第28話 ヤマイヌ、天狗

 イチイの木の根方に、黒いものが置かれてある。転げるように急いて走り、を続けようとしていて、よそ見をしている暇などないのだがと思いながらも、どうしても目を惹きつけられてならない。干された物がとばされ、そこに留まっただけのことかもしれないのだが。

 目線、意識、のみならず体ごと巨きな手でつかまれたようにうごきが停止させられる。根方にあるものは、まるまった衣類、であるのかもしれないが、すくなくとも布ではない。毛皮。黒く黒曜石のような光沢感のある、やわらかで、あたたかみのある。腕に、頬に、首すじに、脛に、馴染みのある感触がすべらせたようにひらめく。

 ドンと腹を突かれたように、胸のあたりがつよくゆれる。いずれであるのか、とおおきく波うつ。生あるものか、なきものか。なめされた皮だけになった物ではないことが認められ。動きがあった。風にふかれ、ではない能動的なうごき。しなやかで、まるみのある。そう見てとるやいなや、リウは駆け寄っていた。

 間違いなくニジだった。何事もなかったようにゆっくり背のあたりを毛づくろいしている。リウはしゃがみ込み、そっと触れつつ見て探ったが、どこにも怪我などしていない様子。ちいさいザラザラした舌で指を舐められる。どういうことなのか理解がおよばないものの、安堵でくたくたと地べたにへたり込む。

「ごめんね、だっこさせてね」

 ニジの抱っこされることの好まないことはわかっていながらも、衝動的にそうせずにはいられず、謝り断りをいれて腕をのばし、もち上げ胸に抱き寄せる。ふわりととろけるような重み、ぬくもり。・・・・・・

「あんたら、どこ行ってたんよッ」

 タマの鋭い声がとぶ。

「どこて、ちょっくら一服してだけやないか、なぁ」

「なんや、どないしたっちゅうねん。えらい剣幕で」

 中高年の野郎がふたり暢気にあるいてくる。ふたりとも頭髪のうすくなりはじめ下腹の出た似たような容姿で、だらしなく前をはだけ、胸だの臀部だの搔きながらくる仕種も似ている。片方が乱杙歯をみせつけるようにあくびをしながら、棒を立てかけてある戸の向かって右手のわきに立ち、片方は手鼻をかんではなみずをとばすと棍棒を立てかけてある戸の左手のわきにきた。棒は男の丈の二倍近いながさがあり、先には牛のツノをおもわせる半円の金具が取りつけてある。棍棒はそこまでは丈はないが、男の腰くらいまでの長さで、紡錘形に尖った金属が無数埋め込まれてある。ふたりは門番ならぬ、戸番なのだった。戸の開け閉てを担当し、招かれざるひとやものを浸入させぬ役目であったようだが。

「ヤマイヌがぎょうさん出たんよッ」

「どこにもいいひんやんけぇ」

「ヤマイモの間違いちゃうかぁ」

「そらええな、あて最近あっちの方弱なってきたからなぁ」

 ふたりの男はゲタゲタ腹をゆらして笑い声をあげる。

「あんなぁ。笑いごとちゃうで。おっちゃんらでもやられたんちゃう」

「なんや、ほんまなんかい」

「そういうときは、鐘鳴らさんかい」

 戸の両わき、また、内側から上がれるようになっている櫓の役わりをする場所、それぞれに半鐘と鐘つきが吊されてあった。タマは焦っていてそこまで気が回らなかったのか、使うことがなければ教えられなければ目にはいっても意識にとまらぬものであるから、知らなかったのかもしれない。いずれにせよ、囲まれたらしいニジだけが危険であったわけではなく、目撃したタマの身も危険であったということになる。タマが鐘の存在を承知していたとしても、そこまではたして無事に行きつけたものだろうか。

 ニジを抱きしめ、うれしさに頬と鼻の横とを濡らし、唇に達し、塩味を舌にのせていたリウは、静かにニジをはなして下ろし、指やてのひらで拭い、鼻のしたを押さえてすすると、ゆらりと起ちあがる。あたりにいくつか散らばってあった獣の毛を拾いもって。背をむけていた格好になっていたリウは、ふたりの野郎らに正面をむけ、歩みよる。

「野犬の群がいたことは確かのようですよ」

 と、手をひらいて毛をみせ、地面を指して、毛の他に搔いた痕跡やうっすら残る足跡に注意をうながす。

「さいわい、何事もなく退散してくれたみたいですけど。何事かあってからでは遅いですよね。鐘を鳴らせて、そういう状況でないときはどうするんですか。ここを離れるのであれば閉じていった方がよいのでは」

 リウはちょっと驚いた。鼻で笑われたり、怒鳴りつけられでもして遮られるにちがいないと思い、それであっても言いきろうと肝を据えてあたった。ニジのみならず、タマ、このひとらをふくめここにいる住人にあまたの死傷者が出ていた可能性が高いのだから。さりながら、案に相違し、神妙に、とまではゆかぬにしろ、大人しく耳を傾ける姿をみせられ。気迫におされた、わけでもないだろう。大方、ゲンタとかわらぬのではなかろうか。虎の威を借りるキツネ。その俚諺を使うのはこの場合ふさわしくないのかもしれなかったが、それというのも本人に威を借りようというつもりはゆめさらなかったからで、とはいえ謂だけみればそんなところだろうとリウは結論づける。ゲンタと同じく、自分の後ろに、シュガやモリゾウの影をみての態度にすぎないだろう、と。

「いやぁ、ここ最近、イノシシだの野犬だのとんと見ぃひんでなぁ」

「アヤカシの類もおとなしゅうしてるみたいやし」

 おもねるようにうすら笑いを浮かべ、弁解をならべてみせられる。リウは後から知ったことだが、本来昼間に番人がいない場合は閉じておくことにはなっていたらしく、油断があったものらしい。男らは慌てて言をつなぎ、

「これからは気ぃつけな、なぁ」

 なー、と腹の出たふたりは脂ぎった顔を見あわせ唱和し、請けあった。

 ぷふッ。野郎らから離れ、馬酔木のそばにきたとき、タマが吹きだす。リウと、ついてくるニジとともに三人で、誰知らず、どこへ向かうと言うでもなく歩いていたなかで。

「えらい言うようなったやんなぁ。・・・・ええやん。おっちゃんらには、ええヤイトになったやろ。目、白黒させてなぁ」

 タマは、野郎らのなーと言いかわす声色や表情を真似てみせ、手をたたきころころ笑い声をあげると、

「そやし、ほんまけったいなはなしやなぁ。ぎょうさんヤマイヌいたんやで」

 ほんとうに、何があったのかなかったのか、と同感し肯いていると、

「おっちゃんら言うてたやんか。あれ、まるっきりのホラでもないらしいでぇ」

「野犬だのイノシシが出なくなったてこと?」

「そうやぁ。イノシシとか熊はなかに来ることはあんまないみたいやけどな、ちょくちょくヤマイヌは来てたらしい」

「きょう、来てたけどな。アヤカシがどうだかとも言っていたけども」

「アヤカシなんかどうか、たまに神かくしがあるらしいで」

 神かくしか。そういえば天狗にさらわれたわらべのはなしを聞いたことがある。リウは母親が寝床でしてくれたもの語り思いおこす。天狗という存在はあるものなのだろうか。あるとすれば、それはアヤカシとかモノノケ、ということになるのだろうか。あるともないともリウは断定できなかったが、それは慎重だとか理性を働かせてというのではなく、あり得るだろうと思う、まで至らず、感じるからだった。その存在をかんじる、というものでもなく、知覚できる物質だけが実在するのだとはとても信じられなかったからで。

 実在するもの、それを見えるものと言い換えたとき、見えないものもあって初めて成り立つもの、いや、それでは見えないものが優位のように捉えられてしまうがリウはそう感じているわけではなく、見えるものと見えないものがべつとしてあるのではなく、組みあわさり重なりあい、編みあわされ、結われして、織りなされてあるものの一部が、この世という実在するというものになるのではなかろうか。そんなふうに、草木のかおりをふくむ風につつまれながら、ぼんやりとかんじている。

 あれはアヤカシなのかなんなのか。砦のなかを歩いているときにだったが、ときおりわらべ唄がどこかともなく聞こえてくることがあって、ふと思いがうかぶ。か細く、かそけきものではあったが、あきらかに稚い声とわかる。


 ひろお、ひろお、豆ひろお

 鬼のこぬ間に豆ひろお

 やしき田んぼに光るもの

 なんじゃなんじゃろ

 虫か、ホタルか、ホタルの虫か

 虫でないのじゃ・・・・・・


「うちらが来たからやないかなぁ。ヤマイヌだのなんだのあんま出なくなったのって」

 タマが言う。どういうことなのか問うと、

「うちら神さんやんか。・・・・・・てのは冗談としてな、モノとかコトって、こころがつくり出すもんやから。自分のこころが、な。なんかそんな話し聞いたことがあってな」

 その説明でもよくのみ込めなかった。タマやニジは別として、平穏な状態を導き出し形成できるような、そういう清んで高い境地に自分があるとは思えなんだから。そう思うということは同時に、そのような仕組みというのだろうか、関係性というものはあり得ると感じているからでもあった。

 この世にあるものは、なべてこころの映し出し。個々の内なるものが、外なるものの生じ滅しする循環を織りなしている。それはリウも覚えがあるような気がされるのだ。いずこで、何ものかから教えられたものなのか。触れ、感じとっているものなのか。自然な摂理として、どこかで分かっていることなのか、明瞭につかむことのかなわぬことわりではあったが。

「あ、そういえば、会いたがってたで」

 むしり取った葉に口をあてて鳴らしていたタマは、葉を放りなげて言う。葉はくるくる回りながら落ちてゆく。

「会いたいて。あの三人の子ら?」

「ハナちゃん、カゼちゃん、ツキちゃんな。も、そうなんやけど、トリちゃんがな。まだ会ったことないやろ」

 

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