第33話 縛る糸
左手で口をおおい必死で堪えようとしながらも、むせぶ声をもらしてしまっている男わらべ。リウは何も問わずーー問うことなどできようはずもなく、右手はそのままトリの手をもったまま、左手を離してトリの頬にあてる。そばにいるタマ、ハナ、カゼ、ツキは騒ぎたてることなく静かに坐している。ただ、ハナ、カゼ、ツキはそれぞれがそれぞれのなりで忍び泣き。ことにツキは下くちびるを噛み、両手を握りしめて膝をつかみ、抑えつけようと努めながらも。
あの見せられた草深いなかのちいさな家のちいさな家族、そしてその出来事。あれは、トリの呱々の声をあげ、いつくしみ育まれ織りなされた世界であることは間違いなさそうだった。ひとり目の病弱な赤子がトリで、ふたり目の赤子が妹。嬰児ふたりの、ぱっちり開かれた、澄んだ四つの瞳。
男わらべの頬にふれた左のてのひらが、あたたかくなる。幼子の頬の熱、もあろうけれど、それはいずこからか現れ、湧ききたるものかのような感覚。なにとなく、自分の手にーー左手のみならず右手にも、複数のひとのぬくもり、思いが重なってきているように感ぜられる。トリの父であり、母でありするひとたちのものだろうか。
ふれている男わらべ、男わらべを慈しむ複数のひとらの思い、そばにいる女わらべたち。その幾重にも存ずる、あえかな、それでいて力強いつながりをもつ、目にはみえぬ流れがしるく知覚されたとき、リウ個人の狭い枠組みのなかでこみ上げてくるもの堰きとめられる。いや、そうではなく、堰堤が外れ、そういう個のものも一滴となり吞まれゆく。意識の足、というものがあるとすればそれをとられ、その流れにのみ込まれる。どッと前身にひろがり満ちわたるもの。満ちわたり、あふれ出してゆく。・・・・・・
わらべたちの泣き声は聞こえているし、男わらべの頬や手の感触はある。人事不省に陥ったわけでは、ゆめさらなく。ゆめさらないながら、自己の知覚がどこか遠くにあるような感じというのか、ごくごく一掬な部分であるように感ぜられる。
然り、おのが五感は一掬にすぎず。ふれているトリの感覚も、わが内なることとしてある。トリのみならず、ハナ、カゼ、ツキ、タマをも。そこにある人に留まらずに、柱が屋根が床が、床の下にある大地が、内なるものとして伸び広がってゆく。家屋へ草木へ、井戸へ。いのちあるもの、なきものへ。のみ込んでゆく、とか、そう化してゆく、というのではなく、思いだし目がひらきゆく気色。本来、わがことでないものなどあろうか。否、わがことこそが一滴。森羅万象を織りなし流れゆくもののひとしずく。
自我が消滅しそうになりつつも、何かにつかまれ妨げられでもしたかのように、いま一歩のところで流れゆき溶けこむことのかなわぬものがある。これは、一体なんであるのか。あたかも重い鎧戸を開けるがごとき勢いで、ゆっくり押し上げるように内なる瞼をひらきゆく。ひらきゆくなかで、躰をかたちづくられ、べつの見方をすれば躰という鋳型にはめられ。その上で、さらに躰のいたるところを縛りつけられている。
これは、いつぞや。いずこかで目にしたことがあるようにも思われる。いつ、どこで。ぬばたまの闇が垣間見えてくるなかで、縛りつけてあるものが糸であるらしいことが感じとられてくる。ケシの実を焚く香。地虫が鳴くような、なにかを誦する声が湧いている。半眼になったとき、躰に電流がはしる。縛りつける糸に乗ってきたるもの。取り除こうとするも、痺れがつよまり、瞼も自然落ちゆく。抗しようとしつつ抗しきれず、はじき飛ばされる。・・・・・・
揺りおこされたように、リウは覚え醒め、リウ自身の意識を取りもどす。男わらべの手と頬の感触。女わらべたちの堰をきった泣き声。タマは声を発しないながらも、頬を、手の甲を濡らしている。 それら取かりまく感触が雪崩れ、打ち寄せきたる。内に収まらぬものは砕け、飛沫となって飛び散る。あの景色は一体。ういた疑問はうすい霧のようにすぐに消えた。
焦点をもどすと、トリの震えはおさまり、息づかいが静まっていた。
ーーすんまへん、とり乱してもうた。見たとおり、妹ともども攫われて、いまの状態にされて。それはツキちゃん、カゼちゃん、ハナちゃんもだいたい一緒やろねぇ
ーーだれに?なんのために、そんなことを
問いにすると、沸々とこみ上げてくるものがある。
ーーダレ、て、カミさんかもなぁ
ーー神さまが。まさか。
ーーまさかもさかさまも、そう言われたんよなぁ。カミさんのため、誉れなんやてぇ
誉れて、とリウは絶句する。それが神であるのかどうか、神であるとすればどのような性格のものであるのか。油を水だと言われているかのごとく不可解で、ひとかけらものみ込むことのあたわずにいる。すくなくも、そう伝えたのは人間の仕業であることは間違いない。
ーーそやでぇ。にいさんは、天長さんとか祭司長さん知ってはるやろ
知ってると言えるのか心もとなく、リウは聞いたはなしを思いおこす。この国を統べるのは、神の末裔である天長と天礼という存在。天長は物理的な働きかけーー詔をくだす等をなし、天礼は天祖であるおや神と融通無碍に対話し、ときに宥めときに判断を仰ぎする。かつて、もしくは本来は、ふたつ供にあって国の上を成していたものなのだそうな。さりながら、何代か前から今生にいたるまで天礼はその職務に反しーー反したのか、病というはなしもまことしやかに語られてもあるがーー、代行として卓越した異能の一族の頭が祭司長を務めてあるのだとか。
それにしても、何ゆえおよそ生涯関わることのなさそうな雲上人のはなしをしはじめるのだろうか。
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