第25話 くもりなきまなこ

 ハタハタなびく布の群を後にし、あてがわれた家屋にもどり、たらいを置く。天気がよいので、壁にたてかけ、日と風があたるようにして。

 リウはふと空を見あげる。うす青い地に、あわ雪のごとき雲。そこにあざやかな彩りが刷いてある。うっすりひろがるうすべに、黄、みどり。胸のうちにも映じたように気持が鮮明に明るむ。みせたい、と思うなり早足であるきはじめている。駆けたりは、あえてせず。つよく地面を蹴りあげると、崩れ掻き消えてしまう、そんな気がされて。そうでなくとも、長くありつづけるものではないことを知っていた。

 みせたい。だれにと考える間もなく、シュガやタマやニジに、と思っていた。どこにいるのだろうか、とその者らが脳裏にのぼったとき、小耳にはさんでいたはなしを思いだす。いまが朔の日にあたり、この砦のなかにシュガはいないらしい、ということを。町におりている、のではないらしい。山の奥にある窟に籠もっているのだそうな。朔の日には必ず、その前後する一日をふくめ籠もるのだとか。物干し場で現れ、すぐに消えた話題のひとつに、なんのためなのかリウは気にならなくもなかったものの、問うことはしなかった。滔々としたはなしの流れに水をさすことになりそうでためらわれた、という部分がなくもなかった。さりながら、なにより、シュガに関心があるように見られることを避けたい意識が働いていたようだ。そういう自身のうちの働きに気づかず、気づこうとはしていなかったけれども。幾分、歩の早さがゆるんでいる。

 ふり仰ぐと、彩りがにじみ薄れかけている。附近にタマやニジの姿はみえず、見つける時分には消えていることだろう。表に幾人ひとがいたが、だれも空をみているものはなかった。

 ここは町とまではさすがにゆかぬが、小規模なムラといった様相は呈している。山にはいり狩猟する者、葉や実やきのこを採集する者、毛皮をなめし衣類だとか用具に加工する者、土を耕し穀物を栽培する者、機織りをする者、等々。

 そこで成された物がそこで利用されるのは言うまでないことだったが、流通もされているらしい。直に町に運び売買するのではなく、請け負う者がいた。金子だの物品だのを持ち込み、ムラの生産品と換えて運ぶため、定期的に訪れていた。リウは荷馬車できていた者をみたことがあり、あれはなにをする人なのかそばにいた者に聞いたとき、そう教えられたものがいたのだった。常人(平民)らしいが、官吏の下ではたらく者ではないか、とも言っていた。なるほど、確かにそう言われてみれば、荷台も馬も農夫が使うような物より小ぶりではあったが、洒脱なふうがあった。洒脱、見方をかえれば、実用的ではないと言えようか。賊の手の者でなければ、官吏が一枚噛んでいるだろうことは容易に予想できることではあったが、仮にそれが事実だとすれば、そう官位の高いものではないとしても、畢竟、賊がお上とつながりがあるということになる。リウはそこまで思い巡らすことなく、うなづいて聞いていただけだったが、違和感はあった。金品を、命を奪う対象と、卸しする者が介在するとはいえ売り買いを成立させていること。のみならず、ここもまた、俗世と隔絶されていないのか、という違和感、否、それよりも不満にちかいものを覚えていたものだった。これはしるく自覚しえないことではあり、感想とまでゆかぬ、うすぼんやりとした印象といったものでしかなかったものの。

 売買のため、とは発想しなかったが、また染め糸をはじめてみてもよいかもしれないと、触発されたように思うようになっている。そう思ってから気をつけて見てまわるようになっていたのだったが、ジュデの木が見あたらない。ムラのなかにも、洗濯しに小川にゆく道すがらにもない。おハツなどに聞いてみたりしたが、ジュデという木は知らないという。希少な木なのだろうか、身近にあったため親しみのある、言い方をかえればありふれた木であるように思いなしていたものだったが。

 思いかえしてみるに、確かに、故郷にいるときに家の裏手に立っていたものと、奉公していた屋敷にあったものの他に目にしたことがなかった気がされる。さらに、呼称が異なるという可能性もあった。両親はジュデと呼んでいたが、通称とは異なるものであったのかもしれない。もしくは土地のこと葉であったのか。

 そういえば、屋敷でリウが染めるようになったとき、ジュデのことを聞きなれない呼び方で言っているのを幾度か耳にしたことはあった。おなじ奴婢であっても質問のし難い間柄の者しかなく、そこを押してあえて問おうとも思えずに聞き流していたものだった。

 屋敷から出るとき、ジュデの実を二粒か三粒ほどでも忍ばせてくればよかった。やくたいもない、そして迂遠なことを思いつつ、再び仰ぐと、色彩の諧調は空の青と雲の白にとけ消えていた。

 あーあ、とつぶやく。多少残念ではあったが、シュガはともかくニジだとかタマは気づき、眺めていたものかもしれないのだし。また、二度と現れぬというものでもない。これからも。今までも、幾度となくあらわれ出ていたのだろう。そう思いいたったとき、心づく。自分が都にくることになってから、いや、両親を野辺おくりすることになったさいから、日の出ているうちに空を見あげることがなくなっていたことに。少なくとも奉公することになってからは昼間はこと忙しく、息をつくひまとてなく諸雑事に追われ・・・・いや、もとよりそれはたといにすぎず、息をつかねば今ここにいないし、合間合間に見あげるだけの時はあったはずだった。けだし、時間の余裕だとか立場による慣習がなくもないながら、なにより精神的ゆとりに欠けていたせいではなかろうか。

 ゆとり、それはまた気概とも言い得そうだ。それを取りもどせたのは、取りもどしてくれたのは・・・・・・。はっと打たれたように思いあたり、火を灯されたように胸が熱くなり、熱は目頭へと達する。うすい青と、淡い白とがともにゆらぎ、リウの足もとだけにぽたぽた雨滴が地面に染みをつくる。

 会いたい。その思いがつよく湧く。会ってどうするのか。礼をいいたいのか。はたして会って礼をいえるのか。自分がでによう判らなかったが、相見られることを切に望む。こちらに来てから顔をあわせることなくいて、そのまま朔の前日にはいってしまっている。今日は朔の日で、明後日にはもどってくるはずだった。

 会ったからといって、何ができるわけでなく、シュガにとっては迷惑までゆかずとも無意味でしかなく、ひたすら身勝手な行為でしかないのかもしれないけれど。さりとても、会いたい。そばにいたい。須臾な間だけでも、かまわぬゆえ。

 ハラハラと雨滴が散る。幸い、附近にひとはなく、離れたところに歩いている者がいたが、リウはそのひとに背をむけ、右手で口を覆い、左手で胸を押さえる。悲しいとか悔しいとか虚しいとか惨めというなじみ深いものではない、胸の痛み。戸惑いながらも心の臓に異常がおきているのではないことは、なにとなく飲みこめている。その痛みは、疲弊させるものでなく、甘やかで豊かなもの。損なわれず、充たしゆく。

 そよ風に頬を拭われつつあてどなく歩みはじめ、息を整えてゆく。茶がかった瞳は洗われ、翳りが雲散し輝きを放っている。わからぬことに変わりはなかったものの、それでも進んでゆこうと意を決めている。ゆらぎはするだろうが、ぶれはしない、思い。

 白やあか紫の満開のツツジの群生にふれるように歩いていて、ふと歩がゆるむ。ツツジの陰から、かすかに人声がし、グエッと牛ガエルの鳴き声のようなものとともに、なにか大きな物体が落ち、地をひと打ちしたような音が立つ。

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