第54話 やぶの陰

 上に下に。左に右に。山風になぶられるエノコロ草。そんなふうに揺さぶられていたものが、突如としてやむ。着いたのだろうか。リウはシュガを胸に抱いた姿勢のままでぼんやり思う。そう思いつつも、明らかに帰るべき場所ではないことを、どこかで理解してはいて。

「ベンマル、ここでええのんかぁ」

 曲がりなりにも馭者を務めていた老爺は、駒に問いかける。もとより四つ足が人語でこたえることのなく、ひと声もらすでもなく。そうか、ベンマルという名をもつのか、とリウは見やる。そのベンマルは、首を静かにふり、これ以上曳いてゆこうとする気配がみえぬ。荒ぶるでも抗うでもなく、ここが到着地点であると確信があるかのように。

「ここでええのんか。ちゃうやろなぁ。まぁ、分け登る麓の道は多けれど、か」

 こうべを向け、リウたちに声をかけてきたが、いらえを待たずに戻し、何ごとか肯いていて。目的の場ではないし、それと判りながらいい加減な態度をとっているように見えるサンキュウ。リウはまだ朦朧とし頭がはたらかないなかではあったが、だからというわけでもなく、苛立ちだとか懸念だとかをさまで覚えぬ。広大なたなこごろの上にあるような心地。

 辺りを見回すと、家屋らしきものが藪の陰に見え。だれかいるかもしれぬ。いないにしろ、休ませることぐらいはかなうことだろう。むろん、シュガの身を。いまだ意識をとり戻さず、目を閉じたままであり。幸い、といってよいものかどうか、呼吸に乱れはなく、顔色の血色よく、苦痛のようすは見うけられず。

「えらい世話になって。おおきにぃ。好きにしたらええわぁ」

 よっこらしょと地に降りたち、よたよたふらつきながらも倒れることなくサンキュウが、ベンマルを台車から外しにかかる。ベンマルを重荷から解放し、そのたてがみだとか胴を労るように撫でているところへ、リウは声をかける。陋屋までシュガを運ぶ手を貸してしてくれるよう頼む。ナンマンダブ、ナンマンダブと老爺はいったん手をあわせてから、諾い手を差しだす。そばに卯の花がほころんでいる。

 暴れだすでなく駆けだすでなく、ベンマルは首ひとつふるでなく佇み、三人を眺めいて。その無垢なる双眸に、華奢な若人の眸子がうつり出る。あたたかみのある、感謝をつたえる色をたたえ。そういう人間同士での伝達方法としてある表情としてはつたわらなかったが、なにかつながり、通じあうところはあった。表情だの仕草だのこと葉を介さずにあるもの。ときに波だち、ときに泡だち、ときに渦巻き、ときに凪ぎ・・・・・・情動の、さらに基を成すもの。それが響きあう。なにか特殊な、超常的なことではなくて、本来ひと続きとしてあるものが、その若人は、ひとにしては比較的素に近いかたちでたもててある、言い方をかえれば、濁りやくもりが少なくあり。雨あられ雪や氷とへだつれどとくればおなじ谷川の。

 みずみずしいわか葉が、あけぼのの日を浴びてふるえ。たまゆらにも絶え間なくおこる、微細な変転。それを視覚でも聴覚でもなく感じとるが如く。いや、視覚や聴覚をふくめた、全きもののなかでのひとひらとして受けとるように感じとらえられ。リウはベンマルの優しい眸子と目があって、その奥に共鳴するものをあえかなものであったが感じとられた気のされて、歩のゆるむ。細やかなそよぎをおたがいに見ていて、そのおなじものを見ているとわかっている感覚。さりとて疎通の仕方には見当がつかず、やむなく、ありがとうとささめくように人語を口にして。つたわったものかどうか、駒はゆっくりと瞬きをし、かすかに肯いた、ように見えた。

 竹やぶの陰にみえた物は、屋根にはペンペン草が生えて崩れがあり、蔦がはりつき、かろうじて家屋と知れるしろもの。人にうち捨てられ幾星霜、といった風情であり、住人がいるものかどうか、内部も床がまともに存ずるのか危ぶまれるほどで。内からはなんの物音ひとつない。不自然なほどに。あたかも押し殺してでもいるかのように。戸は一応あるが、はたして開くものか、どうか。

「どれ、わしが誰何してくるかな」

 サンキュウはともに肩を支え運んでいたシュガをリウひとりに任せ、戸の表をたたく。元大僧正がむかってゆくとき、なにゆえか、リウは引きとめたい思いがわき。そうしなければならぬ、もしくはあらまほし理由はあってもその反対となるものはないため、言動に出すことはなかったのだったが。なにか芳しくないものが潜んでいるような気がされ。振りかえると、ベンマルがまだ佇んでいて、こちらを向いている。そのようすには怯えだとか、なにか異常を感じとっているらしい気色は見てとれず。杞憂だろうか、と思う。思いつつも、シュガを陋屋側にうつし、なにかがあったときに備える。なにか。なにかとは、なんだろう。

「だれぞ、おらんのかぁ。坊主くずれと、年若のと、病人の三人だけじゃぁ」

 サンキュウが唱えるように言うと、獣が獲物を捕らえ喰らいつくときのあぎとの如く、がッと戸が開く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る