第50話 ときはなて

 ぬかるんだ地面に、あなうらがどろりと辷る。転んでしまうかと瞬く間脳裏をはしるも、平気だとながす。転ぼうがなにをしようが、することはおなじ。いささかも変わることはなく。潜在にはつよい信頼があった。いな、信頼というよりもさらに密度の濃いーー我がことであるような、母のてのひら胸のなかに導かれゆくような、そんな絶対的な安心感。ためにだろうか、転倒することのなく、どころか進む速度が尋常ではなく速まっている。盗魁だとかその下にいる男が取りおさえようと追うも、追いつくことのかなわぬほどの。

 いまの有りように、リウ自身、疑問だの驚きだのゆめさら覚えることのなく。ただひたすらに、シュガの元にゆくことしか思いにない。なめらかな下り坂を、自然すべりおりてゆく感覚。障害となるものはなにもない。泥水をはね飛ばすことなく、降りそそぐ雨の粒も、打ちつけてくることのなく、薄衣にふれるが如くなでゆく。こころよい。くもり、濁りが雲散霧消してゆく。いっさい薄れ澄みゆき、なんのためにこうしているのかその目的さえ、失念してしまうことさえしてしまうまでに。さのみにあらず、自分という認識までも消えることのある。澄みわたる、透明度の高い湖水。そのひとしずく。

 突如として前方に壁がたちあらわれ、足をぬかるみに捕らわれる。もとより壁などない。シュガのいる場所から間近となり、覆うようにしてある涸渇した地面。その直前にさしかかると不意に足がとまり、なにごとをもとどまらぬ澄んだ内面に、とどこおりがおこり、濁りがうまれ、自己というちいさな存在であること、そういう卑小な自身がなにをしようとしているのかを、打たれたように思い出す。

 森羅万象に憎悪の牙をむき出しにむけた有象無象のどす黒いかたまりはすでになく、影かたちすらない。さりながらその遺した瘴気がまだ漂っていることは如実に感ぜられ。枯れた草花のなかに、無数の虫、鳥の死骸がころがっているのが見え。足がすくむ。かるい嘔吐をもよおす。足を踏み入れることへの拒絶反応が、肉体のもつ本能としてはたらく。が、ためらうことなく踏みこんでゆく。これもまた、吾のひとかけら。こと葉に訳すれば、そういう思いがいずかたからより閃き、そうだ、ただおのれにあるものを受け入れてゆけばよいのだ、と思いもされて。踏みこんだ途端に、永年開閉されぬ室のうち。それを思わせる澱んだくうきに纏いつかれる。刹那、トクサで擦られたような痛みがかすかに肌によぎるもののすぐに止み、他にこれといって異なるものは感ぜられぬ。あなうらから伝わる土の感触があきらかに違う。萎縮した死の気配が立ちのぼる。寒気がしたが怖じ気づかず、むしろ足が速まる。自身を鼓舞したり、奮い立たせることなどなく。至近の距離にシュガが見えていて、怯えたりする余地がかけらもなくて。そぞろに、いつかどこかで感じたことのあるもののような気が、うっすりとされている。

 シュガは変わらず、焼かれたように黒ずみ枯れたトチの幹に縛られていて、頭をおとした姿勢のままでぴくりともうごかない。時おりバラバラと枯れ葉がおちてくるなか。いまの時点では、衣服が朽ちていたり、髪だとか皮膚に損傷があったりは見うけられぬ。さりとて見えていないだけかもしれないし、見えない部分に重傷をうけている可能性もあり。先ほどから身動きなく、おなじ姿勢のままであることが、気にかかる。どうしようもなく。まさか、いや、そんなことは、でも。・・・・・・

 飛びかかる勢いで馳せ寄り見ると、かッと目を見開き、歯を食いしばり唇をひきむすんだ形相で固まってあり、鼻のさき、顎のさきから雫のしたたる。頬や首すじにてのひらをすべらす。冷えている。されど、ほのあたたかなぬくもりが伝わりくる。口のあたりに手をかざすと、かすかな風があたる。気がゆるみ、どッと熱いものが突き上げてくるも、まだ安心していられぬと気を引きしめる。先刻よりかわらぬさまのまま、微動だにせぬではないか、と。

 ともかくも、まずは縛めをとかぬことには。シュガを捕らまえてある物。セヒョの放てし物は繩であったはずだがーーそして白っぽかったはずだが、いまは真ッ黒に染まっていて、紐ぐらいに細まり縮まっている。色がかわり、太さがかわったものの、硬く結ばれてあることには違いない。変化のためかどうか知らぬが、紐はつなぎ目、結び目のない一重の輪となっていてほどこうこうにもほどきようのなく。切り落とそうにも刃物を所持しておらず、シュガが身につけているのかも知れぬが、あったとて縛めかためた下にあり。このまま、こうしていてはならぬということの直感され、焦り、怒りが噴きあがる。黒紐に爪を立てたまま、

「離せッ」

 低声ではあったが、一声を発する。鋭利な、斬りつけるが如き熾烈さで。忘我で、発せられしもの。いわでものこと、それでどうにかなるだろうという期待などつゆさらなく、そもその余地などない心境。

 と、リウははッと息をのむ。紐が音も立てずにはじけ飛ぶ。粉々になった残滓は雨にうたれ地に散りおち。紐が散る最中、シュガの体中から切れはじけする気配がつづく。擬音化すれば、ぷちぷちぷちぷち。・・・・それは深部までむかってゆく。さりながらそれは、汚泥のようなものに達しながらも抵抗にあい、表層の縛をとくのみで終了す。目を見はり、反面どこか冷静に観察してもいたリウは、縛めが無となり倒れかかってきたシュガを抱きとめる。重み。鼓動。直につたわってくるものに胸がいっぱいになり、ひたっていたくもあったが、そうもしていられぬと判断はつき、かといって持ちあげることのかなわず、相手の両肩胛骨に腕をまわした格好で引きずりゆき。重く、容易ではなかったが、だからこそ、喜びも湧く。

 ふッと、雨、くうき、土の感触がかわる。腐食した地帯から抜けだしていて。いささか気がゆるんだせいだろうか、力が抜けシュガの重量で背後に倒れこみそうによろめく。

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