第27話 情と理
「どないしたんッ」
満開のツツジの藪のそばで倒れていて、抱きおこすと激しく揺れ、腕をふりしていたイチを、そのままにしておくと頭を打つなどするおそれがあるため肩から背を支え押さえていたリウは、落ちついた様子となりもう大丈夫だと言われたため、そっと手をはなし、体をはなす。白とあか紫の花弁がいくつも地ににじんでいる。
白髪の老女に目をとめつつ、その場からはなれかけたとき、声をかけられる。タマだった。う、うんと返事をしながら、イチの目や耳にはいらぬところまでいったら話そうと思っていたとき、ふとタマの声の調子に引ッかかりをおぼえ、見やる。息をはずませ一時も休んでいられないというふうに手をふり足踏みし、血の気のうせた顔をこわばらせている。どないしたん、はこちらのかける台詞でもあると思い、訊くと、
「それがな、ニジが、野犬の群れに」
瞬時におおよその状況をつかむことができる。伝染したように焦り、震えがおこる。
「どこ?」
「それより、男衆どこにいるか、やろ。見つからへんねん、急いでるねん」
「いいから、ニジのとこ教えて」
牙をむいた犬が仮に一匹であったとしても厄介で、よほど訓練を積んだ者であったとしても退散なりさせるには数人必要だろう、ましてや多頭なのだ。ネズミ一匹にも苦心しそうなリウひとりが行ったところで何の助けにもならぬだろうことは火を見るより明らかで自覚もあったが、さりながら男衆をかり集めている猶予のないことが予測の最優先にくる。こうしている時点ですでに遅し、といった事態になっているのかもしれぬ。そういった不安を蹴散らすように、同時に背を焼かれるような思いもあって、迷うタマを急き立てる。焦りで正常な判断の欠けた部分があってか、もう手遅れかもしれないとの観念した部分もあってか、タマは肯首し、こっちと指をさしたほうへと駆けはじめた。
どうか、どうか無事でいて。祈りながら、つよく地面を蹴りつけ蹴りつけ馳せてゆく。リウはいまだかつて、ここまで力強く思いっきり走ったことはなかった。ビョウビョウと風が鼓膜を圧する。猫の断末魔が聞こえてくることを恐れる。
ちいさい、ちいさい、片てのひらに納まるほどの黒い毛玉だった。か細く高い鳴き声。はじめ、ニジが現れたとき、リウはかわいらしいと思うだけの余裕はなく、ただただひたすらに心配でしかなった。生きのびるのだろうか。自分は生きのびさせることがはたしてかなうのだろうか。世話することを許可してもらえるかどうか不安であったし。
案に相違してあっさり世話をゆるされ、黒い毛玉はみるみる間に壮健にしなやかに成長してゆく。許可されたとはいえ同輩から好意的な目を向けられることは皆無で、眉をひそめられ貶されることもあり、また仔猫を育てた経験がなく何をどうしたらよいか手探りで教えてくれる者のないなか、必死で可憐ないのちを包みこんでいた。睡眠を削られ、煮えたぎる鍋のなかにガクッと頭をおとしそうになったり朦朧とした月日もあったが、あるとき気がつく。養い、はぐくんでいるつもりで、養われ、はぐくまれていったものがあったことに。
育ちゆくさまを見守りながら、自身のうちに、蘇りはぐくまれゆくものをかんじられた。必要とされる歓び、慈しむこころもち、愛おしいという情動。都にくることになってから、いや、両親を失い、引きとり手のなく売られることとなって以来、枯れはて、死にたえていたものだった。忘れていた笑い方を、思いださせてくれもした。
どうか、どうか間に合って。胸のうちで叫び訴えながら駆けてゆく。吹きつけてくる風だとか耳を聾せんばかりの激しい鼓動のためか、それらしい犬のうなり声だとか土を搔く気配を微塵もかんじとれない。もしくは、まだずっと先でのことなのだろうか。それとも、すでにことは済んだのか。いいや、それは絶対にない。あってはならぬことだ、断じて。
「キュウン」
哀れっぽい鳴き声がしたような気がされ、突きとばされたようにびくっと芯が揺れ、刹那気が遠くなりよろめきそうになりながらからくも脚に力をこめ運動を継続する。すくなくも猫の鳴き声ではないと判じる。何かの軋んだものなのか。
「あそこ、木のそば。えッ」
タマが打たれたように急に立ちどまる。つられてリウも立ちどまる。目線を飛ばしているのは、砦の出入り口のそばにあるイチイの木の附近。野犬は見あたらない。黒猫も。
空間がひねられ、歪められたような感覚。締め上げるられているようなこころもち。タマの勘違いだろう、と思おうとする。もしくは場所をかえた、とか。場所をかえたとすれば、それはひとつの事実を告げていることになるのではなかろうか。いや、そんなことは絶対にあり得ない。あってはならぬことなのだ。
さよう。場所となりしはずっと先、重装な木戸のむこうにあるにちがいない。それであればタマの見る方角と合わないのではないだろうか。それについては何とか解釈をひろげつじつまがあわせられるとして。そうであればなぜ、タマが立ちどまったのか。息をのみ、血の気のひいた気色になってゆき。それは、立ちどまりたくなったか、立ちどまってしまっただけ、だろう、そして表情も、偶々・・・・・・。道理のとおらぬ捉え方であると、リウ自身承知してはいた。承知してはいたものの、理ではとうてい捉えられなかったのだ。ニジは、深く深くうちに、情に結びつけられた存在であったゆえ。
どうしてタマは動こうとしないのか。リウは女わらべをせっつく間も惜しみ、ーーそれはまた無駄であり無体だとどこかで分かっていたからでもあるがーー木戸のほうへと声もかけずにひとり駆けだす。なんとか、なんとか間に合って、と声に出さずに叫びながら。
と、視界にかすめたものがある。リウは意識をつかまれる。何気なく見たほうにはイチイの木があり、根方に黒いかたまりがあった。衣類でも飛んできて、わだかまっていたものか。目を、脚を、とめられる。
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