第24話 洗われた布のなかで
たらいの縁にとまっているウスバカゲロウに息を吹きかけるもじっとしている。華奢な羽根をそっとつまみ、岩のうえに静かに置くと、ふわふわと羽ばたいていった。
たらいを持ちあげ、抱えもつ。当たり前だが洗うまえよりずしりと重みを増していて、左手を底におき、胸を支えにしてようやく持ちこたえる。もっとも内容量はふたり分であり、さまで多いわけでもなかったのだが、ししづきの薄いリウには軽々とこなせないというだけのこと。さりながらその重量感は不快ではなく、快であった。
はじめのうち、モリゾウは、身につける物をかえることを拒んだ。リウはおハツに頼み手を煩わせ、自分のものをふくめ換えを用意してもらい、ときには慣れないながら縫いなおしをしたりもして根気よく勧め、着がえさせることに成功し、自ら定期的にそうするようにまでなって、洗うことができるようになったから、達成感のようなものがあった。
達成感のようなもの、成し遂げつつある手応え、といったようなものはそれのみならず、菜のはいった椀をはね飛ばすこともなくなったし、室内を掃除することを黙認するようになり、ときには自ら湯あみをするようにもなっていた。室内の、モリゾウ自体の臭気や見た目が日に日にかるく明るくなってゆく、という誰の目にもさやかな部分はもとより、眸子にやどる光がかわっていった。もとより眼光は強かったが、そこを覆うようにしてあった濁りが徐々にうすらぎ、澄んでいっていた。
川辺からあがり、せせらぎを後にして、松やクヌギの樹間をぬい、丸太を束ね築いた砦にもどる。常の昼間であるため開いている戸をくぐり抜け、敷地にはいる。すぐそばにあるイチイの木のほうへと、たらいを抱えもちむかう。
「相変わらず、精だしとるようやな」
ひげ面の男、ゲンタに声をかけられる。へつらうような作り笑い。ええ、とも、はぁとつかぬ曖昧な返答をおなじく作り笑いでする。鎌の刃をむけられ、あやうく命をつなぐ緒をたたれるところだった過ぎ去りしことが作用しているのか、リウはこの男がなにとはなしに苦手だった。こちらに来てから、粗暴な口をきかれたり態度をとられたりは一度としてなかったものだが。邪推でしかないのかもしれなかったが、我をみているのではなく、我を透かしシュガだとかモリゾウを見、処する態度のように思いなされてならず。
たらいを地面におろしたとき、遅まきながら思いつく。おおきにと礼をいうとか、ゲンタさんこそ、とお愛想いうべきだったろうかと。すでに用事を済ませたゲンタは、遠ざかっていた。
背におぶった赤子の泣くのをあやしながら洗った物を広げかけてゆく女がひとりいるだけで、そこには他にリウひとりしかいない。丈のある杭を幾本も打ちこみ、綱を張りめぐらした物干し場だった。遮蔽物がなく、風とおしがよい。住人の大半が利用していて、干すだけではなく、井戸端会議の場所にもなっていた。井戸端ではないのだから、物干し端会議といった方がよいのかもしれぬ。
その物干し場会議で、おハツをはじめとして幾人かとはなしを交わすようになっていった。おハツは子がいて、世話好きなこともあって、彼女の介添えがあり。また、顔のひろさから、住人の動静にくわしく、よくはなしてもくれていた。おハツが引きいれてくれた輪のなかで、リウはモリゾウの件を耳にしたのだった。
ーーほんま、じゃまくさいわぁ
ーーうちはもう勘弁な
ーーオラほも、すまんけど、もうやんた(嫌だ)
ーーとはいうても、誰かはやらなあかんやろ
じん気もあろうし、私的な会話を交わす場であるため直截な言が飛びかう。他人ごとですむ話しでない、ということもあろうし。モリゾウの身のまわりの介助をどうするか、要するに、だれがやるのかが争点になっていた。単純に煩を厭うというものでなく、ほとんどの者が担った経験があっての発言のようで、毎回ーー毎日のように、だろうかーーこのようなやりとりがあり、押しつけあいたらい回しにされているらしかった。その時点でリウは、モリゾウに一度引きあわされ短い時間みていただけではあったが、そうなるのもむべなるかなという印象をうけている。
喧々囂々、収拾がつかず。そんななかで、リウは挙手したのだった。吾がやりましょうか、と。
ひとりがぎょっとした目をリウにむける。リウの発したこと葉が染みわたるように、その場にいた者らの口が閉じゆき、目がそそがれてゆく。しゃべり声が途絶え、いっせいに目線があつまり、リウはたじろぐ。
ーー大丈夫なん?
はじめに口火をきったのはおハツだった。案じながらも、ほっとした気味がある。
ーーそやで。どんなんか知らんやんか
ーーんだ、んだ。けんど、若ぇ男衆だば、またちげぇかもしんねな
表立って積極的に賛成するものはいなかったが、反対するものはなく、リウはみなの本心をくみ取った。みなにとって渡りに舟であったろうし、それはリウにとっても然りであった。
シュガがなにを思い、ここに何かしらさせるために連れてきてくれたかがあるとすれば、リウには見当もつかない。なにかの役に立てそうだとは、自分自身を思えなかったから。賊をやれと言われても、やれないだろうし、まず、したくない。かといって、わらべでもなく、無為徒食で平気ではいられない。何かしらしなくては、それは同時に何かしら自分の居場所を確保したいという思いであったので、モリゾウの介助が活路になるのではと閃いた、ただそれだけのことだった。
好印象とは言いかねるものの、モリゾウからさほど不快の念をうけず、なにとなく、どこからくるものか、親しみみたいなものを感じていたこともある。それは夢で彼を目撃していたせいもあるのかもしれぬ。機会があれば、夢での出来事を聞いてみたい、という心もちもあった。あのわらべはどうなったのか。あの洞穴はなんだったのか。そして、よく歌っているわらべ唄についても聞いてみたい。
まだ何も聞けずにいたものの、だいぶ距離が縮まってきた感触はある。やると自ら名のり出たものだったが、初めは口をきかぬどころか目もあわせようとせず、ほとんどナナカマド酒しか口にせず、食の椀にはほぼ手をつけず、つけるとすれば払い飛ばすときばかりで、自分には荷がすぎたことだったろうかと落ちこんだりもしたものだったが。思いかえせば、ひとつ、ささやかなことであるかもしれぬが、きっかけとなるのでは、ということがあった。
そのときの献立は、マタタビのみそ漬け。ヤブカンゾウとウワバミソウを刻みいれ炊いた麦飯。スベリヒユの汁物。リウと同郷か、ちかいふるさとの出らしい中年女が、リウの分とともにこさえてくれたものだった。料理するひとの腕前もあるのだろうが、郷里をはなれてからこちらにきてはじめて、美味しいとおもい食した。附近で豊富にきのこだの山菜がとれ、しかも新鮮だからだろうか、こちらのものは舌にけざやかにひろがる。身に、しみじみ染みわたるようなかんじがする。そういうこともあって、モリゾウが無駄にすることを苦にかんじていた。そのときもまた、椀を払いまかした。黙って片していたリウだったが、思わず口をついて出る。
ーーなんで、こんなことするんですか
言ってしまってから、しまったと自分がでに愕き、しまったと思うが、後の祭、ええままよ、と覚悟を決める。打たれるかもしれぬが。
食べたくない、好みでない、そういうのもあると思いますよ。それならそれで食べなければいいだけのことではないですか。気にいらないものだとしても、作ってくれたひとがいて、食材も生きていたもので、餓えて亡くなっているひとが今もいますよ。すこしそういうことを冷静になって考えてみたらどうですか。
そういう内容のことを、長くはなすことに慣れていず、ましてや他人に意見をすることなどなく来たため、しどろもどろになりつっかえながらも最後まで話しきる。途中で手なり足なり出て中断させられるだろうと予想していたが、反して怒鳴り返しもされなかった。馬耳東風だろうか、とおもいもしたが、翌日からは食事をとるようになり、徐々に無体をはたらくことが少なくなっていったのだった。もしかしたら、とリウは思う。もしかしたら、きちんと向き合ってほしかったのではないだろうか。
洗濯した物を干し終える。赤子を背負った女はすでにいなくなっている。はためく布のなかにいて、リウはほっとため息をひとつつく。
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