第26話 黒トカゲ

「グエッ」

 ツツジの陰から、かすかに人声がしたかとおもうと、牛ガエルの鳴き声のごときものとともに、なにか大きな物体が倒れ、地をひと打ちしたようなもの音。土ぼこりの立つ気配。ことさら興味をひかれたわけでもなかったものの、すすむなかでツツジの茂みの裏手がみえる位置へときて、それを目睹し、ぎょっとして立ちすくむ。

 地面に這いつくばる、異様に肥大化した牛ガエル。先ほど聞いた声や朽葉いろの衣から刹那にそう見えたのだが、かわずでないことはすぐに諒解できる。うつぶせに倒れていたのは、白髪をおどろに乱し、糞掃衣を身にまとった老婆だった。けつまずきでもしたのだろうか。

 たしか、イチと呼ばれていたはずだと思いおこし、助け起こそうと馳せよろうとして、イチのそばに何かが立っていることに気がつく。黒いトカゲ。その爬虫類をおもわせる女人が、日を背後に影になった面を酷薄そうな笑みにゆがめている。うで組みをしていて、ひと皮目は酷薄にぬめり、楽しんでいるように舌さきを出し、うすい唇をなめている。

 ミワアキだった。その存在を認め、瞬時つっかえたように動きがとどこおるも、リウはかがみ込み、イチの肩にふれ声をかけながら抱きおこす。ミワアキの仕業だろうか、という思いが脳裏をよぎる。

「大丈夫なんですか」

「ひゃあびっくりした。いきなり倒れこむんだから。ばあちゃん、気をつけて歩かないとダメだぁよぉ」

 トカゲ女は今気がついたといった体を装い、地声より高い声をだして、おおげさに驚いたそぶりをすると、リウのとなりに腰をおとし、

「いつも飛びまわりほっつき歩いて丈夫そうだけんど、やっぱりモウロクしてるずらぁ。なにもないとこでこけたりして」

 同じく手助けしようとしてか、ぬめっているような手を伸ばすと、イチは首を激しく左右にふり、触れられまいとするかのように仰け反る。その勢いにリウは振りはがされそうになりながら、なんとか堪えつつ、ミワアキに言う。

「ここはひとりでなんとか、なりそうなんで・・・・・・」

 一刻も早く立ち去ってほしい、というのが本音だったがそうも言えず、微苦笑するほかなく。察したのか、ただ単に面倒になっただけか、ミワアキがよっこらしょとかけ声をだして立ち上がると、

「ほんじゃあ、ここは若いもんにお願いするだかね。ばあさん、あまり他人に迷惑かけたらダメだぁよ」

 そう言いのこし往こうとし、リウはほっと安堵しかけたそのとき、

「バチあたりなコソ泥アマ、ワシのもん返せッ」

 老婆が喚く。ワシのじゃ、ワシのじゃ、と繰りかえしながら、取りかえそうと両腕を前に突きだし突きだし、している。往きかけていたミワアキはぴくりと立ちどまり、ぬらりと首をむける。眉間に皺がはいり、眉尻や口のはしが引きつり、

「コソ泥って言うにことかいて。拾っておいてやっただけずらァ」

 なんだこんなモン、と投げつけてきたものがあった。リウが身構える間もなくとんできたのは、笹竹。朽葉いろの膝のあたりに落ちたのを、イチはひったくるように掴みとり、大きくふり回す。震えているだけなのか、祓おうとしてなのか。

「ば、バチが、神罰がくだるぞよ」

「へん。当たるて。モウロクして太鼓と人の区別もつかなくなったみたいだなや」

 ミワアキはせせら笑い、そう言い捨てると尻をむけた。無法なふるまいではあったが、あれでもまだ自分がいるため押さえている方なのだろうとリウは推し量る。

 それにしても、いずこもかわらず・・・・・・。そう感想をもちながら嘆息している余裕はなく。

「アヤカシに憑かれたスケめッ。世も末じゃ、末法じゃ、タタりじゃ。タタりがくるわァ」

 のど奥が擦りきれ血が出るように絶叫しつづけ、笹竹を激しく打ちふるいつづける。リウはその振動にゆられバサバサ葉に叩かれしつつ、それでも振り幅を抑えるべくなんとかもち耐えている。どうしたものか、と白とあか紫のツツジの花の群生に目をおいている。かといって困りはてているわけでなく、そのうち落ちつくだろうと想定してはいたものの、イチの肉の落ち老いた躰は存外力強く、落ちつくまで自分がもつだろうかとも思う。


・・・・・・

 くれえ玉ひいがらおぢる

 しれえ玉すいがらあがる

 ニジがくわえて運ぶだじぇ

 ・・・・・・

 かっちゃのリルのふところに


 覚えずリウは母から教えられたわらべ歌を、小声で唱っていた。相手を宥めようとしていながら、自身のむずかりあやされていた時分の感覚がよみがえってきていたものらしい。母のやさしい、すこし掠れた声。あたたかなぬくもり。背にあてがわれた手で、ゆっくりと拍子をつけてやわらかくやわらかくはたかれる。

 さりとて思い出にふけり浸りきっているわけでなく、咲きみだれる花々を目にし、老女の声やうごきに意識をとめてはいて、イチの発した口上をぼんやりと考えたりもしている。ミワアキがアヤカシに憑かれてあると言ったこと、あながち的はずれでもないのかもしれない。アヤカシ、もしくはアヤカシがごときものに憑かれるーーとらわれるということはだれしも、何かしらあることではないだろうか。程度の差こそあれ。それはイチもだし、我自身むろん例外ではなく。

 花弁に蜂がとまり、飛びかう。その羽音が聞こえはじめてくる。老女は徐々に、落ちつきを取りもどしはじめ、竹笹をおろした。

「・・・・・・母なる神、リルさま」

 イチが、遠くを見るような目をし、ひとりごつと、目を閉じる。土ぼこりのついた、ひび割れのような皺だらけの顔に、変化がおきる。泣きそうにも見えたが、どうやらほほ笑みをうかべているようだ。片手をもち上げ、支えていたリウの手をやわらかく叩く。もう大丈夫だ、というように。

「ほんとうに、大丈夫ですか」

 そう問うと、イチは目を閉じたままちいさくゆっくり肯首し、

「そなたは、そなたの成すべきことを成しなさい」

 つぶやくように口にしたその口吻には、静かで理知のあかるみがあって、リウははッとまなこを見ひらく。

「そなたなら、やり遂げられるにちがいない」

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