第43話 雨の音

「明日そうそうにやつは来るだろうよ。ここは騒がしいし、べつのとこで休んでいたらいい。いきなりいろいろ聞かされてこんぐらがっているだろうしね。アタシだって全て真だと言いきれないところもあるのだし。静かなとこでまとめるなら考えるなりしたらいいよ。セヒョとね」

 モミジの言のなかにその名を聞いて、はっとかるく驚き、脇を見る。すぐそばにセヒョがいたことをすっかり失念していたため。モミジのはなし、そのもたらした波紋にいまあることが被いかくされていたものか。屈強そうな男らのなかにあって、ひときわ丈も幅も大きく見逃しようのない体格ではあったのだが。ひとつであっても解きがたきことが、幾重もつらなり、もつれ絡まりして。それがどう繋がるのか、もしくは繋がらぬのかも知れず。ほぐれるのだろうか、そのいとぐちを見いだすことが、はたして吾にできるものなのか。

 なにとなく追いつめられたような心もちになっていたリウは、セヒョの、どこかあどけなさの覗く素朴な面つきを目にし、いくらか胸中が穏やかになるのを感じる。先ほどまで念仏のごときものを唱えていたサンキュウは伏して歔欷の声をあげ、それを宥めるものあり、いまは濁声をあげるほどまで酔うものはなかったがいずれがなり立てはじめそうな酒を酌み交わすものあり、そうでなくともむくつけき男共が十人ほどいて。たしかにここは、落ちついて思案するに相応しい場ではなさそうで、煙管をくわえた女親分に、はいと素直に肯いてみせた。

 雨だれをうける器が二・三あるのみーーもっとも足らず、床をはじくほうが多いくらいだがーーで、設備品なぞなにもない室内に、セヒョともどる。モミジに余計な草履がないか訊き、一足もらいうけてこの度は自身の足で木の板をふみ。軋み沈みこみそうな部分もあるそこは、湿っているためか心なしかやわらかさが感ぜられ。土のうえを歩いているような心地もされる。樹木のつくりなす緑の闇。木の下闇のもとには、つねに苔を潤す磐。オオルリのさえずり。それは尽きぬ泪だという。かえらぬ人を思い。その相手、のみならず己が身を思ってのものであるのかもしれぬ。さもあれ、話のとおりであれば嘆きによって成ったものが、命を生かし育みすることとなり、憩いともなり。

「どうや」

 室の中央あたりの、比較的乾いたところにならんで腰をおろすと、セヒョから声をかけられ、リウは吾にかえる。おサワの磐、もしくは泣き虫イワと呼ばれているもの。なにゆえか、それを思い出し、そこを逍遙していて。こんこんとわく豊かに澄んだ水の冷えを感じそうなほどにある。磐には、ひとつの女性が佇む気配。人、ではないようであり、かなしみのなかにあるのでもなさそうでもあり。ひっそりと野の花のようにそこにある気色。そのところから、呼びもどされた格好。そんな具合であったため、なにを言われているのか瞬時に掴めずセヒョに顔をむけると、持ちあげた両手に革袋と布の袋があった。革袋のほうは液体らしく、ふくれ揺れる。そういえば仏間で、革袋から酒をそそぎ吞んでいた者がいた。リウは首を左右に振る。

「そうなん。ちょっとでも口にせんといざってとき、力出えへんでぇ」

「力出るひともいるかもしれないけど。逆に力出なくなりそうで」

「そんなんあるかなぁ」

 手をおろしたセヒョに、訝しげな目をむけられる。そんなにおかしいことを言っただろうか。こういうものは珍しいのだろうか。戸惑いながら、

「ちいさい頃、元旦に、ちょっと舐めたかな、くらいで、お屠蘇を」

 セヒョがまるで狐にでもつままれたような顔をしたので、さらに戸惑いが増す。セヒョは首を傾げ眸子を虚空にあげると、ああとかるく肯きながら目をリウにもどし、

「水やん。湧き水くんできやつ・・・・って、びっくりするし。水のんだことないて、もしやモノノケの類かいなて」

 あッとリウはおのれの勘違いであることに気がつき、はにかみ、一言謝る。ごめんなさい。かまへん、かまへん、とセヒョは笑って片手をふってみせ、

「すこしでも、口にしな。たくさんでもええし。たくさんもないけどなぁ」

 と、布の袋のなかを見せる。ひとつには、砂利のようなもの。もうひとつには、ニレの木の皮のようなもの。干し飯と、なにかケモノの肉を干したものらしい。おちょこのようなーーようなでなく、おちょこであるのかーーちいさい杯に水をそそいだものと、干し飯をひとつまみ受けとる。乾いた穀米を噛みしめていると、乾かした肉を噛みちぎり咀嚼し呑みこんだセヒョが、自身の手にもった欠けらに目を落とし、不意にうごきをとめる。

「・・・・やつのとこに、なんでいたんや?」

 瞬間的になんのことが呑みこめなかったが、シュガのことを指し、シュガのもとにいたことを問われているのだとすぐに諒せる。モミジのはなしを聞いた後であったため、詳しくは言いかね、

「行き場がないときに、ひろわれて・・・・」

 言いよどみ、突っ込まれたらどうしようか、正直に言ってしまうしかないのかと思い案じていると、ちらッとこちらを見、

「サンキュウさんおるやんなぁ。ナンマイダー、なんとかマイダーていうてた」

 唐突に話題がかわったためいささか困惑しながらもほっとしていると、

「あれな、なんであんなんされたか言うとな。とって変わって寺の一等お偉いさんになったんが、祭司長の息のかかったこすっからいやつなんよ」

 そう言うと、乾燥した肉片に目をもどす。そんなことまで、とリウは反射的に言いかけ、トリ、ハナ、カゼ、ツキのわらべらのこともあって、不思議でもないのかもしれないと思い、こと葉がつづかない。

 屋根を、まわりを包み込む雨音。床、器にはじく滴り。

「やつを殺すかもしれない」

 思いつめたような硬い目と、口吻。横顔、肩から腕にかけ、殺意が漲っている。そんなふうな気のされてならぬ張りつめたものが胸に迫りくる。

 リウに目をむけ、面つきがふっと緩む。安心させるように完爾とほほ笑んでみせる。あどけなさの残り香がふたたび表れる。

「どうして・・・・・・」

 リウは疑問を口にしかけ、訊いてよいものだろうかとためらいが起こり言いきれず、水を唇にあてる。伝わったらしく、ああとセヒョはつぶやき、

「そやねぇ」

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