第6話

 二度目の春が来て、夏が過ぎ、秋の実りがもたらされ、冬の眠りが明けて、また春が来て。それを繰り返すたびに、あんなにも小柄だったチエさんは、気づけばつくしのように背が伸びていた。長い腕は、老いた桜の幹を抱きしめられるほどになっていた。大木に支えられるようにくっついていたチエさんは、いつの間にか桜の木よりも頼もしく見えた。

 その年明けは、まだ寒いにも関わらず、チエさんが桜に寄り添う日が多く感じられた。ある夜、潮風に運ばれた梅の香で目覚めた私は、平屋の中に、見慣れないものを見咎めた。チエさんの机があった部屋に、たくさんの紙の箱が置かれている。

 日が明けると、チエさんは、せっせと紙の箱に自分の荷物を詰めだした。高校の卒業証書、中学で貰った歌の賞状、たくさんの友達と撮った大事な写真のアルバム、写真立てに飾られているまだ幼かったチエさんと桜の木。一通りしまってしまったところで、チエさんは俯いて、ハンカチで何度も瞼を拭った。私は別れが来たことを悟った。生きていても別れることが、この世にはあるのか。

 通り雨がざあざあとやってきて、チエさんは、慌てて窓を締めた。ガラス越しに、チエさんと一瞬視線があった気がした。


 その夜は、満月の光に照らされて、水滴を弾いた庭の下草がきらきらと煌めいていた。チエさんは桜の木に寄り添うと、耳を幹に押し付けた。瞼から、つうと一筋涙が伝って、傍らにいた私は慌てて拭おうと手を伸ばした。私の手は、なんの感触もなくチエさんの頬をすり抜ける。人ならざる私は、人であるチエさんには触れられない。平屋から、サトコさんの呼ぶ声がして、チエさんは自分の袖で涙を拭うと、はーい、と返事をして引き返していった。取り残された私は、チエさんに触れられなかったその手を、桜の木に添えた。手のひら越しに、轟々と水の音が響いた。耳をつけると、確かにそれは幹の内側から鼓膜を震わせた。耳を澄ませば、轟々という音が、二つ重なって聞こえる。耳をつけたまま、手をもう一つの音の元にあてた。一つは桜の木、そしてもう一つは、共鳴する私の鼓動だった。

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