第48話 雨あられ
止めるよう声をあげたものの、雨音にさえかき消されるほどのかそけきものにしかならず。今、どのような状況にいたっているのか。取りかえしのつかぬことになる前になんとかせねばならぬのに。かたくむすばれた紐の結び目をやみくもにほどこうとしているようなもどかしさ。それを数段強めた焦燥感に、背を焼かれるような心地であったが、もとより焦れば焦るほどほどくのは難くなる。そこに思いいたる部分があり、深く息を吸い、吐く。
白い大蛇から伝えられたことが脳裏にひらめく。されど最後の一点はそなた自身の力で取り除かねばならぬ。他より、人の手によりなされたものなれば。取り除けるはずだ、と思う。吾には可能なのだ、できる、絶対に。
「天魔外道皆仏性、四魔三障成道来、魔界仏界同如理、一相平等無差別」
燃えあがるツルギの切ッ先が、汚泥の如きどす黒いかたまりに触れようとしたその瞬間、
「露ッ」
雨水を斬り裂く鋭い大音声。元大僧正から発せ飛ばせられしもの。辺りのうごきが刹那の間、こごる。間近にいたリウは立ちすくみながらも、好機とさとり、
「もう止せッ」
踏みしめた足の裏から湧きたち衝きあげしてくるものを、乾坤一擲の意気で吐き出す。その勢いでもってか、何かがぽんと音をたてて外れた感覚とともに、蓮のつぼみがはじけるようにまぶたがかッと開ける。これは、たまゆらの合間に起こりしもの。ひょっとすると、これはリウに限って感じとれたもの、幻影、かもしれぬ。目を見開くやいなや、疾風がおこる。それにしては雨あしをけ散らすでなく、草葉をひるがえさせるでなく。さりながらセヒョとシュガには押し寄せ突撃する。セヒョは激しい渦に巻き込まれ内心愕く箇所もありながら色ひとつ見せず、かわらず神咒を唱えつつツルギをかまえていたものの、次第に苦しげな表情をみせ、ごみがはいったとでも言うかのように目をつむりしかめ、とうとうツルギをおろす。途端にツルギがほどけ、み色の焰にもどり、消滅する。その風は身の内にも吹き荒れているらしい。
シュガから噴き上げて蠢く暗黒の色の、魑魅魍魎の形状をなすものにも吹きすさぶ。揺さぶり圧する。牙、爪、針、刃物。次々と凶暴なそれらが歯むかおうとするも、突くことも裂くことも切ることも、つかむことすら適わぬ烈風にはなすすべもなく。なぶられ、追いやられてゆく。流されゆく黒雲のように。そして流れのなかにある黒雲の末路に等しく、もみほぐされ、徐々に薄れ、掻き消されゆく。躍動する濃霧の如き現象が薄らぐにつれ、被われていたシュガの姿が現れてくる。縛りつけられ、うなだれた格好。どす黒いものは散り散りに消え去った。
うッとうめき声がしたかと思うと、水をはじき地面に崩れおちる音。見ると、セヒョが独鈷を手にしたまま、うつむけに倒れ込んでいた。リウははッとし反射的に馳せ寄ろうとするも、脚が思うようにうごかずよろけてしまい、サンキュウに腕をつかまれ支えられる。つい先まで身と心が離れたような状態にあって、まだふたつが馴染みきってなく。確かにそれもありそうではあったが、開けなかったまぶたを開けた際、噴出した風としかおもえぬ烈しい流れ、うねり。それは地につけた足うらから湧きたち衝きあげしてくるものであることは違いないようではあったが、のみならず天より降りそそぎ沁みわたりしもの、空中にあってやわからく包み込みしものがとけ合いーーいや、それは別たれたものではなくひとつのものであり、そしておのれもまたそのうちのひとつであるという全き実感をうけ、そのひとつとなりしものから放たれた波紋であって。水が高きところから低きところへ流れゆくような、五月雨の集まりが川と化すような、自然の織りなすいとなみの一環でしかなかったが、その一端である身で噴出口を担ったためだろうか。自己という卑小な存在であるのに、止めたいという私意をはたらかせてのことであったため、生まれた天地とのつながりを滞らせてしまった局所があってのことか、気をぬくと四肢に力がはいらずへたりこんでしまいそうになっている。心身にずれがあったからとか、ひとつなる完全体との間にひずみが生じたからとか。さらに縹渺たるものではあったが、ほかにもあるようで。表層ではもの案じしつつも、内には怒りーーあくまでも冷たく冴えわたり、澄みひろがるものーーがあり、それが自識に上らぬまでもおぼろに感じられはしていて、それが思う(案じる)ように、即座に近寄ることができなかったことに、幾分なりとも作用しているようだった。
とみに騒然たる音声や気配が止み、地を草木を屋根を人をうちつける白い雨音のみになる。雷が鳴る。
「雨あられ雪や氷とへだつれど・・・・」
老爺はつぶやき、リウの肩甲骨のあたりをかるくぽんぽん叩く。リウはふッと目を醒ましたように、現今にある自分の芯をとりもどし、会釈して倒れているセヒョにむかう。シュガよりもセヒョの方が近くにあったというだけで、他意はなく。
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