第16話 チガヤとネフリの木の花

「そや」

 なにか思いついたとでもいうように、シュガのかけ声がして、荷台から地に降りたつ音がした。

 ときおり、思いだしたかのようにする農夫の低い声。シュガとひと言ふた言はなしを交わしたり、どうやら馬にはなしかけたり、ひとりごちたりしているものらしい。その他はタマがよく話すだけで、ひづめが地を蹴る音、車両の轢り、葉ずれ、トビの啼き声がしたりするくらいで、耳に障るようなもののない、なだらかな時が流れている。

 青翠の湖面に、しろがねにひかるさざ波。リウは湖水を想起していた。日をふくみゆれるチガヤのわかい穂の群生をながめていて。もしここがみずうみだとすれば。いま、舟にゆられ進んでいることになるだろう。シギや千鳥、都鳥が水面にすべりゆき。ワカサギ、ヘラブナ、コイ、ハヤがそんな表層のものらには無関心にゆきかう。水にこされた日のいろが、鱗を、水草を、つぶやくようなあぶくたちを彩るなか、湖底にいる蟹たちはそれらを見あげ、生々流転を目にしてはなにか会話をかわしているのだろうか。ときには、熟しおちた果実のゆくえを見たりしていて。

 ゆらめく水中に、滲むようにあらわれ出でくるものがある。しろい影のごときもの。煙のようなそれは、たおやかな女人の輪郭になったかとおもうと、ほそまり、純白の光沢をはなつ鱗をまとった白蛇となった。日をかえして、ではなく、うちからやわらかな光を発している。ホオズキの実のように、艶のある朱い目。なにをいわれるでもなく、伝えられるでもなく、いや、ただただこちらに受けとるだけの能力が欠けているだけのことなのかもしれなかったが、いずれにせよ静謐なまなざしでみつめられている。

 ひさかたぶりの邂逅だった。両親が亡くなり、依り代としていた石を棺桶におさめるよう伝えられた後は、尊容を拝することはなくなっていて、父母とともに去ってゆかれたのかと思っていたものだった。仕方がない。こんな自分だもの。

 さりながら、そうではないのかもしれない。ずっと見守ってもらえていたのかもしれない。すずろに、母や父の気配もかんじられるような気がする。そして、母の歌声がよみがえってくる。

ーーひんのわらすはくれえ玉

ーーすいのわらすはしれえ玉

 日の童子はくろい玉。水の童子はしろい玉。それをニジという聖獣が運ぶのだという。あめつちの結び目、という場所に。その意味するところは皆目見当もつかないものの、内容についてはいま、別段気にならない。歌ってくれたときのやさしい声色、ぬくもり、ゆっくり拍子をとって背にてのひらをあてられる感触。・・・・・・

 えッ。ゆだねていた景色に、揺らぎがおこる。平べったい小石をとばし、水面を跳ねさせた際にできる波紋の如きもの。浮き上がるように意識がもどりゆき、目をみ開く。

 しろい尾のようなものが、まつげにふれそうなほど近くにあった。しっぽにしては、細く、長く、獣の匂いがしない。見覚えのある、白銀にみえることのある穂。チガヤ、ととらえ得ようとするたまゆらに、

「そら、やる」

 シュガの声がした。ぶっきらぼうな調子がある。彼が差しだしてくれていたものだった。降りたち、折りとりてきてくれたものらしい。数秒、穂をみつめ、ああと思いあたり、ありがとうと礼をいい受けとる。ツバナ(花穂)を噛むと口中に甘味がしみ込むように広がる。いとけない時分、そこらでむしってはよう口にしたものだった。

「ふーん、そうなんやぁ。うちらにはくれへんねやてぇ」

 タマがニジを引きよせ抱きあげ、語りかけるように言っている。

「どないなっとるんやろなぁ」

 なんの抵抗もなくあたえられるまま受けとり口にふくんでいたリウは、そのときになっていまの状態がはっきりと見える。状態が見えはしたものの、なにゆえこの状況になっているのかまでは理解が追いつかない。シュガはシュガで、さらぬていで、積荷の茅のうえにもろ手を後頭部にして仰向けになっていて。空を睨むようにしていて、取りつく島もない。

「あ、ごめんなさい。これあげよ・・・・・・やないな、とってこようか」

 しどろもどろなりながら、立とうとするのを、タマに制される。

「ええてええて。とるならうちがとってくるし。トロくさいんやからいらんことしてコケられてもかなわんわ。・・・・・・にしてもなぁ、なんというかなぁ、難儀なこっちゃなぁ」

 タマはニジにむかったまま、呆れたように微苦笑していう。言っていることは辛辣だったが、かといって、侮る風はつゆさらない。

「ぶぁはははは」

 花火が打ちあがるような勢いで、シュガは高らかに笑い声をあげた。堪えきられず、といった格好で。

 突然の哄笑にリウは唖然としていると、そのようすを横目でみていたのかタマも吹きだし笑いだす。なんのことかさっぱり判らないでいたが、ともかく不快がっていたり不快がらせようという働きではないらしいとは判断でき、ほっと安堵した。頭上には、ネフリの木の、細密で可憐な花が笑んでいた。

「・・・・・・ほんま、かなんなぁ」

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