第15話 泣き虫イワ

 ・・・・・・

 まことに美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん


 ウツギ、橘が流れ去ってゆく。うす汚れた犬、山鳩、往来のひとら、建物も、流れ去ってゆく。

 奉公した幾とせかを過ごした地。屋敷でのこと、主一家やフク、キユら奴婢仲間、そう老爺も。打擲され罵倒をうけ、それがなくなった後も、親しくなれるものはなかった。親しいものといえば、井戸だろうか。中庭にあったジュデの木と。傷のついたその幹に、手でふれ、頬をあて、両腕をひろげ全身をあずけたこともたびたびあった。ひんやり硬く、それでいてあたたかかった。その木の実と水で染めあげた糸の束。

 いろどめに漬けおいていたものは、無駄になったろうとおもう。いろどめしたからといって、そのまま取りだし干せばすむ、というものではないのだから。生きものを育みゆくことと寸分なんらたがわぬ。いや、たがわぬではなく、生きているもの。リウはそうかんじている。その生きた、けざやかな紫の糸にふちどられたことごとが、遠くへと流れ去ってゆく。その彼方には、ふるさとが、父が、ははが。・・・・・・・

 さわさわやわらかな毛が手のこうを撫ぜる。ニジが体をこすりつけてきていた。黒い毛なみをなでる。タマがわきにいて、脚をぶらぶらゆらし、くちぶえを吹いている。シュガは積荷の茅のうえに仰向けになり、天をながめている。雲のすくない青空に、月のかけらがうっすりみえている。

 シラギ山の前をとおるという農夫の荷馬車に、相伴させてもらう。荷台に茅とともに三人はいた。

ーー声かけてゆかな、て人おらんのか

ーーコエて?

ーー世話になったひといてないか、仲良うしてたひととか

ーーああ、いてないこともないけどなぁ、まぁそういうのもいらんっちゅうかなぁ

 荷台に乗りこむまえ、シュガとタマがやりとりしていたもの。横で聞いていたリウは、自分も挨拶してゆきたい者はいないとおもったものだったが、ふといまそのふたりのやりとりを思い出し、だんまりさんには何かしら言ってゆきたかったかなと思いあたった。ただし、労りのようなこと葉をかかけられた別れ際、かるく会釈できたから、それでよかったのかもしれないけれど。なにとなく、ひと目みておきたいような気もされ。もしかしたら、と感じるものがあったのだ。もしかしたら、リウの立場がいくらかでもよくなるようそれとなくまわりに働きかけてくれていたのではないか、と。

 そんな気がされただけで事実はどうだか分明ではない。さりながら仮にそうであったとしたら。そしてだんまりさんに限らず、知らぬ気づかぬところで、なにかしら労られ助けられしてきたのかもしれないと思いいたる。自分なんて、と苦しがってばかりで、これっぽっちも他に目をむけようとしていないなかでも。なんだろう。申しわけないような、同時に、ありがたいような、そんな思いがいちどきに湧いてくる。

 うつむくと、ぽたぽた水滴がおちる。ふたりのいない方へ、それとなく顔をむけ、指で目もとを拭う。快晴で風がふいている。まつげの湿りも、すぐに散り消えてゆくことだろう。

 人家がまばらになり、なくなり、荷馬車の車両がごとごと音をたて、揺れがおおきくなってきた。草木が繁くなってゆく。

「おサワの磐じゃ」

 いつの間にか起きあがっていたシュガが、左方向をみた。

「おサワのいわぁ?」

 なんやそれ、といった調子のタマとともにリウもそちらをみた。木蔭にしめ縄をかけられた磐座があった。したたり落ちる水があるわけでもないのに、水気をおびた苔が繁茂している。

「ああ、泣き虫イワな。そんなら聞いたことあるわ」

 おサワの磐も、泣き虫イワも、リウは知らず、タマに問うと、

「なんでもなぁ、女のひとのつれあいがこんあたりで亡くなったんやて。病なんか殺されたんか。で、女のひとが泣いて泣いてとうとうイワになったて。ほんで今でも泣いてるようにイワから水が湧いていてな、どんな日照りでもかれることはないんやて」

 その女人が、サワというのか、とリウは遠ざかりゆく磐座を眺める。オオルリがさえずり、苔のもとに降りたつ。

「なんか、だれかさんみたいやなぁ。泣き虫て」

 タマのからかう口ぶり。気づかれていたのだろうか、とリウは赤面しそうになりながらも、なんのことか判らないふりをして、おサワの磐に面をむけている。そばにある葉うらには、カタツムリだのナメクジだのがあることだろう。そうおもってみるせいか、わかい女人がみえるようだった。哀しみにくれるようすはなく、見守ってくれているような感触があった。あたかも、姉が、年のはなれた弟に慈しみの目をむけてくれているかのような。

「下弦の月からいくじつかたったばかり。朔がくるまえにたどり着けそうじゃな」

 シュガは伸びをしてあくびをひとつすると、そういった。そうできてよかった、という響きがあった。なにか理由があってのことか、気分の問題なのか、リウはわからなかったが、聞きはしなかった。タマも関心を示さず聞きながしている。いつ着くか、よりも、着いた先がどうなのかが気になるところではあるのだし。

 ショウビタキの啼き声がする。チガヤがあたりに茂りはじめた。

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