第37話 あふれるもの
繩に足をつかまれてあお向けに倒され、地に背を強く打つ。刹那、呼吸がとまり、衝撃で瞬時に身動きのかなわぬありさま。手にもっていた油紙が顔の上にかかってしまっていて、視界を塞がれてもいて。正体不明の侵入者が三組、水を蹴散らし走り来て、間近にとまる気配。背後から速やかに染みとおる泥水。
物理的な視界のみならず、何者らであるのか、何用であるのか、これから自分はどうされるのか、なにも見てとることのあたわず。ここで終わりなのかもしれぬ、と思う。雨のなか、短い間にではあったが目にした、笠の下の目は、穏やかなものではつゆさらなく、手には刃物をもっていた。その残像から、自分が助かるだろうと判断するほうが不自然。番人であるふたりは組み伏せられていたが、手っとり早く始末されたものだろうか。
紙を奪われ、脇に腰をおとした男に胸ぐらをつかまれ上半身を引きあげられる。四・五十ぐらいの皺の多いひげ面。ゲンタ、なぜなのかそれを思わされる。ゲンタがこのような蛮行をここにおいてするわけなどなく、ひげの他に通じるところはないはずなのだが。男がなにかを見定めようとするかのように目をすがめる。
「顔おがんでどうするつもりだい。見るとこはそこじゃあないだろ」
すこししゃがれ、居丈高なもの言いではあったが、あきらかに女声。三人ともおなじ成りながら、そう言った者は腕を前で組み、リウの身体に目を走らせ、
「そいつに間違いないようだね。足のを外して、その手を縛り上げちまいな。ぐずぐずしてられない、ずらかるよ」
雨に直にうたれつつ、リウは茫然自失としてされるがままになっている。状況が全くつかめないなか、ともかくも逃げようがない立場であることは理解できる。逃げようとしたり逆らうなりすれば、斬りつけられるなりし、場合によっては息の根をとめられるだろうと予測がつきもして。
「ほら、さっさと歩きな」
胸の前に縛られた手首の繩を引っぱられ、背を小突かれしながらの連行。うなだれ、牛歩より鈍い足のうごき。地がぬかるみ、ただの草履であったため歩きにくいということはあったが、言わずもがなそれが主ではなく。
この境遇は覚えがあるような気がされる。似たようなことがかつてあったような。いつ、いずこであったことだったか。直に思いあたる。ふた親があいついで亡くなり、引きとろうとしてくれる家が親族ふくめ村にはなく、引きとるどころか人買いに売られ。繩だの綱だのかけられさえしなかったものの。
考えたこともなかった。というかそれ以前に振りかえることを避けていた部分があり、直視しようとしたことはなかったが、罪人のように引っ立てられている今、はじめて正面から向きあおうとしている。誰にも引きとってもらえなかった事実に。
春夏の短く収穫量がただでさえ少ないなか冷夏で減じ、それでいて年貢の徴収量はかわらず、引きとるだけの余裕のある家などなかった。そう見做すことは可能ではあったが、そうかといって家族を間引きするとかネズミだとか木の根をほじくり出して食せねばならぬほど窮している家は、村にはなかったはず。そして幼少期の記憶でしかないけれど、遺児に対しああいう無慈悲な仕打ちをできるような関係を、両親は村のなかで築いていたとはとうてい信じることができず。
若い夫婦と子ひとりの家ではあったが、村人のだれかれが毎日のように訪れていたように思う。歓談だの賭け事だの馳走だのを目的としてではなかった。そしてその来客の主は、母が目当てであったようだった。たずねてくる者は、一様に陰の気配をまとい、病のもの、肉体のいずこかに不自由なところをもったもので、数人に抱えられてきたものもあった。その度、若夫婦は嫌な顔ひとつせずにもてなしーーといっても茶をいっぱい献じる程度ではあったがーー、母はちいさな神棚の前にむかい端坐し、ジュデの実のしぼり汁に染まった指さきの手をかさねあわせ、瞑目した。そうやって、白くおおきな巳の姿をした神さまに、訊ねきたる者たちへの解答をうけたまわり、つたえるのだという。そう母から聞かされたとき、リウは不思議でならなかったものだ。そんな一目瞭然なことを、わからなくて当たり前と言わんばかりの言い方で教えられたこと、それが不思議でならなかった。あたかも、目の前にうち寄せる白波を、知覚できていないだろうと誤解され説明されていたように。
つまり、リウはそこでのやりとりを見聞できていた、ということで。神棚にはおおきな白蛇の神の鎮座まします。それを見、聞きを自然にできていたわけだった、リウは。それが特異なことであることを、当時のリウも、現在のリウも気づいておらず、母親も気づくことはなかった。
「こんなにチンタラしてたら・・・・。担ぐんだよ。早くしなッ」
女は舌打ちをし、二人の男にリウを担がせる。リウは抵抗することなく、持ち運ばれてゆく。抗っても無駄だと分かっていたから。無機質なものであるかのようにあつかわれていて、感情がなければどんなに楽だろうかと思う。
母からつたえられしことにより陰の気配が霽れ、眉間のひらき、明るい表情で帰ってゆくものを幾人も見送ったものだった。ときに涙を流し感謝して、床に額を擦りつけていったものもある。それであるのに、なぜに。それであるから、なのだろうかとぼんやり思わなくもない。母親の出自にも関わるのかもしれない。この村の出ではなく、いずこより流れきたるもので、村のものである父と結ばれた。異なるもの、能力だとか出生だとか、それで人というものは簡単に線引きをし、ときに拝し、ときに排ししがちなもの。また、喉元すぎれば、のみならず、感謝だとかよろこびが強い分、それを表したことでさらに、逆の思いもまた同時に湧いてくるものかもしれない。そんなことを、理路整然と明瞭にではないながら、リウは売られきてからの年月のなかで感じるようになっている。
連行されて、恐れ、怯え、混乱。それらは言わでものことあったが、それを覆いつくすものが、ひたひたとあふれでてくる。哀しかった。それは物あつかいされているとか、この場から引き離されるということに対してが主ではなく。未知の知らぬ野郎供の腕につかまれ運ばれている感触。その腕が、特定のひとりのものでないことが、ひたすらに哀しかった。
ようよう明日になれば会えるのかもしれないのに。・・・・・・
地に倒れた番人であるふたりは、後ろ手で縛られ、もがいている。すくなくも、被害がすくなくてよかったのかもしれない。吾ひとりで済んで。
きんッと胸に鋭い痛みが走る。去来するものがあって。思わず叫びだしそうになり、目をとじ、唇をしめ、ぐっと堪え呑みこむ。
雨脚がつよまる。内側からあふれ出たものが、噴出したものであるかのように。
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