第14話 花びらのゆびさき

 ・・・・・・

 現世はかくてもありぬべし

 後世わが身をいかにせんずらむ


 声を絞り出そうとし、握る手で叩きながら、ふっと壁が消えたのをかんじる。いや、壁が消えたというよりも、またべつの場所に移動したものらしい。さりながら、精いっぱい行っていたことであったため、その勢いで腕をあげると、重しをつけられでもしたのかと思うほど重い。重みは腕のみならず、喉も体全体もしかり。重みをべつの角度から見れば、実感だとか実体ともいえるかもしれない。声を出そうとおもえば出せそうではあった。

 もちあげた腕がとみに軽くなったかとおもうと、上半身がうき上がる。あたたかい感触。あ、あの子だと直感する。生きていて、来てくれたのだ、と胸が熱くなる。

「・・・・・・ほんとよかった。生きててくれて」

 垢まみれ土まみれだろうけれど、そんなことに拘泥することなくかき抱く。うれしい喜びもさることながら、感謝のおもいで胸がふるえた。

「ありがとう。生きててくれて」

 内に熱いものが噴き上げてくる。触れ、触れられするなかで、これは稚いもののししむらだろうか、という違和感がわいてくる。そもいま自分はどこにおかれてあるのか、と意識が急速にあつまりゆき、目をつむっていることに気がついたとき、

「・・・・・・われは死なぬよ。大丈夫じゃ」

 馴染みのある声が耳にふれる。はっと目をひらいたときには、状況をあらかた把握できていた。

「まだ死んではいられぬし、なにゆえか、死んではならぬようにおもわれてせんないのじゃ」

 シュガだった。リウはうろたえながらも不快がられてはいない様子と、なにかを思いだそうとするかのような相手の気配に、急に離れてはいけないような気がされる。

 先刻、シュガをあのわらべと見なした。わらべが実在して、事実あのようなことがあったのかどうか判断はつかない。単なる夢であるのかもしれない。夢か現かはべつにして、寝ぼけてとり違いしただけのことかもしれない。そうではあったが、先に直感したことがなぜか揺るがない。動かしがたい事実であるかのように感ぜられてならない。あの子が、このシュガなのだと。

 だからなのか、ひどく懐かしい。それとも、害意なくひとから懐抱されることは父母が亡くなってからはじめてだったからだろうか。ましてや自分から懐抱するというのは初めてのことで。明るくつよい力が伝わってくる。

 ただ、なんだろうか、そこに絡みつき抑えつけているものがあるような気がされる。絡みつき抑えつけし、奈落の闇に紐づけられているような。これはなんなのだろう。それでいながら、いくら泥をかぶったとしても汚れがしみ込むことなく、洗いながせば照りかがやく琳瑯。・・・・・・

 玉響のときだった。繊細な氷彫刻であるかのように、そっと体を離される。離されたリウの視界に、タマやニジがはいった。日が隅々まで行きわたったなかで、タマは紐をゆらし、ニジにじゃれさせていた。急に恥ずかしくなり、こうべの熱があがる。だれにともなく、小声で謝る。

「ごめんなさい」

「いや、かまへん」

 シュガは笑みをふくんだ声で応じる。顔を見あげることはできなかった。

 朝まだきの澄んだ空気のなか、すずめのさえずり、カラスの啼き声がしている。タマとともに床を片していて、チュンナチュンナと無意識に口ずさむ。そよ風のようなちいさい声であったが。

「ちゅんなんたら、ってなんなん」

 タマに耳聡く聞きつけられ問われる。都人にあらずんば人にあらずと侮蔑する者が多い傾向が、奴婢のなかですらあることをみてきたせいだろう、内心なにとなしに、しまったと悔やみながらも、ふるさとである北の国でそう称するのだと教える。

「そうなんや。ほんまなぁチュンナって、鳴き声そんなかんじやしぃ」

 タマは嘲るでもからかうでもなく、おもしろがり、唄を聞かせてくれるようねだってきたりした。ああいいよ、と応えながら、シュガはタマが女の子だと知っていたのだろうかと内心小首をかしげている。タマをみて、驚くでもないようすだったから。それとも、自分が寐ているあいだに、そういう応酬を済ませてあったのだろうか。

 いまは、髪は短いままだったが艶のある黒で、若草いろの着物を身にし、利発そうなつぶらな瞳でしろい肌をし、どうみても女わらべにしかみえない。

 いや、それよりもはるかに気になっていることがあったが、リウは聞けずにいた。意識自体むけないようにさえ努めていた。そう、裏を返せば努めなければ、どうしてもそちらを向いてしまうのだ。

 シュガの身に、おしろいだとか香の残り香はなかった。付着した匂いでいえば、土とかすかに鉄気と血。全体的に土をかぶり、片腕にはすり傷がみえた。香のものや汁物の簡素な朝餉をすませた後湯をつかい、すり傷のほかは消えていたが。女将からにおわせられたような艶なことをなしてきたのではなさそうだったが、それはそれで平気なのか案じられてくる。

 タマは察してか、本人が関心をもってか、往来に出たとき聞いていた。

「おっちゃん、夜がな夜っぴてどこほっつき歩いてたん」

 シュガをおっちゃん呼ばわりすることに、シュガ当人はまったく気にならないようだったが、リウははじめ抵抗があった。とはいえ、おっちゃんおっちゃんと当たり前のようにいうため、そういうものかと馴れはじめていた。

「おっちゃんは、遊びまわってたわけやないぜ。まぁ掃除というか、ヤイトというか、われがいえた義理でもないんやが」

 この辺りの、柄のわるい輩にくわしいひとに会いにゆきはなしをし、あの三人の若人を突き止め、はなしをしてきたのだ、と簡単に説明した。ふぅん、そうなんや、とタマはたいして関心がないのか喰いさがることはなかった。関心がない、ではなく、詳しく聞かなくても予想がつくからかもしれない。

 はなして済んだのだろうか、そうではあるまい、タマはタマでなぜ気にならないのだろうか、とリウは疑う。つまり、それだけリウの関わってきた世界とは異なる世界だったからだが、そこには思いいたれずにいて。要するにタマに評されたとおり、「おぼこい」のだった。ために、両斑の子息らに絡まれたわけもまったく推察できない。タマに用があるわけではない。その前にタマを助けるためシュガが出した金子。それ狙いであることに。

「やつらは両班(官吏)のドラ息子。文官のな。なにゆえかたいていごろつきになるのは文官のボンでな。不思議なもんだが」

 そういえば、自分のかつて奉公していた家は、両班の武官だったとリウは思いおこす。およそ武のにおいの感ぜられないところではあったが。それはともかくとして、

「・・・・・・あまり無茶は、されないほうが」

 ほんとうは、するなと止めたり、しないで欲しいと願ったりを口にのぼせたかったのだが、さすがに差し出がましいだろうとおもい、濁す。

「はははッ。案じてくれてるのか。案じることはない、われは死なぬよ。こんなとこではな」

「そやな。殺しても死なないようなやつて、おっちゃんみたいなんやろ」

 タマはからかうように言っている。シュガはとりあわず、そうかもなぁと笑っている。死ぬ死なぬだけでなく、おおきな怪我をする可能性もあるわけだし、とリウは腹のなかで反論する。

 いささか不満そうに下をむいて歩いているリウの手が、タマの背にそっとそえて引き寄せる。向かいからひとがきたことにタマは左方向にいた犬に気をとられていたためこころづかず、ぶつかりそうになったからだった。若草いろの布に、うっすり紫にそまったゆびさき。なにとはなしにシュガの目にとまり、花びらのいろを想起せられた。藤の花のようだ、と。

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