第32話 みどりの家
リウは息をのんでトリを見つめる。口を結び、硬直したように身体の動きをとめた男わらべ。もしかすると、いま口にしたことが誤っていた、ということはあるにしても、それと関わりがあってかなくてか、気分、もしくは体調が急激に芳しくない状態に傾いたという可能性もある。ハナ、カゼ、ツキ、タマらも口を閉ざしもの音をたてない。注視しているのだろうか。
仮にここに蝶々が舞いこんできたたとしたら、その羽音さえ聞こえてきそうなほどの静寂。ふっとかそけき風の音。息をはき、沈黙を破ったのはトリだった。
「はぁァ、これはとんでもないなぁ。だれにむけるわけやなく、てか聞かれんようしといたはずやねんけどなぁ。胸んなかで歌てただけやねんけどなぁ」
笑い笑いしながら言う。ハナ、カゼ、ツキも、手を取りあったりして笑いはじめる。タマは笑みながらも、トリから目を離さない。と、男わらべは咳こみはじめる。タマがすぐにその背に手をかけ、撫でさすり、横たわらせる。横むきになり、手で口を覆っていたトリは、咳がおさまるとそろそろと仰向けの姿勢になる。そのまま息を整え、
「すんまへん。ひさびさにはしゃいでもうてな・・・・」
かすれた声ではなすと、また咳こむ。
「無理に話そうとしなくても」
リウが見かねて言うと、トリは口を手で隠しながら体ごと左右にふる。首をふるつもりが、前身もついていってしまっていた様子。薄い肩、細いゆびさき。ゼイゼイ息をもらしながら、
「だれか水くれへん?」
言うやいなや、タマが跳ねるように立ち、椀にくんでもってくる。そして、平気なんと聞きながら男わらべの背に手をあてて上半身をゆっくり起こすと、椀をもたせる。水をすするトリ。呆然とし、ただ手をこまねいているだけな自分のありさまにリウは思いあたり、居たたまれない思いになる。と、トリの顔がこちらを向き、
「気にせんといてなぁ。あてがしゃべりたくて、しゃべってるだけやしぃ」
胸のうちを読まれ、かつ気づかわれているらしいことを知り、より羞恥が募るものの、なにか話したいことのあることが伝わってくるため堪える。
「しゃべるのしんどいし、手ぇでもさわってくれへん?」
おおきに、とタマに礼を言い茶碗をかえしたトリは、息を切らしつつリウにむかってはなす。どういうことなのか分からなかったが、横になったトリににじり寄り、あがった右手を両手で包みこむ。肉のあまりついていない、細く小さな手。すこしでも強く握りしめたら弾けてしまいそうな、精巧で華奢な硝子細工のような手。それに触れた途端、声が聞こえる。
ーーさわらんでもいける思うけど、さわってもろた方が受けとりやすいやろな、思うてなぁ。
つっかえも途切れもせず、よどみなくけざやかに聞こえることに驚き、男わらべをみると、その口は閉じられている。ただし、その両頬はおもしろそうに盛り上がっている。そのとき、リウは覚った。男わらべは口をつかったのではなく、胸の内から胸の内へと語りかけてきているのだと。
ーーそやねん。このほうが楽ていうんもあるしぃ、べつに隠すこともないねんけど、みんなの前であんまり・・・・な
おおっぴらに話したくないこともある、という口吻。かといって、他の者らに席を外してくれとまでは言い難いしそこまで改めてということでもなく、といって自分らがどこかへ移動して、ということはさらにむつかしい。そう意を酌み、両手でトリの手を包みながらちいさく肯いてみせると、微かにうなづき返される。
ーーそやねぇ。なにから話してらええんか。聞きたいことあったら、あてが知ってることなら答えるしな。・・・・ま、あれやな、さっきリウにいさんから言われたことから話してくかな
言われたこと、とリウは小首をかしげ、思いめぐらし、思いあたったとき、
ーーそれや。妹いるか、いうてたやんなぁ。びっくりしたけどぉ、やっぱりなぁという気したわぁ。・・・・妹はいたなぁ、あてなんかより、よっぽど優秀やったわ。
語りとともに、眼前にみどりの色が流れこみ、渦をまきながら広がりゆく。みどり、ひと色といっても、そのありようからしてとりどりで豊穣。木、草、葉、花べん、植物はもとより。虫、は虫類、両棲類の分かりやすくいろに出でたるものにとどまらず、空に土に風に水に日にけものに、もとより人に。火・風・地・水。その気を成すひとつの素となるものの、多様で複雑なるひと色。その凝縮されたひとしずくに、草深いちいさなムラがあり、ちいさな家があり、ちいさな家族があった。
わか葉のような夫婦が生活をいとなんでいた。柔和な目をした夫と、意思のつよそうな引きしまった唇をもった妻。若いふたりから、ものごとに対する誠実さ、大地に足をつけた堅実さ、厳しいなかでもよろこびを見いだしてゆくはなやぎが見てとれる。どこからか抜け出し、その地に根をおろそうとしていたため決して裕福とはいえず、それはひととの関わりもであるようだが、そんななかでも白菊を愛で、ほほ笑みあうような、そんなささやかな。さりとて、あふれるような。
わか葉から萌えいずる、生命。夫婦にとって生涯最も大切なものが、ふたつ誕生した。ふたり目のさい、産後の肥立ちがわるかったものの、その歓びには代えがたく、また、唇の締まり方からもわかるとおり強い意思で持ちなおした。ひとり目の子が脆弱で、すぐに熱をだしたりむずかることが多く、自分よりもそちらにつよく意識がむきより強くあらねばと奮起した、という部分もあったせいかもしれぬ。そんななかでも、健やかに育み育まれてゆく。
あたたかく、やわらかく、ゆっくりと編みあげられてゆく時間。それが不意に、ひき裂かれることになる。現れた、刃物を振り下ろす黒い影。三、四人か。これらは何者なのだろうか。夫婦は、侵入者どもを見知っているらしい。どうやら、以前その輩とともにいたことがあり、そこから抜け出してきたもののようだ。
侵入者どもは赤子ふたりをわたすよう言いわたす。当然夫婦は断る。妻は立ちふさがり、夫に赤子ふたりを連れ逃げのびさせようとするも斬りふせられる。そして赤子ふたりを抱えた夫もまた。・・・・・・
リウは繰りひろげられる景色を肉眼とはべつの目で眺めていて。これは、と疑問半ば、なにとなく見当がついている。そんななか、現に意識を引きもどされる。両手に包みこんだトリの右手が小刻みに震えていた。震えていたのは右手のみならず前身で、鼻から水状の液体が出て、左手で口を覆うも嗚咽が漏れていた。そこには、母親似の、普段は意思の強さをかんじせるかたく引きしまった唇がある。
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