第36話 雨のなかの襲撃者

 葉ずれのような音をたて、静かに地べたを濡らしゆく。アジサイやニゲラ、シャクヤク、アヤメやオダマキ。花々からしたたり落つる、花いろのつゆ。花の凝集されたものーー果実によって染まりし指さきも濡れ、はじいて飛ばそうとする。徒労だとはわかっていての、戯れのようなしぐさではあった。

 リウはおおぶりな油紙を被り、紙の表にあたる音を聞き、地にはじけるさまを見ながら歩んでいる。時おり紙をゆらして溜まる水をはらったり、ことさら意味もないことではあったが、どうしても濡れてしまう手をふるなどして。モリゾウに朝餉をはこんだ帰りのみちだった。

 昨日、ないの後に降りはじめた雨が、まだ降りやまずにいる。何時のころからなのか、なにがあってのことなのかリウは知らないし、聞こうとしたこともなかったことだけれど、モリゾウの左半身は自由が効かない状態にあった。思うよう動かせぬ苛立ちはせんないとして、普段であれば痛みはほとんど出ないらしい。時たま出てくるのは、気圧の影響もあってなのか、昨夕から臥せっていた。呻いたり愚痴ったりすることはなく、あたられることもない。すこしは楽になるかと、もみ療治しようかと申し出たが、断られた。撥ねつけるような調子ではなく、穏やかなものではあり不快感をあたえられはしなかったものの、それはそれで不機嫌を表すほどの気力もないのかと案じられもする。見たところ、気力の尽きて、という状況ではなさそうではあったのだが。

 傷だの痛みだのの元となることを問わずにきて、触れないほうがよいのではという配慮のつもりがなくはなかったものだが、むしろ訊ねるべきなのだろうか。油紙にはぜる雨音のなか、思いはじめている。原因となるものがわかれば、対処の方法がつかめるかもしれぬのだし。かと言って、単刀直入にというのはあまりにぶしつけではある。あッ、と閃く。ひとが聞いてないときを見計らってのことらしいが、たまに口ずさんでいるわらべ唄について訊き、そこから話をもっていってみたらどうだろうか。


 うちのうゥらの梅の木に

 雀が三羽とォまって

 なかの雀のゆうことにゃ

 ・・・・・・


 うろ覚えを小声で歌っていて、トリはいまどんな塩梅なのか。病弱な男わらべの容態に思いがおよぶ。昨日、平生よりはいくぶん体調が落ちついているとのことで会い、話しをした。特殊な形態によるやりとりで。それだけであっても負担であろうに、そこに地震があり、話していた相手が急に失神したのだ。気づかう余裕がなかったのだろうか、自分がでによくわからず呆れてしまうことに、これといって詫びだのいれずーーかるく謝りはしたもののーー、降りはじめたなか辞したのだった。様子を訊きにゆこうと思う。トリといえば、別れしなに言われたことが引っかかっている。

 ふと、またもや今さらながらに、気にとめないでいたことがあることに思いいたる。戸の外にニジがいたはずなのだったが、姿が見えなくなっていたことに。もっとも、待つように約束していたわけではなく、とらわれのない身、自由にゆききしてあるのだろうから罪悪感だとか申しわけなくおもったりはさまで持つことはなかったものの、そこに留まりはいってこなかったこと、そしてそこにいたニジの存在まで失念していたことは、決して褒められたことではなく、気が咎める部分があった。

 かわずが鳴きかわす声があちらこちらから。ところどころに水たまりができている。比較的おおきなたまりに、ミズスマシ。飛沫のあがるにぎやかな水の面にとまり、波紋の間をぬうようにすべりゆく。

 戸の外にはひとの往来がほとんどない。リウはタチアオイの葉にマイマイツブリをみつけ立ち止まり、なにとなく眺める。ゆっくりうごくマイマイに目をむけながら、トリから別れしなに言われたことをぼんやり思いうかべている。

ーーにいさん、気ぃつけてなぁ。ミタマが強かったりおおきかったりすると、引きつける力も強なる。にいさんはとくべつデカいし強いからよけい。ここにきて、本意かどうかべつとして、よかったんやないかなぁ。わりと安全やとおもうわ。そやけどなぁ、それでも今はお頭さんがいないしなぁ、なんやらまた、きてるかんじでなぁ。なんやろこれは・・・・・・

 男わらべは意識を集中し視ようとしていたようだったが、病中であり衝撃をうけ疲弊したこともあったようで、それを伝えるだけで精いっぱいであったようす。わかった、気をつけるからね。リウはその際はまだ朦朧としながらも、そう伝え返し、肯いてみせた。

 思いかえしてみても、よく意味がつかめないでいる。おおきいとか強いとか、そうなのだろうか。引きつける力、か。振りかえってみて、思いあたる節をリウ自身には見つけられずにいて、ただし、亡きものにされるところを救われ、ひろわれてここにいるというところには、当てはまるのかもしれぬと思う。危険はあるのかどうか、あるかもしれぬから気をつけておいた方がよいか。マイマイの触覚に雨粒があたり、縮むも、また伸びあがる。そろそろ切り上げようかとしたとき、バシャバシャと水を蹴たてる音を聞く。

 馳せ来るもの。男のわらべ。リョウヤだった。吾に用があるのか、または、用を足せることか分からないながら、リウは声をかける。油紙を被るでなく、濡れネズミになっていたこともあって。

「ああッ」

 驚いたような顔でリョウヤが立ちどまる。あたかも会うことを期待していなかった者にはしなくもぶち当たってしまったかの如く。期待していなかった、それはべつの見方をすれば、探していたということにもなりそうではあった。どうしたのか訊ねると、目を逸らしいささかのためらいがみえながら、

「きて」

 とつぶやくように言われる。理由がわからないが、髪も着物も濡れそぼりぺっとりはりつき脚が泥だらけのこんな状態で走り回っていたということはよほど切迫した事情があるのだろう。わけを訊く間も省いたほうがよさそうだと判断し、わかったと応える。リョウヤの面に、ほっとした色と、心なしか悔やむような唇をかむようなしぐさがあったものの、リウは気にとめない。急がないと、と煽られるような思いとともに、この子の母親になにかあったのだろうか。何かと騒ぎをおこしているようだから、何かあったのかもしれない。リウ自身、あの女人は苦手だったが、だからこそそういう気持を抑え、自分を咎めしたりしていて余裕に欠けていた。

 砦の出入口の戸の近くまできて、リウとリョウヤは歩を停めた。笠をかぶり蓑をまとった数人がいる。番人であるふたりは、地面に組みふせられている。全く見覚えのない輩。どういう類の者らであるのかわからぬものの、官吏の手であるとかカタギのものではないらしいことは見わけがつく。見た限り十人もいなさそうであり、数では圧倒できそうであり、わらべを遠くへやりたくもあり、リウはリョウヤに半鐘を鳴らし家屋の内にいるように言い、背をおす。役立てる働きはできないと自覚しているリウも離れようとしたとき、だッと三人がリウに向かって駆け出してくる。手には繩だとか雨のなかでもきらめく刃。

「早く、もっと早く逃げてッ」

 走り去るわらべの背に叫びかける。リウは三人を待ちかまえた。逃げきれないと観念した、というのもなくはなかったが、なかんずくリョウヤを逃がしたい思いがあって。すぐに人が集まるだろうから、それでなんとかなるだろうという算段もなくはなかった。さりながら、それまで自分の命が保てているかどうかまでは自信をもてずにいたのだったが。きっと大丈夫だ、と思いこもうとする。

 獲物を見据える冷えた目、目、目。へたり込みそうにすくみ、震える脚に必死に力をこめる。と、リウは片足をとられ下に叩きつけられる。繩が飛んできて、足を絡めとられる。

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