第17話  槻と狭野方

 のぼり、くだり、どこまでも滑りゆくようなかろやかな鳶の声。そして中空をのびやかに旋回する。鳥影から、葉や枝で覆われた部分にもはてなく蒼穹がひろがっていることを教えられる。

 荷台を利用させてもらったことを農夫に謝し、三人と一匹はふもとの土に足をつける。ここがシラギ山のふもとであるらしい。しばらく揺られ揺られしていたため、地面がゆれているような感じがし、多少脚がふらつく。踏んばった足もとに、リウはミミナグサの花をみた。ために、

「しばし待て」

 シュガが言いはなった台詞にほっとさせられる。もの言いに警戒だとか怒気はなく。タマはニジのそばにしゃがみ込み、ひとつ摘んできたエノコログサをふってみせている。ニジはじゃれることなく毛づくろいをしていて、相手をされないため苛立ったタマはエノコログサのさきを光沢のある黒い毛なみの胴にペシペシあてたりしている。

 シュガは太いケヤキの根方にいた。幹にサノカタが絡みつき這い上がっていて、こぶりな紫いろの花を鈴なりにつけている。懐から笛をとりだし、左側に上半身を幾分かねじり、桜樺の唄口に唇をつけ、かまえる。すぐに音を立てない。どうしたのだろうか、とリウは目をあげ、かまえたままの姿勢であるシュガをそっと見まもる。目を閉じたその姿には緊張感はないものの、なにかに集中し、読みとろうとしているような気色がある。なにかがシュガのうちで凝縮してゆくようにかんぜられる。

 ふっと、草のそよぎが止み、鳥の声も虫の音もたえた。ニジは毛づくろいをやめ、まるい目を宙にすえ耳を澄ます。あ、来た、とリウはかんじる。と、その刹那の間隙に、蓮のつぼみがはぜるように笛の音がほころび、ひらく。停止していた外界のもの音が再開し、伴奏となる。

 複雑で、同時に純一である、豊穣な諧調。禽獣の、虫の、そよぎの、鼓膜をふるわすそれらのみが音色を奏でているわけではないことをかんじさせられる。木漏れ日が、草木自体が、石や土が、自らの細胞ひとつひとつが、それぞれがそれぞれの音色をかなでる。

 リウは目を閉じてはいなかったが、なにものをも見てはいなかった。なにものをも見ていた、とも言いえる。外のみならず、内をも。おぼえず、リウは声帯をふるわせていた。それは声ではなく、したたりであり、せせらぎであり、波紋。日や月や星をうつし、葉や木っ端をはこび、いのちをかかえる清水。こと葉にはならないそれが、こと葉にはならないものをもふくみ、しずやかに流るる。・・・・・・

 飛沫がはじけ、かがよう。あたかもいまのいままで流麗なしらべに浮いてでもいたのが着地したかのように、はっと吾にかえったリウは、サノカタの絡んだケヤキのもとにたたずむシュガの容子を認める。目をとじたまま、唄口から唇をはなしたところだった。なにか歌うまでもゆかず、唸っていたようだと自らのさきほどまでが意識にのぼり、一瞬身が縮む思いで息をとめたが、直にほっと息をつく。咎めたり嗤ったりするものはひとつとしてない。そうするものがあるとすれば、それはおのれの内に湧くものでしかない、となにとなくどこかで感じとりできたものだから。

 黒い蝶、白い蝶が、絡みあうように宙をひらめき舞っている。とき色のはなびらがひとひらおりてきて、ほんのり穏やかな花の香がただよう。

「待たせたな。ゆこうか」

 笛を懐にしまったシュガの口がひらく。返事をしようとおもい、顔をむけたリウは視線をとらえられる。とびいろの瞳が微細になみだつもそれはうたかたの存ずる間であってすぐに凪ぎ、そして鋭利な双眸に定まる。猛々しいいろも、残忍ないろも、そこにはゆめさら表れてなくて、静謐が領している。さりながら躍動をかんじさせる。静止してみえる焰が、そうみえるだけのことで決して寸刻たりともとどまることのなきが如くに。

 怖さをおぼえない、といえば嘘になる。あわせて、いたずらに怖がることはないともおもう。さりとて、怖さを閑却し、馴れてしまうことが剣呑であることを、覚ってもいる。どのようなものであれ、危険をともなわないものなどひとつもないのだから。

 ときに暖となりあたりを照らし煮炊きをさせながら、ときに傷をおわせたり焼きつくす。それは他のみならず、自をふくめ。

 こちら側がどう向きあってゆけるか、が大きく作用してゆくものなのではなかろうか。

 薫風が、リウの方からシュガの方へと、ゆるやかにゆきすぎる。シジュウカラのさえずり。

「ゆこうか」

 シュガは皓い歯をみせる。花々の笑むサノカタとケヤキのもとで。

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