第55話 泥の面
狒々、そう称されるものが山には出没するという。獣なのかモノノケなのか、はたまた山のカミなのか、定かではないものの恐ろしいものだとリウは聞いたことのあり。具体的にどのような形状をしていて、どのような悪さをするものか、話すだれもが実際に見聞してのことではないらしく語ることはなかった(できなかった)ものだったが、なんでも怪異な容貌であるという。しいて言えば猿のようで、猿にしては巨大なししむらを長い体毛で被われ、とてつもない剛力なのだとか。巨木をへし折り、岩を砕き、熊を喰らい、イノシシを喰らい、なかでも好物は人肉なのだとか。
白い長毛に前身おおわれた巨体の猿。それが勢いよく戸を開き、がばりと姿をさらけ出し。狒々だ、とリウは瞬間的に身がまえ。が、そうではなさそうなことも同時に感じ。戸をたたき声をかけ、いらえのあるかどうか待っていた老爺の反応もあって。サンキュウは愕いていた様子ではあったが、それは返事のなく出しぬけに開き出てきたからであって、なにも異形のものが現れでてきたからということではないらしく見え。現に、
「すまんのう。突然おとなうたりして。ちと助けを得たくてなぁ」
サンキュウは暢気に説明し。リウはふり返り確認はしていないものの、後方にまだいるらしい駒のベンマルはいななくでなく落ちついた気色であるらしいこともあって。
「たすけ、となぁ」
いらえする声は、まぎれもない人声。石をすり合わせたような、聞きとり難いだみ声ではあったが。
「そうやぁ、気の抜けたもんがおってなぁ」
それは伸ばしっぱなしにした白髪をまとめるでなく垂らし、日や風雨にさらされ色あせ白に近いいろになった物ーー繊維がくずれ毛のようになっているーーで身をおおい。裸足で、サンキュウよりひとまわり大きく、手脚は杉の幹のように太くごつごつ皺がはいっている、老婆であるようで。
「気ぬけ、となぁ」
白髪にふちどられたなかにある、小さな目がむけられる。泥で作成した壁。その乾いてできたひび割れのような面から覘く目は、沼のうわずみのようにぬめりと照る。目線を受けとめたリウは、怯む部分がなくもなかったが、それよりもつよく危惧し。信用しうる人であるのだろうか、と。乾いた唇から、ぬらりと内臓が出てきた如く舌がちろちろ見えたこともあって。さりながら、すぐにうち消し思いなおそうと試み。人を見た目で判断するのは、好ましいことではなく。警戒もあってのことだろう、表情はなく、品定めする目つきになるのは無理からぬか。こちらにとって相手の正体が知れぬように、相手からしたらこちらの正体も知らぬわけで。しかもこちらはおのこ三人でもあり。ひとりは坊主ふう。ひとりは意識のないらしい者ーーひょっとすると屍体かもしれぬ者を運ぶ、泥のかかった者。
もっとも、老女がひとり住まいとは限らぬわけだし、かつ、ひと里はなれたこのような山奥にぽつんと一軒、しかも少なくも外観は荒廃した家屋に、これまた古び粗末なみすぼらしい身なりでいることらは解しかねるものの。さりとて何かしらの事情のもとでそうした(そうなった)というであろうし、見た目をふくめたことを併せたそれらのみで、その人となりを量るのは早計にすぎるだろう。疑心暗鬼を生ず、ということもあり得。なになにの正体見たり枯れ尾花。
また、かなうのであれば、なるたけ早くシュガに四肢をのばして休ませてやりたく、気をとりもどすよう手あてをしたく。もしかしたら、なおす何かしらの手だてを持っている可能性も考えられ。いたずらに疑うことは確かに愚かではあるが、さりとて期待をかけることが賢明であるかというと。然り、リウは疑う自分を戒め、信じようとしたわけではなく、信じたいと自身に都合よく思おうとしていたので。自覚できずにいるはたらきではあったのだったが。
「すみません。ご迷惑とはおもいますが」
リウはシュガを抱えながら、歩みより。なんと頼んだらよいものか、思いあぐねていたが思いつき、
「すけてもらいたいです。手を貸していただけますか」
なまぐさい匂いがつんッと鼻をうつ。寄ったとはいえまだ数歩で、老婆とは九尺以上の距離はあったのだが。そして頭の片隅をつつかれたような感覚。いずこでか嗅いだ気がされてならず。いつぞやのことか、そう昔のことでなく、間近にあったことのように思われ。目の前にあるようでいて、いまひとつ掴めない。無理に思いださなければならぬこと、しかも早急に、とは考え難く。老婆を注視しながら、距離をつづめてゆく。干あがった泥土のような色と小さな目からはなんの表情も見てとれぬ。サンキュウには臭わぬのか、顔色になんら崩れはなくて、
「すまん、すまん」
とかるく笑い馳せる格好で歩いてきて、シュガを支えてくれる。大柄な老女は観察するように、ただじっと凝視してくるのみ。歓迎はしていないようだったが、拒む気色も見られぬ。と、ぼそりとつぶやく。
「はいりなされ」
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