第38話 浮き上がる
発光する白色の蛇の姿がちらつく。あまたの白狐の影もまた。リウは、侵入者共が砦の外にとめおかれてあった馬の曳く荷台に置かれ、台に縛りつけられ藁を被せられ。雨除け、という気づかいではもとよりなく、見られぬようにするためであろうことはリウにも容易に想像がつく。屠殺された獣のように四肢に力がはいらず、藁で外界とへだてられながらも、うつろに目をひらいている。白磁と琥珀のいろとで成された球体。疾駆する荷車に揺すぶられ、突き上げられるままに躰がうごく。心ここにあらず、べつのところへと向かってゆく。
白蛇の神を拝する母は、流浪の民のものであったらしい。はるか遠くから、と話してくれたのを覚えている。いずこからで、また、何時のころからで、その原因がなにであるのか、どのような経緯で母がひとりになってしまったのか、リウは何も聞かされていない。稚くて、ことに関心をもつこともなかったから問うことはなかったし、まだ話しても理解できないだろうと時期をみていたのかもしれぬ。
信仰についてもことさら教えられたことはなかった気がされるが、まろうどのために神棚にむかうさまから、なにとなく感じていたものはあった。母が感応している存在は白蛇ではあったが、さらに奥に、大元にというのか、高位の神がいるような感じがされてならなかったものだ。それは母から教えられたわらべ唄に出てくる、リルという神ではないかと思っている。
リウが奴隷として官吏の家に買われ都にくることになり、当然未知のことばかりで戸惑うことしかなかった。使うこと葉からしてちがい、なかんずく、対する人のありようが清水から掬いあげられ泥水に突き落とされたように異なった。身分のためもあろうし、村人が清らかだとはとうてい言いかぬるが、都のような濁りはなかった。
当惑するなかで、これはささやかな部類ではあったが、神という存在の認識のちがいがあった。さりとても言わでものこと、身近に接するものらは、学者ではないし、かつ常人(平民)ですらなく、そこで交わされる内容といえば九分九厘、猥談か戯れ言で占められていたわけで、積極的に輪にはいってゆくことはなかったこともあり、そういう話にふれる機会がほとんどなかった。もれ聞こえる会話の、喩えであるとか諧謔化された文句から耳にとまったものが自然積みあがってゆく、むろん欠けや穴が多数あるにしても、曲がりなりにも見えてきた神話像は、リウが母からつたえるともなくつたえられてきたものとだいぶ異なっていた。呼び名は違えど、大きな偉大なる魂をもつ者がふたり肉体をまとい地上にあらわれる、ということは共通していた。さりながら、母からのものは、そのふたりが地上を統べるとか万世一系で肉をまとった者らが交わり成した子が受け継ぐというものではなかった。母からのものでいえば、ふたつの魂が受肉することはそうそうなく、その働きは統べること、支配することにはなく、はじまりと終わりをもたらすことにあるのだという。そして、都では、天長と天礼のおや神を陽の神とし、それのみを頂点だとして崇めている。母からのものでも、陽である神を大切にしていたが、おなじく、いや、ことによるとそれ以上に尊ぶべき存在があった。それは都の神話では忌むべき存在とされる陰の神。水を司り、地を司りする母なる女神。それが母から教えられたわらべ唄に出てくるリルであり、その眷族として白蛇がある。ニジもある。眷族云々等、それらは先述したとおり伝えられたものではなかったが、都の神話像が積み上がってゆくに従い、母から聞いた話、わらべ唄、神棚に対する姿やそこから見えた映像だとか印象から、形成されていったものであって、仮に母から直に聞けるとしてそれと合致しない可能性もあるわけだったが。しかり、それはあくまでも母からのものが基となっている。村に語りつがれるものとも重ならぬものであるのかもしれず、そもそもそういった創世記といったような大がかりなものが村の伝承にはなさそうではあったし。河童がどうしたの、天狗にさらわれただの、身近な怪異に限られ。その点からだけ見ても、村において母がいかに奇異な存在であったことーー奇異にしたてやすい存在であったろうことが推し量れる。いつまでもヨソ者でしかなかったのかもしれない。そうであれば、懐かしみ思いかえすことがよくあったふる里が、自分にとってもまた、ふる里ではないのかもしれぬ。すくなくも、吾にはそう見做すことはできない。歌うべきふる里などない、のかもしれない。
がごッ。車輪が音を立て、荷車が大きく跳ね上がり、拍子でリウの後頭部がうき、戻りざま下の板に打ちあたる。被せられた藁が、湿っぽく重たくなっている。髪も衣類も、それ以上に水をふくみ、重い。胸のうちはさらに重くなっている。どうやら吾を攫うことが目的であったようだが、自分なんて攫ってどうするつもりなのだろう。どうされるのだろうか。閃いた疑問はひろがることなく、すぐに立ち消える。どうでもいい、と思う。誰にとっても、どうでもいいことだろう。倦怠の泥沼に沈みこんでゆく。物あつかいされて売り買いされ、ようよう抜け出せた、いや、拾いあげてもらえたのも束の間、また物とされて強奪される。結局、人ではなく、物なのかもしれない、自分は。
膨大な数の狐火、白蛇のはなつ光。燐光のように映像としてちらついていて、なにを訴えられているのか分かるような気がされてはいたものの、応える気力がわかぬ。ただひたすら、疲れたという思いだけがある。これから何かに利用されるのか、利用されようとし役に立たず息の根をとめられるのか、いまの精神状態としては後者になる可能性が高そうではあるけれど、とめられようがとめられまいが、いずれにせよ、ただ肉体が死んでいないだけのことで、生きているとはとうてい言えない索漠たる日々が横たわってあるだけのことだろう。また、元にもどるだけのこと。
うつろな玉になっていた眸子に、うごく影がうつる。ちいさな、黒いもの。間近を移動しているダンゴムシ。なにゆえであるのか、なにとなく、硬直した胸が、ふっとすこしゆるむ。生きているものを直に目にしてか。考えたり、感じたり、思ったりするのだろうか。生きている。一生懸命に、なのか、その意識もなく、本能のみであるのか。生きてあることに、胸を揺さぶられる。ちいさきものであった揺さぶりが大きくなってゆき、ほぐれ、ひらいてゆく。そして気がつく。
ニジ。感情の死に絶え、好悪の感じられなくなっているときに現れ、凍りついた胸をとかしてくれた。ジュデの実、その汁で染め上げられる糸束。最後に労りをみせてくれただんまりさん。タマ。シュガ。自分はいつもなにかしらに助けられ、そして誰に必要とされていない存在ではない。父と母ははやく亡くなってしまったけれど、接する時間が短かっただけで、まっすぐに、深く深く愛し、慈しんでくれた。この身を、吾を。粗末にしてはならない、と決意する。諦めてはならない。なんとしても、もどってみせる。
ーー生きぬいて、どうか、どうか
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