第3話

 春の訪れを喜ぶ虫の歌声は、とめどなく降る梅雨の水滴たちで流されて、けたたましい蝉たちの大合唱へと取って代わられた。一年で一番騒々しい季節。夏がやってきた。

 コウイチさんが苦労して抜いた庭の雑草も、息を吹き返したかのように生い茂った。チエさんは、その草を分けたり結んだり遊びながら、カエルやバッタを追いかける。引っ越してきたときには、ひょろりとか細かった脚も、心なしか頼もしくその小柄な身体を支えるようになった。

 チエさんが、小さな両手でミドリガエルを捕まえて、サトコさんの前で手を開いたときは、飛び出したカエルがサトコさんの顔に引っ付いてしまって、普段はお淑やかなサトコさんから、滑稽な悲鳴が引き出された。落ち着きを取り戻したサトコさんと、呆気に取られたチエさんはしばらく見つめ合って、二人同時に吹き出した。アハハハという笑い声が二重に聞こえて、驚いた私とサトコさんは、まだ収まらない笑い声の主を見た。チエさんだった。サトコさんは、慌ててチエさんを抱きしめると、驚きで丸まっていた瞳がみるみるうちにぐにゃりとゆがんで、大粒の涙がぼろぼろ零れ落ちた。チエさんは、肩を湿らせたものが母の涙だと気づくと、せっかくの笑い声を止めてしまう。少しの沈黙のあとに、お母さん、と涼やかな音が鳴った。自分を呼ぶわけでもないのに、心地よい余韻が耳を震わせたる。それが私の初めて聞いた、チエさんの声だった。

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