熊を喰らい、イノシシを喰らい・・・・と、狒々の怖ろしい素行ーーそぞろに近寄りくる老婆に重ねられてもあるものが連なり想われて。確かに尋常な人間であれば、単独だとか素手をもって巨木をへし折ったり、岩を砕いたり、熊だのイノシシを仕留めたりはかなわぬ技だろうが、複数で、または道具をつかい、それらはしていることではないか、と。なかんずく、喰らうことについては、剛力でなくとも可能でもあり。そうであってみれば、非力である吾らも、怖ろしい存在ということになろうし、そう見ている立場のものが有ることもあり得。そう気づかされ、思わずふッとため息のような笑いを漏らしてしまい。漏らしてしまってからそんな自分の反応に驚き慌てるも、気づかれなかったのだろうか、老体らふたりから特段異なる目をむけられることのないように見え。とはいえ、なにかが、幽かに変化したようにも感ぜられもしていて。やはり怯えというのか案じる思いがなくはなかったがーーそれはおの身に対するものより、よりシュガに対するものがあってのことでーー、信じようと思う、いや、信じる方向へと願う。相手を、ということでありながら、飜ってみればおのれ自身を信じようという働きではあって。

「ふむ」

 婆はシュガの間近にくるとかがみ込み、そうつぶやいたようであり。ひょっとすると息を吐いたのがそう聞こえただけであるのかもしれぬ。そうして面をあげ。依然としてなんの色も見てとれぬ仮面のような顔。

「で、どんなアンバイやぁ」

「死んではいぬな」

「そんなんわかっとるがなぁ。どない具合か、聞いとるんやろがい」

「たまも抜けてないし、気も抜けてない」

「くったり動かへんけどなぁ、ただただ寝てる言うんかいなぁ」

 婆はなにも応えず、背をむけ囲炉裏へむかう。リウにはその言の信憑性の高低をはかる術をもたなかったが、信頼できるような気がされた。シュガから苦しげなようすは見られず、そう思って見るためか、昏睡ならぬ熟睡。前後不覚に眠りこけているようにも見え。

 婆は囲炉裏に火をおこしだし。ほのかに揺らめく光がわく。サンキュウは手をあわせ、声を張り上げはじめる。

「ナンマイダー、ドンマイダー。ナンマイダー、カンパイダー。ナンマイダー、シュウマイダー」・・・・・・

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