その涙を拭わせて

北野椿

第1話

 その日が来るまでの長い間、私はただ、己に与えられた茫漠とした時の流れに身を任せていた。此処ではない何処かへ向かうには、私の体は重く、すべてを手放すほど深い眠りにつくには、辺りはあまりに賑やかだった。山稜から私の在る麓にかけて、春から秋までは草木も獣もころころと表情を変えて飽きなかったし、何より遠く潮風が運ぶ梅の香りが、泥に沈むような冬の眠りから私を覚まさせた。何をするでもなく過ごす年月の中で、様々な色彩や盛衰が私の前に現れ、また消えていった。気づけば、何かのために在ったであろう己の役割も思い出せなくなっていた。この草原の、私の在る平屋は、主人が居なくなって久しい。


 幾つの年月が過ぎただろうか。その始まりの音は、雪を踏みしめる小さなものだった。狸よりも慎重に、かと思えば兎よりも思い切り良く近づいては立ち止まる足音は、微睡む私をそっと目覚めさせた。眼を擦って開けば、裏庭に一人の少女が佇んでいる。見慣れないふかふかとした羽織りを身に纏い、先にうさぎのしっぽのような柔らかい毛をつけた毛糸の帽子を被っている。見開かれた瞳が、私を捉えていた。

「これは、失礼」

 私は、はだけた着物を整えて、少女へと向き直る。お嬢さんは迷子かい、そう問いかけて、はたと我に返った。人の子に、私が見えている訳も無いだろう。

 少女の視線を追うように、腰掛けていた岩に手をついてふり返ると、そこには、新芽もつけずに寒々とした、桜の大木がひとつあるきりだった。庭の草木は四季に移ろいゆくというのに、庭の隅に在るこの桜の木だけは、枯れてしまったように時が止まっている。

「あの木は咲かないんだよ」

 自然と口から言葉が漏れていた。聞こえてはいなくても語りかけてしまうのは、主人から移った癖だった。返事もなくただ桜を見つめる少女を前に、私は、寒くはないかい、と言葉を続ける。答えを聞かずに開きかけた唇に、己が話し相手を求めていたのだと気付かされる。

 少女は何も言わなかったが、霜焼けた赤味と対照的に細く吐く息は白く、冬の空気に溶けて、微かに私の頬を湿らせた。それは、突然現れたこの子供が、夢やまやかしの類ではないことを語っていた。

 ややして、門の方から大人の男女の声がして、少女は平屋の表へと駆けていった。

「またおいで」

 後ろ姿に声をかけて、出隅の陰に消える背中を見詰めながら、その「また」はやってくるだろうかと独りごちる。再び横たわれば、人の熱に触れたせいか、ひんやりとした岩肌の冷たさが胸に滲みた。


 梅の香りが届けば、雪解け水が小川のせせらぎを蘇らせる。水音に誘いだされたかのように、雪の間から草は芽吹き、山に住む動物たちが麓にも現れる。朗らかな陽射しと生き物たちの熱気が、景色の白を取り除いていった。

 ささやかな春の喧騒に紛れて、平屋には再び滑る箱が現れた。今度は二つ。小さい箱から少女と大人たちが、大きな箱に乗ってきた制服を着た大人たちは、次々と箱から取り出した家財道具を設置すると、足早に去っていった。

 そこで漸く、私は、少女とその父母がこの平屋に越してきたことを知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る