第289話
「じゃあ僕はこれで」
「ああ、ありがとうな、アル」
酒場のマスターに今日はもう出ることを伝えると、雑な仕草で礼を言われた。
マスターは背はあまり高くないけどがっしりとした体格で、ごわごわした髪やもじゃもじゃの髭も黒々としていて迫力がある。実際、治安の悪い裏町で酒場なんてやってられるのは、この辺りの連中がマスターの顔を見ただけで大人しくなる――つまり過去にそれだけのことがあった――からだ。
「……」
もう行こうとしたところで、マスターがまだ何かありそうな表情をしていることに気付いた。
「何かあった?」
「ん? ああ、いや……な」
頼みたい用事でもあるのかと聞いてみると、歯切れの悪い反応が返ってきた。このマスターにしては珍しい反応で、それが余計に気になった。
「そんな顔されたら余計に気になるんだけど?」
ということで、素直に聞いてみる。この裏町では、気をつかって遠慮するなんていうのは美徳じゃない。言いたいなら言うし、喧嘩したいなら喧嘩するのが、この場所だ。……もっとも、その時に目の前にいる相手は見定めないと、痛い目を見るだけの結果になるけどね。
僕のそんな素直な言葉に、マスターの方も思い出すものがあったらしくて、意外とすぐに口を開いた。
「なあ、アルも忙しいんだろう? この場所を良く仕切ってくれているからな。実際に一年前じゃ考えられないくらいに、落ち着いた」
出てきたのはそんな労いの言葉だった。
なんだろう、急に……?
確かに僕は一年程前にこの場所へ転がり込んでから、ここを落ち着かせるのに貢献したと思う。このマスターみたいな人達が辛うじて保っていた裏町なりの秩序というのを、より確固としたものとして隅まで行き渡らせた。今では裏町の顔役といっても誰も否定しないくらいにはなっているし。
とはいえ、別に裏町のために働いたなんて訳ではないけどね。理由は二つあって、どちらも利己的なもの。
一つは、カミーロを殺した犯人として追われている僕が、身を隠す場所が欲しかったから。普通の街中がまずいのは言うまでもないけど、こういう場所でも誰に売られるかわかったものじゃない。だから、ここをある種の裏組織みたいに固める必要があった。
そして二つ目は、反撃の足掛かりとするため、だ。ただ逃げて身を隠すだけなら人気のない場所にでも行ってしまえばよかった。ゲーム『学園都市ヴァイス』の知識がある僕には、隠遁生活ができそうな場所にも心当たりがある。なのにコルレオンなんかに潜んでいるのは、情報を収集し、準備を整えて、僕をはめた黒幕にやり返すためだった。そのためには、裏町の顔役という立場はすごく都合がいい。
「だからこんな酒場の用心棒なんてしてくれなくていいんだぞ? 俺ならもう大丈夫だしな」
僕がこの裏町に転がり込んできた時に、最初に匿ってくれたのがマスターだった。その時に追っ手の衛兵に斬られて怪我をしたマスターの代わりに酒場で用心棒なんてことを始めた。
もちろんその衛兵はすぐに始末したからこそ、うまくここで潜伏できているんだけど、あの時助けてくれなかったらまずかったからね。血を流してくれたマスターに恩を返すのは僕としては当たり前のことだ。
「まあ、ずっとって訳にはいかないけど……、まだしばらくは手伝うよ」
「ふん、変な奴だな」
僕からすると僕を助けたマスターの方が裏町の住人としてはよっぽど変だけどね。とはいえ、ずっとではないと言ったのは本当にもうそれほど長くはなさそうだ。ただ逃げ隠れするためにここにいる訳じゃない。そろそろ準備も次の段階に進められそうだ。
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