第2話

 少女の名は、チエというらしい。父母がそう呼ぶので、私も習ってチエさんと呼ばせてもらうようになった。チエさんは小学校に通う三年生であり、この家族は、今は亡き主人の遠い親戚にあたるようだ。年の割に小柄なチエさんが、それにしてもひどく大人しい印象を受けるのは、彼女が一つも言葉を喋らないからだろう。夜、座敷から僅かに漏れ聞こえる父母の会話で知ったところによると、彼女がある日喋らなくなってしまったことで、二人はこの平屋に越す決心をしたのだそうだ。山間にぽつんと建てられたこの家は、人々の営みからは遠いものの、生き物の息遣いは絶えない。なるほど、たくさんの音に囲まれれば、チエさんも言葉を取り戻すのかもしれなかった。

 学校をお休みする代わりに、父母はチエさんを連れ立って散策に出かけた。父のコウイチさんは森の端や丘の上に、母のサトコさんは野原や小川に連れて行った。けれど、チエさんは平屋の周りよりも庭や桜の木が気になるようで、コウイチさんが庭の草を引いてからは専らそこで遊ぶようになった。自然と私も、チエさんのそば傍にいることが増えた。


 ある時、チエさんは、そっと桜の木を触り、しばらく撫でてから、片耳を幹に押しあてた。何をしているんだい、と聞いても答えはなく、そのうち目を瞑ってしまった。手持ち無沙汰な私は、チエさんに倣えば何かわかるのだろうかと、おずおずと桜の木に手を伸ばした。それまで咲かない桜の木になど興味はなかったので、思い出す限り、初めて触った木肌は所々朽ちていて、少し強く指でなぞれば剥がれ落ちてしまいそうな様は、その老齢さを物語っていた。

 チエさんをちらと見る。まだ目を瞑ったままだ。おそるおそる、私も木肌に耳を近づけた。何も聞こえない。目を閉じる。遠く、ウグイスの鳴く声がして、木々が揺れる音のあとに柔らかい風が頬をなでた。庭の外で、若葉が擦れ合う音がする。虫のざわめきが立つ。風が凪ぎ、周囲の音が静まったとき、幹の奥から、とても小さな音が聞こえた気がした。片耳に意識を集中させると、さあさあと、弱々しくも、水の流れる音があった。根から吸い上げた水が、体中をめぐる音、桜の血管の音だ。葉もつけない桜は、まだ生きているか。

 チエさんと私は、桜の木にぺったりとくっついて、その細やかな命の音を、しばらく息を潜めて聞いていた。

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